静まりかえった夜。実際にどの刀剣も眠っているのだろう。けれどわたしの目の前には眠ってはいけない理由が机に山積みになっている。


「まだこんなにある……」


 まだ分厚く積み重なっている書類たち。一瞬気が遠くなりかけた。
 食事をとってすぐ取り組んだのに、減った気がしない。今は何時なのだろう。書類が終わらなくて結局こんな時間になってしまった。時計を見なくとも、日付はとっくに変わってしまったことは分かる。

 審神者という仕事がこんなに、事務的なことをこなさなければいけないなんて、就任前は知らなかった。
 正直、仕事をこんなにため込んでいる時点で、わたしは審神者をやっちゃいけない人間なんじゃないかと思ってしまう。付喪神を顕現させることができるという才を持った人間ならば審神者になるのが必然だと言われてここにきた。けれど、それは大変な間違いだったんじゃないかと泣きたい気分だ。
 でも今すぐ審神者をやめたいとは思えない。その一番の理由は、たった一振りが独占している。


「主、布団敷けたよ」
「ありがとうございます、加州さん」


 加州さんは小さく頷いて、作業台の横に座りなおした。
 疲れた様子を見せない加州さん。彼が同じ部屋にいることが意識に入ってくると、ほっとする。けれどあんまりかっこわるいところを見せられないと、真逆の緊張にも襲われる。


「頑張って終わらせて、早く寝よ」
「はい……。ほんとごめんなさい……」
「謝ってる暇があったら手を動かす。それか一息入れる? 背中ほぐそうか?」
「だいじょうぶでず……」


 またも泣きそうだ。加州さんが当然のことのように、なんの不満も疲れも覗かせずにわたしに合わせて起きていてくれる。
 加州さんは、こうやってずっとわたしを支えてくれているのだ。本丸に、ひとりと一振り、わたしと加州さんしかいなかった時から。


「加州さんは寝ないんですか?」
「主が終わったら俺も寝る」
「ですよね……ううう」


 いつだったか、前も同じようなことがあった。結局そのときも、頑張ったにも関わらず徹夜作業となってしまったのだ。そして同じように、どうして自分みたいなのが審神者をやっているんだと泣きそうになっていたのだった。
 自分が苦しんでいるだけなら自業自得の言葉で済ませられた。なのに、加州さんまで一緒につき合わせてしまうことになるなんて。申し訳なくて、不甲斐なくて、何度も先に寝ててくれと懇願した。けれど加州さんは、絶対に動いてくれなかった。


『主が寝ないなら俺も寝ない』


 声は柔らかくも頑なだった。拒否する言葉をちょっと甘ったるく、ふざけ混じりに言うのが、加州さんの優しさに満ちていて、心苦しかった。


『気持ちはありがたいです。でも、終わったらすぐ寝ますから……』
『ふーん』


 必死に説得して、加州さんが立ち上がった時はほっとした。ああ、分かってもらえたんだと。
 けれどそれも束の間。「主、布団ひけたよ」ときよみつさんが帰ってきた隣の部屋を見ると、わたしときよみつさんの布団が並んでしかれていた。


「お、終わった……!」
「よし。即寝るよ。主、片づけは良いから。睡眠大事」
「は、はい〜」


 へろへろと布団になだれこむ。お布団、なんて気持ちが良いんだろう。体にたまった熱が一度、冷たいお布団に吸い取られそれからじんわりと体が暖められる。疲れがどっと体から溢れてきて、わたしを無防備にさせた。
 枕元の時計を見れば4時をまわっている。もう朝も近い。あと少ししたら一番早起きの刀剣が目覚める頃だ。
 隣の布団にも彼が寝そべる音が聞こえた。こうして二人でお布団の中に飛び込むのももう何度目だろうか。


「よく頑張ったね、主」
「つき合わせてしまって、ごめんなさい……」
「いーの。俺は主の近侍なんだから」


 こんな時間まで仕事をしなきゃいけないのは、結局わたしの力不足だ。なのに加州さんは優しい。わたしを責めることをしない。


「さ、寝よ」


 声に従って目を閉じる。眠りはすぐさまやってくる。わたしはその睡魔に身を任せて全身の力を抜いた。隣に加州さんがいる緊張も、今は無い。
 加州さんとは同じ部屋で、隣同士で寝ても、何もないって分かっている。だって何もなかった経験しか無いから。


「何時に起こして欲しい?」
「七時くらい、かな……」
「二時間睡眠はきついから、もうちょっとは寝よう?」
「でも……」
「大丈夫。なんとかなるし、俺がなんとかするから」


 隣の布団。枕の上に乗った加州さんの微笑み。まだ薄い朝の中で見た彼に覚えた既視感。以前もこうやって、水平方向にある彼の顔を見て、目を離したくなくなった。確かに彼には美しさが宿っていて、今こうして視線を交わしているのが神様なんだと感じる。
 神様なのに、こんなにわたしに付き添ってくれる加州さん。戦場で戦う彼はかっこいいのに、中身は途方もなく世話焼きだ。

 そう。ずっとずっと、彼に頼りきっているわたしだから、世話焼きで苦労ばかりしている加州さんだから。こんなくたびれた夜には考える。閉じた瞼の中でとある考えが揺れる。
 わたしは加州さんを、時には近侍の任から解き放つべきなんじゃないか、と。


「加州さん……、わたし……」
「んー?」
「近侍を交代制にしようと思っているんです」


 暗闇で、布団の擦れる音。なかなか開けられない瞼の中で、加州さんはどんな顔をしているんだろうとぼんやり考える。


「なんで?」
「なんでって。そっちの方がいいんじゃないかな、って思ったんですー……」


 色々と、交代制がいいと思った理由はある。いろんな刀剣男士が本丸のことを知ってもらいたい。やる気に溢れる刀剣男士には、もっとたくさんのことを教えたいとも思っている。
 でもやっぱり一番の理由を独占するのは加州さんだ。
 近侍を交代すれば、加州さんは自分の時間が何倍にも増える。やりたいことをたくさんできるし、ちゃんと休んでもらうことができる。不甲斐ないわたしのそばにいたら、いつまでも振り回されっぱなし。そんな加州さんを、わたしは何度もかわいそうだと思ってしまっているのだ。


「それって、俺はどうなるの?」


 また質問が飛んでくる。あれ、このまま眠れると思ったのに、うっすらと目を開けると加州さんは天井を見つめて固まっている、ように見えた。


「どうって……。近侍じゃ、なくなりますけど……」
「それは分かるけどさ。うん、そうだね。俺、変な質問したね。ごめん」
「まあ、順番が来たら、またその時は加州さんにお世話になっちゃうんですけどね」
「それも、分かってるよ。良い考えだと思うよ、うん。その方がしっくり来る部分もあると思う。反対する理屈は無い、かな」
「じゃあ……」
「だけど、俺は嫌だ」


 もぞもぞと隣の布団が動く。それはそろりとわたしの布団に潜り込んで、わたしの手を捕まえた。眠気の中、どきりとする。わたしと加州さんは今まで何度も、こうやって手を伸ばせば触れられる距離で眠っていたのだ。


「ごめん、主。反対するちゃんとした理由は無い。けど、俺はいやだ。近侍でいたいっていうより、俺以外の刀剣が近侍をしたらと思うと、嫌なんだよね」
「………」


 何も言えずにいると、加州さんが笑う。


「違いがわからないって顔してる」
「はい、まあ……」
「俺以外のやつが近侍になったら、俺が見ている主を他の刀剣も見るってことじゃん? 俺がしていることを、他の刀剣にも許すの?」


 こんなことするのは加州さんだけ。なんだかんだでわたしが特別に考えてしまうのは加州さんだけだ。それは他の刀剣男士とでは成り立たないことばかりで、わたしに取ってはありえないことなのだと思う。
 だけど加州さんは鋭く目を細めている。


「考えただけでも気が狂いそう」
「………」
「主、本当に交代制にするの?」
「それは……」


 差し込んできた朝日の中で、隣のお布団には今まで見たことのなかった加州清光がいる。
 彼の、初めて見る表情。わたしはずっと彼にとって妹のような存在なのかもしれない、と思っていた。目の離せない幼子だとか、そういうしょうがないような気持ち混じりで優しくしてくれているのだと思っていた。
 でも今、加州さんの言葉はその枠には収まりきっていない。


「加州さんが、一番良いと思う方にしてください」
「じゃあ、これからも俺が近侍」


 すぐさま返ってきた言葉に笑ってしまいそうになった。そんなの決まっている、と言いたげなところに。
 わたしは、加州さんにももっと特別に想ってもらえてるのかもしれないという予感に、にやけそうになる。

 加州さんが「もう寝よ」と言う。確かにすぐ眠るつもりが、加州さんとまたおしゃべりをしてしまった。
 手を繋いだままなことをほんのりと意識しながら、ようやく、本当に眠る瞬間。声が聞こえた。


「ずっと俺だけにしてよ、主」


 加州さんがそれでいいのなら。その返事も返せずに、わたしは眠りの中に落ちていった。