※平野藤四郎視点




 朝、目を覚ます。それだけで昨夜のうちに主君が帰ってきたか、まだ不在のままなのかがわかってしまう。
 この目で見なくとも主君の不在がわかるのは、甘美なことではありません。僕の中心はあのお方だと、喪失感をもって知るのは酸い味わいがあります。

 主君は、時々本丸を不在にします。そのことを寂しく思うことはあっても不満に思わないのは、主君が帰れない訳を僕も理解しているからです。
 主君を一目見たことがあるものであれば容易に解ることです。人並みはずれた容貌の主君を、一目見れば。主君は、美人という言葉では陳腐に思われるほど、人を惑わす容姿をした女性なのです。

 内側から光るような肌に、完璧な目鼻立ちの幼顔。顕現してすぐの僕も、目の前の主君の精巧さに驚き、この方が果たして人間なのか、神の側の存在なのではないかと今も疑いを捨てられません。成人した女性だというのに化粧というものをほとんどしないからか、手足の長い大人の体躯に精巧な少女の顔が合わせられていて、それが時々奇形のようにも感じられる。主君は壮絶な容姿の持ち主でした。
 文句の付け所があるとしたら、それは美しいはずなのに恐ろしい、奇怪さが同居するところでしょうか。
 だから少年少女、紳士も淑女もご隠居も。出会ってしまった人々は願わずにいられない。あの方を離したくない、なるべく長く側にいて欲しい。離れてしまったら、片時も忘れられなくなる。そう悲嘆する人々に捕まって、主君は昨夜も帰らなかったのだと、想像は容易につきます。


 主君が不在の日は、皆気ままに過ごします。手合わせをしたり、読み書きをしたり。昼間から酒を煽る方もいれば、惰眠をむさぼるも自由です。
 僕は、主君がいれば小姓のように雑事を請け負います。不在の時は、主君がいなくとも進められる雑事をこなしています。一番よく取り組むのは、主君へ捧げられた贈り物の整理です。

 神の類に見間違えられる主君には、毎日文や贈り物が絶えません。金品の寄付や本丸への物資の補給も多々ありますが、純粋な贈り物も相当な数届きます。僕が来てから、本丸に切り花の無い日はありません。それも主君へ絶えず花が贈られてくるからです。それらは同じく、主君へと捧げられた壺や花瓶に飾られています。
 それから、贈られてくるのは、菓子。桐箱に入った青果類や鮮魚。食べられないものですと、器や盃や、着物に置物。装飾品も多いです。魔除けの獣像など、珍品も時々見受けられます。

 主君はそれらに一切興味を持ちません。菓子を食べれば美味しいと微笑み、花を見れば目元を柔らかくするのですが、それがなぜ自分の元にあるかを気にも留めません。贈られたものについて主君は、感謝をしたこともなければ申し訳なさそうにしたこともありません。自分の手元に花や菓子がある因果に、主君は関心を持たないのです。文は、まるで当たらない占いが書いてあるようにでも眺めて、捨ててしまいます。
 本丸に届けられた主君への捧げ物は、全員が好きに使って良いことになっています。だから菓子や青果のほとんどは刀剣男士のおやつです。甘く無いものは台所行き。器や盃は歌仙さんや大般若さんに目利きしてもらって、飾るものもあれば、売り払うことも少なくありません。

 いくら美しくともつれない主君だというのに、贈り物の数が減る気配はありません。
 小一時間、仕分けをした僕は思わずふう、と一息ついてしまいました。とりあえず優先的になまもの、生花は仕分けましたが、部屋にはまだまだ開けられていない箱があります。


「平野、精がでるな」
「鶯丸さん」
「これはまた。結構溜まっているな」


 通りがかった鶯丸さんが、動じた様子もなく部屋に積み上がる箱を見ます。


「主君への贈り物、また増えたような気がします」
「あいつも、気を持たせるようなことをしているからな」
「そうなのでしょうか」


 あの主君が相手に気を持たせる? ひとつの返礼もしたことがないあの主君が?
 どうも無関心の割合が多い主君とは繋がらなく鶯丸さんが見ると、鶯丸さんもまた困ったように笑んでいました。


「くれるなら食べられるものと言いふくめてる、と本人が言っていた」
「本当なのですか? 主君はあまり召し上がらないのに」
「皆が喜んで食べてるじゃないか」
「それは、そうですが……」
「だからさ」
「………」


 絶えず贈られてくる多種多様の食材を、楽しんでいる刀剣男士もいる。
 それらを口にして美味しいと言いながら、僕は常に大なり小なり罪悪感を抱いてしまいます。これは、主君に一瞬でも思い出してもらいたい誰かの願いが詰まっている。なのに、主君には届かず僕らが食べて消費している、と。


『あるじさんが良いって言ったんだから、良いんだよ』


というのは乱の発言だ。


『残念なこととは思うがな、腐らせちまうよりいいだろ』


と言ったのは薬研でした。
 それも一理あるからこそ苦々しく思っていたのに。

「はぁ……」


 当の主君は僕たちに食べさせられるからと、周囲に食べ物を催促してるとは。
 タチの悪い無邪気さにますますあの方が、人間ではなく妖寄りに思えてきます。


「どうした、平野」
「いいえ、大丈夫です」
「早速だが、何か茶菓子は来てるか?」
「そっちに仕分けたのがお菓子で、手前が足が早いものですから。どれでも持って行ってください」
「すまないな。……ああ、あと、救急箱がどこにあるか知っているか?」
「それなら玄関の戸棚にひとつと、主君の部屋にひとつありますが。鶯丸さん、お怪我を?」
「いや、俺はなんともない。どうも思い出せなかったからな、本当はそれを聞きに来たんだ、助かった」


 鶯丸さんは積み上がった箱に軽く目を通し、豪華な箱のカステラを手に取りました。


「お茶、お入れしましょうか」
「いや、いい」


 カステラを食べるならお茶だろう。僕も休憩を入れたいと、鶯丸さんに申し出たのですが、断られてしまいました。


「自分でいれたいんだ」


 その返事で、僕はあっと悟りました。
 鶯丸さんがひとり台所に立つ。それはもうすぐ、主君が帰ってくる合図です。




 世の中の九割九分に興味がなさそうな主君ですが、刀剣男士には一人も漏らさず、静かな愛を注いでくださいます。僕たちはもれなく、主君からの慈しみを受けていて、逆に審神者になる前に、何を好きだったのだろうと思うくらいです。
 主君からの愛を実感しながら、僕は鶯丸さんだけは主君の特別であることを、なんとなく気づいていました。
 何か証拠があるわけではありません。鶯丸さんに接する主君も、ごく普通には見えるのですから、勘の域を出ません。ですが、主君が帰ってくると必ず鶯丸さんと縁側で二人だけのお茶の時間を取っているのを見ると、そう思わずにいられないのです。

 今日の主君もそうでした。帰って来た主君は、ほぼ無いと言っていい足音で廊下の奥から現れました。


「主君、おかえりなさい」


 僕がそう声をかけると、主君はこくりと頷きました。それから手に持っていた袋を僕に渡します。ずっしりと重い中にはいくつかの着物が入っているようでした。
 よく見ると、主君の召し物が出かけた時とは違います。おそらく、どこぞの奥様に捕まって、着せ替え人形にもなっていたのでしょう。そう願います。


「これ、お願い」
「はい」


 頷くと、主君はそのまま一直線に縁側へ向かってしまいました。おそらく、鶯丸さんが待つ縁側です。
 僕は足音を消して、主君の後を追いました。分かっていた光景がその先には待っていました。

 僕は時々、こうして二つ並ぶ背中を盗み見てしまいます。手をつなぐわけでもありません。何か特別な打ち明け話をしているような風でもありません。そもそも、会話が盛り上がっているところを見たことがありません。
 けれど、なぜだか二人の背中が並んでいる光景は、絆と呼ぶには乱暴なほど微か、見えない糸で繋がれているようなのです。脆い繋がりを見せる二人の背は、いつ見ても神々しい。

 僕はそっと目を逸らしました。



 主君がまた増やした着物も含め、贈り物の仕分けを粗方片付けて、僕は台所へ向かいます。何があったかよくわかりませんが、どうやら主君は大きな鮪(まぐろ)をいただいて帰ったようで、大包平さんが台所の方で解体するとちょっとしたお祭りになっているのです。
 出遅れましたが、まだまだ大きな鮪はその姿を残していて、大ぶりなサクが次から次へと盛り付け役のまな板の上へと運ばれていきます。大包平さんの額にも汗が滲んでいます。

 ふと気づくと見物している中に鶯丸さんがいます。主君と縁側でのお茶飲みはもう終わったのでしょうか。
 じゃあ主君は? と思っていると鶯丸さんが僕を呼び、耳元で囁きました。


「縁側で主が寝てしまって、置いて来たんだが」
「えっ、主君が?」
「ああ。そろそろ起こして来てくれないか?」
「僕がですか? 鶯丸さんが行けば……」
「いつものところで寝ている。頼んだ」


 鶯丸さんが行かなくていいのかと思いましたが、多分大包平さんと鮪の格闘を優先させるつもりなのでしょう。


「わ、分かりました」


 どことなく頑なな鶯丸さんに、僕は頷かざるを得ませんでした。

 台所の喧騒から抜け出ると、鶯丸さんの言った通りに、さっき二人の背中が並んでいたところに布団の膨らみがありました。座布団を枕に主君はよく眠っています。


「主君、お疲れ様です」


 なるべく優しく肩を揺すると、彫像に生気が宿ったように目を覚まします。起き上がった主君は呆然と頭を揺らしています。


「大丈夫ですか?」


 主君がこくんと頷く。だいぶ疲れて帰って来たようでした。


「平野藤四郎、本丸は、………」
「本丸は変わりありません。今は主君が持って来てくださった鮪を解体しているところで、皆見物に台所に集まっています。大包平さんが解体するからって、鶯丸さんも台所に」


 なぜか、鶯丸さんの居場所まで付け足してしまった僕は、急に気恥ずかしくなりました。鶯丸さんは主君の特別だというのは、僕の下衆な勘ぐりでしかない。それを表に出してしまったことが、非常に恥ずかしかったのです。
 顔が熱くなるのを感じながら、そっと主君を見やる。そして僕は、僕の発言が主君に一切届いていなかったことに気がつきました。
 なぜなら主君は、一心に自分の指に目をやっていたから。正確には自分の小指、そこに巻かれた絆創膏に、です。同時に思い出したのは、救急箱の場所を聞いた鶯丸さんです。

 絆創膏を見つめたまま動かない主君。世界の中心がそれであるかのように、時を忘れて見入っています。
 僕は言葉を失っていました。山ほどの贈り物は愛する刀剣男士に消費させて、文に乗った言葉はうわさ話のように体のどこにも残さない主君が、鶯丸さんからもらったであろう一枚の絆創膏に心縛られているのだから。

 勝手な勘ぐりだからと、恥ずかしさなんて感じる必要なんてなかった、と僕は思いました。そしてなんて残酷な主君だろう、と。

 あえて、僕は主君に声をかけませんでした。むしろいつまで主君がその絆創膏を、子供のように見つめ続けるのかを見守っていました。
 多くの心を惑わせて無邪気に踏みにじる、この酷たらしい主君。彼女が、鶯丸という刀剣男士のいない場所でだけ、剥き出しに見せる感情。
 このひとも、こんな感情を隠し持っていた。その心を動かしている瞬間をいつまでも覚えていたいと僕は思いました。

 このひとはちゃんと人間だと刻みつけて、支えられるように。僕は彼女の意識が自然と戻ってくるのをいつまでも待ちました。



(お題の要素薄めですみません、お題ありがとうございました……!)