「カルムくん!」

 年下で、後輩トレーナーであるカルムくんに手を合わせ、頭を下げた時点で、恥とか外聞なんかはすでにかなぐり捨てていた。私はもう支えを失って最後、強がることをやめたらもう粉々に砕けてしまいそうだったのだ。

さん……?」
「どうか、どうか人助けだと思って……! ただ、話を聞いてくれるだけでいいの……」

 カルムくんは目を丸くさせて、それから苦笑いしてくれた。

「またズミさんに会ったんですか?」

 カルムくんの苦笑いにはふと、やっぱり少年だなと思わせる、そして年下の彼を頼ってる自分を少しふがいなく思わせる。
 だけど私は崩れそうになりながら頷いた。

「そうですか……」
「うん。会わないように、してたのにな……あはは……」

 顔を合わせるたびに私をボロボロにする。真実を突きつけて、追いつめる。それはいつもたったひとり、ズミという男の仕業だった。


 とりあえず、とカルムくんは私をすぐ近くのベンチに座らせた。温かいコーヒーをカフェからテイクアウトしてくれて、ちょうど持っていたからとシャラサブレを私に分けてくれた。

「気が利くね、ありがとう」
「いえ」

 同じアサメタウンに生まれた、近所の男の子のカルムくん。背も足も伸びたけれど、中身も本当に思いやりがある男性へと成長しつつあるらしい。
 隣に座る男の子に安心感を覚える。カルムくんは、ズミさんとは全く違う。正反対の存在だ。

 ズミさんを思い出すと、胸の内と指先が凍える。故郷も性別も性格も、考え方も理想も重なることの無いひと。ただひとつの共通点は同じ、ポケモントレーナーであること。中でもみずタイプのポケモンを愛するトレーナーなことくらいだ。

 そう、かなり近い分野で腕を磨く同士だったから。ズミさんは私を悪い意味で特別視したのだろう。

「大丈夫ですか? さん、顔色悪いですよ」
「ごめんね、助けてって言っておきながら言葉が出なくて……」
「……、どこでズミさんと会ったんですか?」
「バトルシャトー、だよ」

 バトルシャトーに行ったのは久しぶりだった。爵位を最上級にした後は足が遠のいていたが、そこへ届いた招待状が、私のやる気に再び火をつけてくれた。
 連続でこなすバトルはハードだけれど楽しくて、時間を忘れて夢中になってしまった。入った部屋に、あの白いエプロンとブロンドが見えた瞬間、その気持ちは一気に冷えてしまったけれど。
 それからのことを思い出すと、思わず涙が滲む。

「うぅ~……」
さん……」
「ズミさんは私のこと、嫌いだと思うけど、私も。ズミさんが嫌い、大嫌い……!」
「まぁまぁ、落ち着いてください」
「っ……」

 カルムくんの言う通りだ。私は落ち着いた方が良い。もうズミさんはここにいないのだから。彼に何かされることも無い。
 取り乱したりなんかして、恥ずかしい。石を飲み込んだみたいな胸のつっかえをなんとかコーヒーで飲み下す。

「バトルはしたんですか?」
「しないよ、あんなひととは。だってねズミさん、私にトレーナーとしての才能は無い、って言ったの。傷ついたな……」
「トレーナーとしての才能は無いって……、本当に? 本当にそんなこと言ったんですか?」
「言った、言ったよ」

 ズミさんといると苦しいことばかりだから。挨拶でもしたらまた私は彼の、痛いけれど反論できない言葉に涙ぐんでしまう。そして泣きそうな自分がまた嫌いになってしまう。だからすぐさま逃げだそうとしたのに、ズミさんはなぜか私を強引に引き留めた。

 きっと同じみずタイプ使いとして、バトルがしたいのだと思った。けれど、ズミさんの実力は知っているし、バトルをすればその後でまた傷つること言われるのだ。だからあなたとはバトルをしない、もう帰ると告げると、あの男は眉をつり上げた。飛んできたのは今までで一番痛い言葉の刃だった。

 そんなことない、私はそんなに酷いトレーナーでは無い! そう反論したかったけれど、まるで溺れているみたいに息ができなくて声も出なかった。

「天才トレーナーだなんて名乗るつもりはかけらも無いけれど、そんな"無い"って断言されるほどとは思わなくて……」

 だって私はアサメタウンで近々ジムリーダーに、とまで言われたトレーナーだった。みずタイプの使い手として白星は多く、まわりのエリートトレーナーの中でも成績はトップだった。だからこそジムを作ってみたら、とチャンピオンから声をかけられたこともあった。
 けれどジムの話が実現する前に、カロス全土に名を馳せたのがズミさんだった。
 ズミさんはみずタイプのエキスパートとしてあっと言う間に四天王に昇り詰めた。それだけじゃない。料理人としての肩書きも一級品だ。バトルした彼は確かに強かった。認めざるを得ない彼の眩しさの前に、多くのトレーナーより少し強いだけの私の存在は霞んで、今はいないのと同じ。

 それだけで私がズミさんに苦手意識を抱く理由になるのに、ズミさんは私に会う度に酷いことを言うのだ。
 私の手持ちのドラミドロを生かし切れていないとか、判断がぬるいだとか、ポケモンを甘やかしすぎだとか。とにかく私とポケモンについて余計なお節介ばかりが飛んでくる。

「いちいち言われなくても、ズミさんと比べたら私がすごくもなんともないこと、分かってるよ……!」

 ズミさんがいる限り私は一番になれないことはバトルで思い知った。
 だからといって、私がトレーナーであることを否定するのはひどすぎる。

 悲しくて悔しくて震えている気持ちは、たぶん防衛本能ってやつだろう、徐々に怒りに差し変わっていく。ズミさんへの憎しみに。

「……ありがとうね、カルムくん。カルムくんに話して自分の気持ちが分かった。私、カロスを出ていくよ」
「え……!?」
「自分の気の迷いだったら良かったなって思ってたんだけど、こうして話していても気持ちは変わらないんだもの。この気持ちは一過性じゃないみたい」
「えっ、ちょっ、本気ですか!?」

 私は頷く。私を引き留めてくれそうなひとたちの顔を思い返すと、寂しい。けれども、やっぱり気持ちは旅立ちに傾いている。
 大嫌いで、一生勝てなくて良いから関わらずに生きていたいズミさんに、こんな風に私の生き方に影響を受けるのは悔しい。けれど今は悔しさより楽になりたい気持ちが勝っている。
 そうだ。私はもう、ズミさんに居場所を奪われたくないのだ。

「ズミさんがいる場所にいると、辛いことばかりだから」

 コーヒーは飲み干した。結局封を開けなかったシャラサブレはもらってしまう。まずは親しいひとたちにカロスから去ることを伝えて、その後、旅立つ前にこのシャラサブレを食べようと思った。このほんのり甘いお菓子がきっと、私の背中を押してくれるはずだから。





 カルムくんに気持ちを打ち明け、決心して数日後。まさに旅立ち前夜のことだった。

 なんでこのひとは私の家を知っているのだろう。ズミさんに出身くらいは明かしたことはあるかもしれないけれど、私のプライベートへ招いたことはもちろん、近所の話なんかもするような仲じゃない。居間の、明かりしかつけていなかった暗い玄関で、鋭い眼光と対峙する。と、恐怖のような気持ちと座り心地の悪い、不気味さを抱いた。

「何か、ご用ですか」

 そんな風に挑戦的にズミさんと対峙したのは初対面以来だ。これからもうこのひとの顔を見なくて済むと思うと、いつもみたいな逃げたい気持ちは出てこない。
 私の様子がいつもと違うことはズミさんも気づいているみたいだった。

「あるに決まっているでしょう。用があるから来ているんです」
「……手短にお願いします、私にはやることがあるんです」
「トレーナーとしての才能は無いとは言ってません」
「っ言ってました!」

 本当にこのひとは嫌だ。思い出したくも無い言葉を、顔も見たくないひとから再度言われるなんて。
 思わず声を荒げてしまう。自分の気持ちが抑えられない。

「トレーナーとして、人の上に立つ才能は無いと言ったんです」
「言ってるじゃないですか! 私に才能が無いって!」

 たぶんズミさんの言葉にこんなに反応してしまうのは、彼が言うことがいつも間違っていないからだ。
 指摘を受けたパートナーの生かし方も、トレーナーとしての甘さもズミさんの言う通りだった。見抜かれていて、悔しかった。彼の強さを知っていた。だから尊敬もしていた。
 ジムリーダーになれそうなところまで行った、というちっぽけなプライドに縋っていた。そんな自分に才能が無いという真実を、抗えないひとに突きつけられた私はもうどうしたら良いか分からないのだ。

「なんなんですか、もう……! そんなことわざわざ言いに来たんですか……!?」
「私にとって"そんなこと"では無いのです」
「まぁ良いですよ。ズミさんがどう思おうと。勝手に言って、勝手に評価しててください」
「っもう、決めたんです。私は別の地方に行きます、旅をするんです」
「私のせいですか」
「別に。ズミさんが気負うことなんて無いですよ。全部私が弱いのがいけないんですから」

 鼻の奥がつんと痛くなる。どうやら私は泣きそうらしい。

「貴女は弱くありません」
「何言ってるんですか。散々私のプライドを傷つけてきたくせに……!」

 違う。それは違う。才能が無い、と言葉としてぶつけたのはズミさんでも、私はちっぽけな私自身に傷ついたのだ。見ないようにしてたものに目を向けた。そのきっかけがズミさんだっただけだ。
 ひとのせいにするのは違う。間違ったことを言ってしまった。ごめんなさいって、謝らないと。と、思ったのに先に謝罪を口にしたのはズミさんだった。

「……、すみませんでした」
「え、な、なんですか急に……。謝るのは私の方です……。それに今更謝られたって……」
「じゃあどうすればいいんです」
「どうもしなくていいです」
「そう言われても」
「私、もう、ズミさんとは何ともなりたくないんです……」

 羨んで、妬んで、ズミさんと関わることで自分の壁にぶち当たって。その連続は辛くて、トレーナーを止めてしまおうかなんて考えもちらついて。もうこりごりだった。

「帰ってください」

 ドアノブに手を伸ばす。ドアを閉めて、旅支度をして、ズミさんのことはもう忘れたい。だけどズミさんはドアを抑える力を強くする。

「私は嫌です」
「あの。いい加減、迷惑です」
「行かせたくない、遠いところに」
「……、は……?」

 ドアをがっしりと抑えたままズミさんが前のめりになって、あの三白眼が少し近づいた。その上の眉は、寂しそうに困惑していた。

「カロスにいてください」
「な、なんですかいきなり……」
「人の上に立つ才能が無いと言ったのは、間違いでした。あれだけは、ただの私の願望です」
「………」
「子供みたいに、そうであったらいいのにという願望が、口から出た。貴女は、私と違って愛されることも出来るトレーナーなので」

 ズミさんの言葉を聞きながら、わたしは逃げ道を探していたと思う。そんなはずない、という考えをどうにか本物にさせようとあがいていた。
 めいっぱい混乱する私へ、ズミさんは続ける。

「しかし私だけを慕っていてほしいし、貴女に宿る芸術を知って慕うのも私だけであって欲しい。無闇に注目を集めないでください。貴女は、独り占めしたい理由を持つひとなんです」

 最後のその言葉だけならわたしはまだ逃げられたかもしれない。実際、まだはっきりと全てを告げられたわけじゃないからと、思考は逃げていた。
 慕うという言葉も安易に受け取るべきじゃないと自分に言い聞かせる。まだ大丈夫。私はズミさんが大嫌いだし、ズミさんも同じ気持ちなはず、その可能性は残っている。その正反対なんてありえない。

「えっ、わ……」

 だけどズミさんの顔が迫ってきて、私は自宅の玄関でキスをした。キスをしてしまい、そして逃れられなくなった。

 少し後ずさった瞬間に転びそうになった私をいつの間にかズミさんが捕まえていた。崩れる時にひっかけてしまった玄関の花瓶が倒れて、床に水を蒔いていた。そして私を転ばすまいと踏み出したズミさんの足が花瓶の花を踏んでいた。

 唇が離れて目が回る。潰された花を視界の端に捕らえながら、私は思いだしていた。ズミさんに向けられた全てを。私には痛いばかりだったそれら。
 胸は辛く高鳴っている。目の前にはズミさんがいる。真剣な、だけど薄い硝子のような脆さを持ったズミさんが。私は、彼は美しいと思う。別の気持ちが一番前に立つからいつも意識がたどり着かないものの、いつも美しいと思っている。けれど私はもう、ズミさんが大嫌いになってしまった。なんでだろう。
 ぐちゃぐちゃだ、ズミさんがいる世界は苦しいことばかりだ。