本丸のひんやりとした廊下を裸足で行き来したい季節はもう終わろうとしているようだった。歩いているだけでつま先が凍える。まだ日差しがあるから耐えられるけれど、それも明日は崩れるらしい。
私は庭の枝たちを見た。今はどれも青いけれど、その内に葉を落とすものとそうでないものに分かれるのだろう。急な寒暖の差が、木々を金や紅に染めるのだと教えてくれたのが、歌仙兼定だった。明日、例え僕たちが凍えたとしても、木々は美しく色づくんだよと目尻を溶かしたのが、歌仙兼定だった。
底冷えの夜を越えた明日、わたしは、どうしているだろうか。
「はぁ……」
明くる日のことを考えるとため息が出てしまう。取り組む仕事は決まっている。出陣、遠征、結果に応じた刀剣たちの手入れ。それと、明日は週に二度の祠参りの日だ。
この本丸はつくもがみたちが生活できる空間を維持するため、敷地の要所に祠を作ってきた。空間を霊的に守ってくれている祠。その祠をこまめにまわり、きちんと管理するのも私の役目になっている。
掃除道具を持ってくれたり、万が一に備えた護衛も兼ねて刀剣男士がひとり、お参りするわたしに付き添ってくれることになっている。
明日の付き添いは歌仙さんだ。二人で、一番遠いところにある祠を訪ねることになっている。
「はああぁ……」
「なんだよ大将、さっきからため息なんかついて」
二度のため息が読書の邪魔になってしまった。見た目に似合わない古めかしい書から、厚藤四郎が顔を上げている。
「厚くん、明日の当番を代わってもらえませんか? 歌仙さんと」
「当番って……」
「祠のお参りです」
ああ、と厚くんはぼやく。
「明日は一番遠くの祠のお参りなので、ちょっと時間がかかってしまうのですが」
「オレの時間については構わねぇけど……。いいじゃん、歌仙さんで。大将、何かあったのか?」
「私というよりは、歌仙さんが」
肩をすくめる。厚くんも姿勢をなおして、真剣に私に向き直った。
「変わったところがあるようには見えなかったけどなぁ」
「わたしに対してだけですからね。最近ちょっとよそよそしいというか、距離があるような……」
「ははぁ……」
「隠し事は、絶対あると思うんです」
「そのこと、直接聞いてみたらいいんじゃないか?」
「あ、隠し事するのは別に良いんです」
わたしがあっけらかんと言うと、厚くんは目を瞬かせた。
「そうなのか?」
「はい。お互い長く、やってきましたからね。様々な心の変化があってもおかしくないと思うんです」
「まぁ、それはそう、なんだけど……」
なんて言ったって歌仙さんは初期刀だ。初めて顕現した付喪神。
言ってしまえばわたしを本当の審神者にしてくれたのが歌仙さん。わたしをスタートラインに立たせてくれたのは打刀の彼なのである。
数年が経って、わたしももう一人前かのように審神者としての仕事をこなしている。歌仙さんは本丸の古株として皆に頼られ、その性格も愛されている。
この前だって歌仙さんは……と思い出しながら目を細めているうちに厚くんは答えを決めてしまった。
「大将、オレは断る!」
「ええっ! なんでですか?」
「悪いけど……大将が心配すること無さそうだし。それに歌仙さんがせっかく受け取れるものを、俺が奪っちゃいけないと思ってさ!」
「そんな……」
「大丈夫だって、大将! 大将と歌仙さんの仲なんだから!」
そのわたしたちの仲が、今まで通りでなくなったからため息が出るのに。
以後、厚くんはわたしが何度懇願しても首を縦に振らなかった。それどころか、
「絶対に歌仙さんの当番を交代させるんじゃねぇぞ!」
と、言いつけたのだった。
翌日。出発の時間。歌仙さんは必要な道具を全て、先に揃えわたしを待っていてくれた。
「お、お待たせしました……」
「ああ」
やっぱり歌仙さん、目が据わっている気がする。気づいた時にはすでに、この目をするようになっていた。その胸の内は分からないけれど、とりあえず気楽に話しかけられる様子では無い。最近はいつもこの顔だ。
どことなく目がとげとげしく、眉が堅くこわばって話しかけづらい。現に口数は以前よりぐっと減った。
「……、行こうか」
「はい」
寒くて吐く息が白くなる。それがわたしの重い息を誤魔化してくれた。
歌仙さんはわたしの数歩先を、足早に歩いていってしまう。今はその方が助かる、歌仙さんの表情が見えない方がまだ、息が詰まらないのだ。
祠は庭の、奥の奥にある。木々の多く茂る様子は、森の一歩手前だ。やはりここ最近の夜は冷え込むらしい。奥へと向かうにつれて、木々の色が色彩に富んでいく。逆に寒さに葉を散らす木もある。
落葉の中、早歩きの歌仙さんに遅れないようにと歩くと、息は上がるのに指先が冷えていった。胸がぎゅうと苦しくて、浅い鼓動がさらに体を重くしているようだった。
歌仙兼定はこの本丸で一番古くからの仲なのだ。関係が変わっても仕方が無い。隠し事が増えても、どこかの瞬間でちょっとしたことで好きになったり、いつの間にか嫌われていたり。人間関係なんてそんなものだと、頭では分かっている。
だけど苦しくなりながら追いかけているのは、歌仙さんがわたしにとって"そんなもの"では割り切れない存在だからだろう。
葉が散る。散った葉が彼の背中を隠す。散る中、追いかける。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
息を上げながら考える。
歌仙さんの苦く堅い表情は、何がそうさせるんだろうか。
わたしはどうすれば?
必死で考えていたわたしはいろんな物が疎かになっていた。例えば、足下へ向ける意識だ。
「ひゃっ」
落ち葉の中に隠れていた石がわたしのつま先を打った。足を前に出すことに失敗したわたしは、もう片方の足も滑らせて、そのまま前のめりに、全身で地面の落ち葉を舞い上げたのだった。
「主……?」
「………」
恥ずかしい。なんて恥ずかしい。子どもみたいに前に手もつけずに転んだ。持っていた道具もまわりに散らばった。顔から倒れ込んでしまった。
転んだのは落ち葉のせいだけれど、落ち葉のおかげであまり痛さは感じない。でも葉の下は湿気ていて、着物は汚れたことだろう。
呆然と、落ち葉の海に体を浮かべる。恥ずかしくて起きあがれない私の上へ、さらに落ち葉が降り注ぐ。
歌仙さんも、何も言ってくれないし、と思ったら深いため息が頭上から聞こえた。
「………」
「う……」
目線を上げると歌仙さんが渋いものを食べたみたいな顔をしてわたしを見下ろしていた。
「全く……。なんて誘いなんだ」
また大きく深いため息が聞こえた。と思えば、歌仙さんはそんなことを言った。
「さ、さそい……?」
「ほら立つんだ」
「……?」
歌仙さんの言ったことがつかめないままだったけれど、彼が差し伸べてくれた両手へ、手を伸ばす。
肉厚の、けれどさらさらとした手。こうして触れたのはいつぶりだろうか。
「落ち葉の上は滑るんだ。注意して歩かねばいけないよ」
ああ、わたしの知っている歌仙さんだ。彼は何度も知性でわたしを導こうとしてくれた。
惜しげもなく知識をわたしに与えてくれて、お兄さんのように振る舞ってくれる彼が、刀剣の中では年端の行かない方だと知ったのは後々のことだった。
わたしが頼っても揺らがない手を頼りにわたしは立ち上がった。
「……、はぁ……」
歌仙さんはまたため息を吐く。けれどそれは「しょうがないなぁ」と言うようで、今までのと比べると随分あたたかさのあるため息だった。
「全く……、君ってひとは……、どうしてこう……、僕の苦労は……」
ぶつぶつと何かしらを言いながら歌仙さんはわたしの肩や背中や膝をはたいてくれた。そこかしこに散らばっていた落ち葉が着物にひっかかっていたのが、歌仙さんの手によって小さな塵も払い除けられていく。
散らばった道具も歌仙さんがかき集め、最後に歌仙さんはわたしの手をとった。
思わず、なんだろうこれは、という目で見てしまう。
「………」
「嫌かい?」
「いえ。でもなんか、子供に戻ったみたい」
「子供なんかじゃないさ」
否定はされたものの、この流れで繋がれた手はどう見ても、転んじゃった子供に対してするもの見えた。目を離すと勝手に駆けていってすぐ転ぶ、そんな子供。
手から歌仙さんの温度や、彼の頼もしさや、目に見えないものが様々伝わってくるようでなんだか気恥ずかしい。だけど歌仙さんに親のような心労を与えてしまったのなら申し訳ないと思って顔に出さないよう努めた。
「まぁでも、わたし、危なっかしいですもんね。こうしていた方が安心っていうか……」
「違う。僕が君に触れていたいからだ」
「え……」
「………」
繋いだ手からじゃなくて、自分の顔や耳から溢れてくるこの熱いのはなんだろう。
「別に、良いんじゃないでしょう、か……」
そしてわたしは何を言ってしまったのだろう。
わたしに触れていたいと発言してから、重く押し黙る歌仙さん。それが、歌仙さんがずっとしていた隠し事なんだろうか。なら、隠す必要なんて無いのにと思う。わたしは、貴方が触れて良いものだ。
どうしてわたしは行きがけに転んでしまったのだろう。どうして歌仙さんも行きがけにそんなことを打ち明けてしまったのだろう。
わたしも熱いが歌仙さんの耳も赤い。祠参りはこれからだ。まだ行く途中で帰るまでしばらくある。それが嬉しいような苦しいようなで、どうしても胸が落ち着かない。
言葉少なに祠を目指して歩く。熱いため息が出る。これが行きがけ、帰りがあるなんて。