あと少しだ。この問題を解き終えたら、私は玄関から飛び出し事前にスタンバイさせたタクシーに飛び乗る。そうすれば運転手はオーダー通りに、中心街の日本食レストランへと連れて行ってくれるだろう。ああだけど、今回は本格的に限界かもしれない。キーを叩く指が震える、脳がズキズキと痛み出している。この分だと車内で最後の気力を振り絞って、ドライバーにチップを握らせ頼まねばならない。「私は限界だ。後生だから私を担いででもノレンをくぐらせて、どうにかあのスシカウンターに座らせてくれないか」と。
記憶は一度そこで途切れている。
「失礼」
呼びかけにはた、と意識が繋がれる。遊んでいるような調子の、けれど紳士的な品の漂う女性の声。
あれ、私は一体何をしていた? 見回すと私は願った通りの、贔屓にしている日本食レストランのカウンターに座っている。カウンターの向こうには気難しい顔をしたスシ職人。チャイニーズではない、純日本人の彼が奇怪なものを見る目でこちらを一瞬見ている。目の前にはすでに芸術的な握りがある。が、注文した記憶も一切なかった。
記憶は無い。でも醤油のあともあるしすでに、いくつかスシを食べた後らしい。その時美味しいものを大将のおまかせで握ってもらうのがこの店のやり方だ。だからきっと今日も職人が目の前に相応しいものを握って出してくれたはずだが、これが一体何点めなのか不明だ。なのにシャリでお腹が重いし、何より自宅でエネルギー切れを起こしていた頭が働いている。
最高級のスシだというのに……。食べた記憶を吹っ飛ばしているなんて、なんてもったいないことだろうか。
「失礼、お嬢さん?」
南の海を泳ぐようだった声が苛立ちを増して降りかかる。横を見ると、その声にぴったりな、仕立ての良いスーツの女性がこちらを覗き込んでいた。白い肌に白く長い髪。一瞬アルビノかと思ったが、血の色とは正反対の冷ややかな青い瞳を、やはり白いまつげが縁取って揺らいでいる。蠱惑的だ。
「隣に座っても良いだろうか」
「ああ、はい」
なんだそんなことか。私は虚ろに頷き、スシに向き直った。記憶は無いけれどお腹はすでに重いなんて。本当に私は損をしている。
気落ちしつつ握りを口に入れる。
「……、…」
お、おいしい……。空腹というスパイスは無くしてしまったものの、やはり最高に美味しくて少し気持ちが慰められた。
「フフーフ」
聞きなれない息遣いが聞こえて、横目であの女性を見る。意外なことにあの女性は堂々とスシを食べる私を観察していた。
「何か?」
「いや君は実に美味しいそうにスシを食べるから。よし私も同じものを頼もう。タイショー!」
「はあ……」
美味しいものを美味しそうに食べるなんて当たり前だ。何をいうのだ、この美人は。困惑していると、彼女は急に気安く笑って、名前を教えてくれた。ココ、というらしい。
「ココさん。私は、」
「! フフーフ、聖書に出て来そうに古いが、良い名前だ。、あなたは随分グルメみたいだ。お若いのにこんな良い日本食料理店に来るなんて。お仕事は?」
「私? 別に、学生です」
「学生? 学生はこんな高級店には来られないと思うけど?」
「パズルを……」
言いかけて淀む。私の稼ぎ方を、大学の知人に話したことがある。その時はその仕事の良し悪しを考えたこともなかったのだ。呆れたあとに嫌悪された、嫌な顔をされた印象が強く残っている。
だけど隣にいる女性・ココは、大学の知人たちとは違っている、ように見えた。若い女性ではある。けれどそもそもこんなレストランに来られるということだけでもココの身分が普通じゃないことは確かだ。
「続けて」
絶やされない笑み。堂々とした仕草。詐欺師だってそれくらいの真似はできるかもしれないけれど。私は彼女を見ているうちに話してみようか、という気持ちにさせられていた。
「……パズルを解く仕事をしているんです、様々なパズルを」
「なるほど? 懸賞金付きのパズルがあるとは聞いたことあるけれど、そういうのを解いているってこと?」
「さあ。今は自宅に送られて来る問題を解いているだけなので」
過去に嫌な顔をされた一番の理由はそこだった。
送られて来た問題を私は解く。解き終わったら指定の方法で返送する。そうすれば口座に入金がある。そのループで私は生活費を稼いでいる。
ただしその問題が誰から送られて来るか、振り込んでいるのが誰なのか、自分が解いているものがなんなのかさえ、私は知らない。無知なだけならまだしも興味を持たずにただパズルを解いている。
パズルという呼び方はかなり雑な括りだ。私に送られてくるものはもっと多種多様だ。
例えば誰かの口座のパスワード、暗号文、設計図、論文、何かしらの顧客のリストの場合もある。中身がなんであるかは私の知ったところではない、私はパズルを解くだけ。そう口にした後、同い年の女の子は私をあからさまに気持ち悪がったのだった。
箸でガリを一枚はさみ、かじる。甘さとジンジャーの辛さが舌に広がる。ココは、まだ笑みを浮かべたまま、私を見ている。
「面白い。いつからその仕事を?」
「昔からです。幼い頃から、様々なパズルを解く勉強をしていたので」
「英才教育を受けていたってわけ」
「ええ。教育というより、あれは訓練みたいでしたけど」
「じゃあはなるべくしてパズル解きのプロになった?」
「………」
それは、違った。確かに幼い頃から提示された問題を解く訓練を繰り返し繰り返し受けて来た。その教育を受けた私は、本来行くべきところにたどり着くことはできなかった。
「孤児だった私を支援してくれるひとがいて。顔も見たことのない、名前もKとだけ知らされていてどんなひとかは知らないんですが」
「K、ね……」
「ええ。教育のプログラムもKからの要求に応えられるように組まれていましたし、私が使えるようになればそのひとの元に行くはずでした。だけど、大蛇が」
空に大蛇の名を冠した衛星システムが姿を現したのは約2年前のことだった。この空をヨルムンガンドが覆うようになると、Kが私を引き取るという話も無くなってしまったのだ。おそらく、理由は単純に、私が必要なくなったのだろう。
ヨルムンガンドが全てのパズルを焼き切ってしまうから、私はペンを持たずともよくなった。いや、いらなくなってしまったのだ。
「大きな大きな蛇に、仕事を奪われまして」
「そりゃそうなるか」
そう言われても普通のひとには事情がつかめないだろうと思ったけれど、ココはどうやらヨルムンガンドを知っているらしかった。
「分かるんですか?」
「概ねは、ね。量子コンピュータすら完成したこの時代に、対抗手段として人力を用いようとするなんて、には悪いけれどはっきり言おう! 馬鹿げている!」
ココのはっきりした物言いに思わず笑ってしまう。
「ほんと、そうですね。でも私への投資が始まったのは私が4歳の頃ですから。15年以上前なら、人の脳は有効なリソースでした」
逆に言うと、加速度的に技術の進歩を重ねた人類の15年が、Kにとっても誤算だったのだろう。
「そう? 見通しが甘いと言わざるをえない!」
「ふふ。でも、どんな計画も最初は夢物語のように曖昧で、けれど無根拠に明るいものです。……ヨルムンガンドだって、誰かの頭の中にあったときはそうだったはずです」
「はヨルムンガンドが憎い?」
「いいえ」
Kの投資のおかげで私は大人になれた。けれどKのためだけに育てられたのに、ヨルムンガンドのせいで、Kの元には行けなかった。それでも今の世界に、私が憎しみを抱くことはない。
「私はヨルムンガンドに、感謝している、んだと思います」
ヨルムンガンドに解けないパズルはなくて、私は人よりよく誂えられた脳を持つただの人間で。必要とされなくなったあの時の私は、存在意義を失ったも同然だった。
けれど、ヨルムンガンドが私の全てを食べてしまったから。私はようやく自分の生きる道を探し出したのだ。
「ヨルムンガンドに全てを奪われて、未来はなくなった。けど、わたし、自分の意志で働くようになったんです」
「………」
「どうあがいても私は相変わらずパズルを解くことしかできないと分かってしまったから、ちゃんとなんのためにパズルを解くかも自分で決めました」
いつの間にか笑みを失ったココ。反対に私は胸の底から喜びが溢れて止まない。このひとに、一矢報いたような気持ちだ。
「なんのためなのか、聞いても?」
「こうやって最高のレストランで美味しい料理を食べるためです!」
「………」
「美味しいものを食べるために私は生きているんです! おスシ最高! これぞ生きがい!!」
「ま、まあ確かに美味しいけど」
「ココももっと食べないと損ですよ!」
頭も体も使い切って仕事をして、美味しいものを食べるのは自分への褒美だ。私もまだまだ食べようとマスターに追加をオーダーした。
大将の握る手つきに私はわくわくが止まらないというのに、ココはうんうんと隣で体を変な方向に曲げて唸っている。
「」
「はい」
「今日の私はね、プレゼントを受け取りに来たんだ。ここにくればプレゼントがあると聞いて」
「そうなの! じゃあプレゼントは見つかった?」
「ええ」
一体ココは何をもらったのだろう。このお店に来ること自体が素晴らしいプレゼントなのに。ココのような普通じゃない人に送るのだからきっと、プレゼントも普通じゃないはずだ。期待を膨らませて返事を待つ。
けれどココは、まっすぐに私を見る。右を見て、左を見て、私の後ろを見ても何も誰もない。慌てて首を振った。
「私?」
ココが頷くので慌てて否定する。
「私は違うわ。私はプレゼントを預かったりしていないわ」
「。は気づいていないかもしれないけれど、今日は貸切だ」
「貸切? そんなはずは……」
だって向こうのテーブルには何名かがわいわいがやがやとスシを食べている。
「あれは全員私の部下だ。フフーフ、皆の衆、スシを堪能しているかね!」
ココが声あげるとウィ〜と男臭い声が返って来る。
混乱に混乱が重なる。店の客が全て、ココの一行だったことにも驚きだけれど、このお店は今日は貸切で、なのに私だけは通されて。それが示す事実はわかるけれど、わからない。
「違うと思う。何も聞いてない」
「でもここに来れば分かると、そう言われていた。来たらレストランは貸切で、ただスシを黙々と食べ続けるあなたがいた」
「そんな……」
「受け取るつもりは無かったけれど、気が変わったよ。、Kにかわって、今度は私が貴方を飼ってあげよう」
私の新しい主人は、私に好きなだけスシを食べさせ「もういい」という言葉を聞くなり、会計はK持ちだからとそのまま私を家へと連れ去った。
私の是非なんてココは聞いてくれなかった。いつの間にか私の身にはリボンが巻かれていたのだろう。確かにプレゼント自身は、あの人に贈られたい贈られたくないなんて意見を伝えられないものだけれど。
以上が、私の身柄がココに渡されるまでの経緯である。
(数日中に後日譚を更新いたします)