くらくらと目が回るままホクラニ天文台へと行くバスに乗った。それはひとつの自傷行為だった。
そもそもグラスを目の前に、これを飲んだら自分の限界を越えると分かっていて口をつけた時から、私は自暴自棄になっていた。自分はどうなってもいい。どうにでもなれ。だから世界が回ってるままバスに乗って、吐いてしまってもそれは願ったり叶ったりなのだった。
結局吐かなかったけど、順当に気持ち悪くはなって、今マーレインの部屋のソファに沈んでいる。
「うえ~……」
彼の足音が近づいてくるのが分かって薄目を開けると、カップをふたつ持ったマーレインがしゃがもうとするところだった。
「大丈夫かい?」
「う~……」
「きつそうだね。これ、置いとくよ」
胃の中がかき混ぜられるような感覚にうーうー唸っている私へマーレインが置いてくれたカップ。中には薄黄色のお茶がほのかな湯気をたてている。すぐには飲む気になれなくて、私は湯気の舞う様をぼーっと見た。
マーレインが向かいのソファに座ろうと離れていく。彼の背中を向けるのと一緒にコーヒーの香りがする。それが胸を刺す。
マーレインはコーヒー。私には、薄めのお茶を。
それは特別な優しさじゃないかもしれない。だけど、私のためにマーレインが動作や沸かしたてのお湯を費やして、私の体を気遣ってお茶を用意した。その事実がカップの淵に透けて見えて、私はクッションを顔に押しつけた。
こっちがどうしようもない気持ちになっているというのに、マーレインは膝にパソコンを乗せて仕事の続きを始めたらしい。カタカタとキーを押す音が聞こえてくる。こっちが、どうしようもない気持ちになっているというのに。
この男への片思いを自覚してから、もう何年になるのだろう。マーレインとの出会いはもう10年以上も前で、相応に片思いの期間もかなり長引いている。
マーレインと私は、昔はともかく、そう頻繁に会う仲では無い。実際に顔を合わせるのは久しぶりだ。そもそもホクラニ天文台が不便なところにあって、わざわざ会いに行くには理由の足らない場所である。
けれどマーレインとは、離れていても一定の距離を保てるような間柄である。今日のように深夜に酔いどれで押し掛けても「久しぶり」なんてわざわざ言わない。お互いに変な気遣いや心配が無いのが、私たちなのだ。
何年も脈無しを見せつけられてきた。けれど、マーレインとの関係は心地良さもあった。想いが叶ったことは無いのだから、この胸は満ち足りることは無い。なのにおかげさまで片思いをこじらせて、私の恋はもう諦め混じりの長期戦を展開しているレベルだ。
「はは……」
乾いた笑いが思わず出る。
諦め混じりじゃないな、諦めてるくせに泥仕合を続けている有様である。
ぼんやりと考えながら見つめていたカップの湯気がようやく収まってきた。口をつけると飲みやすい熱さになっていた。
「おいしい」
「そりゃ良かった」
淡泊な薄い味。だけど体に優しく染み渡る。向かいの席のマーレインが可愛く目尻を下げていて、私も息だけで笑った。
「所長。今日のお仕事は?」
「大きな観測は無いからね、みんなに任せてるよ」
「そっかー」
「平和なもんさ。が来るまでは」
「私は巨大怪獣か何かかな」
「はは、ははは」
突如酔いに酔って現れた私。巨大怪獣との言い回しが、言い得て妙だったのだろう。私の返しがマーレインのツボに入ったらしく、背中を震わせて笑い続けている。
だんだん熱を失っていくカップの中身。マーレインがひとり笑っていると、気が抜ける。
「なんか、外の空気がすいたい」
ぶっきらぼうに、つまりかわいらしさゼロでそうぼやくと、マーレインは「いいね」と言って立ち上がってくれた。
日付はとうに変わっている。ポケモンセンターとこのホクラニ天文台だけが弱く灯りをつけていて、あとは星と月の独壇場だ。
一歩出ると風が冷たい。外に出る前、マーレインが貸してくれた上着の前をあわてて閉めた。
「さむー……」
「借りて良かっただろ」
「まぁねー……」
同意しながらも肩をすくめる。寒いからと上着を貸してくれたが、彼自身は逆にシャツ姿になってしまった。寒さに弱そうな、薄い背格好のマーレインから上着を奪ってしまったのはなんだか申し訳ない。
私が寒いのはストッキングしか履いていない足だし、それにちょっとしかいないからと言ったのに。言えば言うほどマーレインはさらに強引に私に着せたのだった。
寒さで鼻がつんと痛い。だけど、見上げるとそれも忘れるほどの星空だ。
「綺麗だね……」
「うん」
「マーレイン、楽しそう」
「うん」
「星、綺麗だもんね」
「う~ん。君は純粋だね」
思わず笑った。
「どこが」
純粋さなんて、どこにあるものか。星、夜空、マーレイン、私。この中で私だけが異物だ。
今夜、ここでふたり星空を見上げているのは全て、マーレインへの当てつけが原因だ。
ずっと飼い続けてきた恋心は時々、リードから外れて暴れ出す。もう昨日のこと。マーレインに会いたくて、だけど何も気づいてさえくれない彼に苛立ってもいて、だから私は惨めな自分をマーレインに見せつけたかった。
自分を粗末にお酒を飲んで、ありったけのアルコールを血に流して、吐いたって良いとバスに乗ったのは、全て可哀想な私を見せつけるためだった。マーレインがそんな私を見て同情を見せたなら、もしくはマーレインが私を嫌いになったのなら、その時は「ずっと貴方を好きなせいでこうなったんだ」と言える気がした。
なのにマーレインときたら、私がそんな悪意を腹に抱えているとは知らずに、子どもみたいに笑っている。
彼の方がよっぽど純粋だ。
凍てつく美しさを前に、目の醒めるような心地がする。私は、何をやっているんだろう。
「嫌なことがあって、僕に会いに来たんだよね」
「……そう、だね」
私が一番自分の気持ちを守れない瞬間に、マーレインの問いかけが差し込む。
「片思いを、していて」
そう告白したのも、多分自虐行為の一環だった。
「それも結構長い間なんだけど。ほんとに、ぜんぜんだめで」
「……うん」
「私が夜にひとりで会いに行っても、ぜんぜん意識してくれないし」
ちらりとマーレインを見上げる。みんなの憧れの所長は、私からのも含めて好意に鈍感だ。
「諦めてはいるの。だけど、気持ちが終わってくれなくて」
諦め混じりの泥試合なのだ。振り向いてとはもう願っていない。だけど、彼が好きなままなのだ。
マーレインが好きだ。彼の過去の全部を大切に思っていて、未来もどこまでも愛せるだろう。マーレインが好きだ。マーレインの身長の高いところが好きだ。彼を見る時、昼ならばマーレインは太陽と青空と一緒だし、夜ならば優しげな月と星空も一緒に見上げる。彼と一緒にいること自体が、素敵な出来事で溢れている。
「片思いだからさ、楽しくは無いよ。続ければ続けるほど自分が愛されない現実に向き合ってるわけだから、ひどくつらくなる時の方が多いんだけど。
でも今日も、だめになりそうな私を立たせてくれたから、もう、いいや」
そしてあはは、とまた自虐的な笑いが出た。
こんなことで満足してしまう弱虫だから、何年も片思いを続ける羽目になるのだろう。
私の目をマーレインがのぞき込んでいる。だけど今夜も、私の気持ちには気づかないのだろう。
「ありがと。なんかまた、迷惑かけた」
「ううん」
優しくて強いマーレインに今日も、何もかもが届かない。だけど私の気持ちは随分すっきりしていた。始発のバスは何時に出るのだろうか。そして今夜も、もう片思いをやめようと、思えなかった。
今夜も、は泣かなかった。付き合いは長いのに、僕は彼女の泣き顔を見たことが無い。折れそうなギリギリまで行くのに耐えきって、そんな調子でもう何年も叶わない恋をしている。
「応援したいけどね……」
相手があのククイじゃあね。には同情する。彼は既婚者だ。結婚式にも呼ばれ、目の前でふたりは結ばれたというのに、は未だに気持ちが終わらない、とそう言った。
いっそ泣いた方が彼女は楽になれるんじゃないかと思う。だけどは泣かなかった。
泣かないでいてくれて、良かったと想う。あの気丈なが感情と弱さを溢れ返させるのを目にしたら、多分僕は気持ちを抑えられなくなる。
時節考える。が子どものように泣いて僕の前に現れたら、柔らかな毛布にくるんで、毛布ごときつく抱きしめて、多分もっとたくさん泣くようにと囁きかける。その涙が止まらないように、と言葉を選ぶ。そしてずっと欲しかったものを絶対に離さないと、抱きしめる。
こんなのは、奥のくだらない、届かない空想だけれど。
の残り香は、僕に届かない思いを抱かせる。夜が白む。僕に眠気はやってこない。胸は、不穏な気持ちでいっぱいだ。