あれ、と思って、バッグの中身をもう一度見て。私は朝のざわつく研究所で静かに、静かに落ち込んでいた。自分のダメさ加減に。
「さん、さん?」
「……すみません、ぼーっとしていました。なんでしょうか?」
「大丈夫?」
心配には及ばないのだと笑顔を作ってみせたけれど、同僚の訝しそうな視線にあてられて、私は落ち込みの原因を喋ってしまった。
「物をなくしてしまったんです。最近こういうの、すごく多くて」
言ってから、恥ずかしいようなやるせないような気持ちで肩がむず痒く感じた。
「え、どんなもの? 一緒に探そうか?」
「大丈夫です。その、いっぱい、あるので……」
本当のことなのだ。すごく、という言葉が言い過ぎでないくらい、私はここ数日、物を落としたり無くしたりし続けていた。
カバンにつけていたキーホルダー、買ったばかりのむしよけスプレー、大切に使い込んでいたティッシュケース、ポーチに入れていたはずの小さなハサミ。
小さななくしものは、私を小さく傷つけてくる。お気に入りのリップクリームも、何本も落として、何本も同じものを買い足して。そのうちにリップクリームを見るだけでどうせまたなくすと落ち込むようになってしまった。
自分のドジで傷くなんて、自分はバカだな、と思う。だけど仕事終わりに遠出をするからと履き替える用に持って来た、ヒールの低い靴までなくしてしまった時は、仕事が手につかないくらい落ち込んだ。
今日のなくしものも、靴と同じくらい深い落ち込みへ、私を落とした。
お店でプレゼントラッピングしてもらったハンカチが、どこを見ても見当たらないのだ。この前体調不良の時に気を利かせて早上がりできるようにしてくれた同僚に、お礼として渡すつもりだった。
絶対に、カバンに入れたはずなのに。
でも今までもそうだった。絶対にポケットに入れたはずなのに、引き出しに戻したはずなのに、ここに置いたはずなのに。そういったものたちが、消えてしまうのだ。本当に、自分のバカ。
どんまい、と同僚に肩を叩かれて、私もかろうじて微笑んだ。
「えっとそれで、何かありましたか?」
「そうそう。アクロマさんが、B棟にポケモンを連れて来てほしいって」
「はい。どのポケモンですか?」
「研究用のタブンネで、調子が良さそうなのを3匹」
「分かりました。すぐ行きます」
「お願いね」
用件を伝え終えた同僚が見えなくなると、私はこっそりとため息をついた。またものをなくしてしまったこともそうだけれど、今のため息は別のことへのため息だ。
アクロマさん。この研究所で間違いなく一番の頭脳を持った、天才科学者。それでいて私の苦手なひとの名だ。
アクロマさんとは実際は、あまり関わったことはない。そもそも私は研究所に雇われた事務員。たった数年だけどポケモンブリーダーの経験を買われて、ポケモンのお世話に回ることも多い。アクロマさんは天才科学者で、優秀なポケモントレーナーでもあるらしい。
同じ研究所の中でも喋る機会もほとんど無かった。なのに、半年くらい前だろうか。なぜか同僚たちの中で、アクロマさんと私が恋人同士ということになっていた。
私とアクロマさんのどんなところを見てそう思われたのか、今でもさっぱり分からない。
アクロマさんと私なんかと付き合うはずがない。何度も何度も否定して、ついにご本人の前でも否定することになって、よくやく落ち着いた。
『私とアクロマさんは、何でもないですよね? 恋人同士なんて、ありえない。そうですよね?』
そう言った時のアクロマさんはひどく驚いていた。何を言っているんだ、という顔をさせてしまった。私があまりに当たり前のことを確認してしまったからだ。
「はぁぁ……」
思い出すと深いため息が出てしまう。
でも、もう少ししたら、こんな風に悩むこともないんだろう。
アクロマさんは近々研究所を移るという話がある。どこかの企業の研究所に入るのだろうか。それも分からない。けれどこの研究所の設備では、アクロマさんの研究に追いつけていないとは、所内ではもう何度も言われていた。
「失礼します、タブンネたちを連れて来ました」
「ああ、待ってましたよ!」
画面を見ていたアクロマさんが振り返る。
「確かに、タブンネを三匹。ありがとうございます」
この人が少し目を細める。それだけで、甘さが立ち上る。薄い色素が彩る整った顔立ちをしているからだろう。それでいて、この人の頭脳は研究所随一なのだ。頭の中では私の想像もできない思考が高速で繋がり、回転しているのだろう。
私は視線をずらして、持って来たモンスターボールをアクロマさんに見せた。その視線の先に見つけたもの。アクロマさんの白衣のポケットからかすかに覗くハンカチの柄に驚いた。
同僚のお礼にと昨日買ったプレゼントと、同じ柄のハンカチだ。
「どうしたのでしょう」
「あ、その……アクロマさんのハンカチが……」
「これですね」
「はい」
アクロマさんがポケットから取り出して私に見せてくれる。やっぱり。全く同じ柄、同じハンカチだ。
きっと、アクロマさんも私と同じ店で、買ったのだろう。
私のなくしてしまったプレゼントも、同僚の男性に送る予定だった。こうしてアクロマさんも持っているということは、私の選んだハンカチもそう間違いではなかったように思えた。もう、なくしてしまったけれど。
「私が昨日買ったものと同じだったので、驚きました」
「ええ、そうでしたね」
そうでしたね? アクロマさんの返事の意味がかみ合わなくて、思考が止まってしまう。どういう意味だろう。
「昨夜のあなたは薄着でしたね」
「え」
「タイツからストッキングにするにはまだ早くありませんか? それにスカートも短い。今日風邪をひいているのではないかと心配でした」
「………」
「夜ご飯はサンドイッチだけのようでしたが、夜の間食もしていないようですし。さんは本当に少食ですね!」」
「そ、そんなところまで見られていたんですね、恥ずかしいです……」
まだ私は、その頃は、こうしたアクロマさんの発言は全て、推理からくるものだと思っていた。頭脳明晰な彼は、小説の中の探偵のように、私のちょっとした様子から、様々なことを知れるのだと。そう信じきっていた。
「さん」
その声に、私はクローゼットの中で恐怖した。扉と扉の隙間から入ってくるはずの、部屋の光。それを遮る人影。心臓は痛いくらい暴れている。
状況は理解できていないことばかりだ。なぜ、噂のとおり研究所をやめたアクロマさんが私の家にいるのか。しかも室内に、勝手知ったる様子で入って来ているのか。
それでも私がクローゼットの中で縮こまっているのをわかって、アクロマさんは発言する。
「いつプラズマ団に来てくれるのでしょうか」
最近道端で、研究所を出たところで、よく行くお店で会うアクロマさんも、同じことを私に問いかける。
いつ今の研究所をやめて、プラズマ団に入るのか。なぜ、来てくれないのか。
全く意味の分からないアクロマさんの発言に最初は、今の研究所をやめる予定はないと丁寧に否定していた。朝の行きがけの道で、夜の自宅の前で、どんなに道を変えてもアクロマさんに捕まるようになり、危ないと感じていた矢先だった。
家の前に現れたアクロマさんを、居留守を使ってやり過ごそうとしたのに。まさか家の合鍵を持っているなんて思わなかった。
「早くしてください。明日仕事を辞めるべきです! そのままプラズマ団へ来てください。便宜は私が計らいます。そうしたら研究所で恋人ではないと嘘を吐いたことを許しましょう」
アクロマさんと私は恋人ではない。それは私の中では事実だ。彼とは何も無いと断言できる。なのに、アクロマさんは違うと言う。
「あの時、私は深く傷つきました。でもその痛みにも耐えたのですよ! あなたのために。
さんがプラズマ団でも私たちの関係を秘密のままにしたいと言うのなら考えましょう。今までだって皆に隠したまま愛を深めてきたのですから、不可能はありません」
めちゃくちゃに叫び出してしまいそうな恐怖の中で、日々の中にあった違和感たちが本当の姿を見せてくる。
時々アクロマさんとかみ合わなかった会話、彼の推理だと思っていた言葉たち。無数に姿を消していった持ち物たちの行方もきっと。
「よろしいですね? ……ああ、、さん、返事を聞かせてください……」
クローゼットの扉がガタ、と揺れる。私を手の中へと誘おうとするアクロマさんは、きっと私を殺しはしない。そのことが死ぬことよりも怖い。
どうしてこうなってしまったかなんて、もうどうでもいいことに堕ちてしまった。神様。私は一体何を捧げれば済むのでしょう、ああ神様。