神様は、死なない。神に死など無い。
もし存在を感じられないとしても、死したわけではない。
神は、身を隠されておられるのだ。
痛覚や触覚や嗅覚や、味覚といったはっきりとした意識は私に無かった。夢の中特有の曖昧な世界だった。膨張した聴覚には絶え間なく水の流れる、そして砕ける音。世界がやけに明るいのはこれが夢の中だからかと思ったが、水に差し込んだ光が乱反射して輝き、この地を照らしているせいだ。行き交うのは、流線的肉体のゾーラ族。
美しい水の里。私の意識が在るのは、ゾーラの里のようだった。
特に隠れていないのに、ゾーラ族でない私に目線を向けるものがいない。というよりは誰にも私と言う存在が気づかれていないようだった。私自身も、いつか無念を抱いて死した時は亡霊となり、このようにハイラルを彷徨うのだろうか、という気がした。
この感覚はかくれんぼと違う。誰にも気付かれず、気にもとめられないまま、私はゾーラの里を漂った。
誰も私を感知できない、とわかっているのに。女神像の前に立つ存在を見つけ、思わず身を隠しそうになった。
目の覚めるような、身の奥に深くから流れるような赤色の身体。彼のオーラに彩りを添える、高貴なヒレ。
シド王子が、顎をくっと上げて、女神像を見上げていた。
「シド王!」
彼をそう呼んで振り返らせたのは私ではない。私を追い越していったのはおそらく80歳ほどの、ゾーラ族の中では幼さを残す青年だった。
(ん?)
今彼は、シド王と言わなかっただろうか。私がこの前謁見した際、ドレファン王はご健在で、その大きな口で里の平和を告げてくれた。インパ様からも、里の危機となりそうな大きな要因など無いと聞いている。
私の知っているゾーラ族のシドだって、王族としての素質を見せつけながらも、未だ王子の身であったはずだ。
けれど、振り返ったシドの姿に、私は言葉を失った。
完全に成熟したみずみずしい身体。
私が知っているシドよりいくつか身に傷が増えている。だがそれは、きらびやかな彼に荘厳さと威厳を添えていた。
見知った彼がここまで歳をとるにはいったい何年の時が過ぎたのだろう。私の寿命が尽きた、その何十年後なのだろう。
「どうした?」
シドはゆったりと口を開いているのに、一音一音ごとにギザ歯の切っ先がぎらついた。私は息を飲んだ。私が会う時の快活なシド王子とは違うシドが女神像の間の暗がりに佇んでいる。
ゾーラの青年の堅い背筋にも緊張が見えた。
「いえお姿が見えなかったので」
「黄昏時は、いつもここに来ているゾ」
「確かに。女神像の前によくいらしていますね。何かを祈っていらっしゃるのですか……?」
「祈ることもあるが……」
シドは一度言葉を切って、思案顔をした。
ゾーラの青年の戸惑う顔を見ると、ふと微笑し、言葉を続けた。
「オレはオレの女神に会いたくて、女神を探しているのだ」
「女神に?」
「昔は何もせずとも向こうから会いに来てくれた。だが、今はこの世界のどこかに隠れてしまった。彼女はかくれんぼがどの種族の、誰よりも得意だった」
「………」
私は反射的に耳を塞いだ。けれど夢の世界で、耳の横の手は意味を為さないようだった。シドの声が、彼の口が型取り、ぎらつく歯の隙間から溢れる声が全身に響き渡る。
「ああ、君はどこに隠れているんだ?」
「……という胸糞悪い夢を見てですね」
胃のむかつきをこらえながら私は冷たいスミレ茶に口をつけた。
シド王子は顎に手を当て興味深そうに聞いている。そういう仕草をしていると、どちらかといえば騒がしい男のくせに途端に彼は理知的に見える。
「それで、キミはオレに会いに来てくれたのか」
「ええ、まあ……」
「その上こうして茶も飲んでいる」
「口をつけないのは失礼にあたるかと思いまして」
「キミがオレと飲んでくれなかった茶を集めれば小さな池くらいは作れるゾ」
「それは言い過ぎです」
ゴーゴースミレを浮かべた涼しげな茶。この茶の味も効能も嫌いではないのだが、ため息がこぼれてしまう。
「………あまり村を離れたくはないのですが」
というよりは、たどり着くのに苦労はするし、行くとなると十日は家を空けねばならないし、たどり着いたら着いたで物好きの王子に捕まるとなかなか帰れないしで、ゾーラの里行きをなんとか避けねばと思う理由は山ほどある。
こう言っておけば角が立たない。
「そうですね。あまりに夢見が悪く、精神への悪影響が強いもので。仕方なく今回の命を受けました」
軽率なシド王子。彼から無邪気に与えられる迷いを振り切りたい。気持ちを惑わされたくない。そう、カカリコ村の女神像の前で入水し、願った。願いとは裏腹に、私はその夜から夢を見続けている。
彼が王となるほど遠い未来で、すでに亡き私を、シドが探している。ゾーラの里の長として相応しく、偉大な存在となった。だというのに彼は、神々が死なずに隠れるのと同じように、私もまたどこかに隠れているのだと愚かに信じていた。
そう、夢の中のシド王は愚かであった。宝玉のような彼に、私という存在が一閃の傷をつけていた。
「シド王子……」
窓の外を見る。水が流れるのを見る。シド王子の顔を見たくない、そして私の顔も見られたくない。
「あれは夢で、シド王子は私を探したりしませんよね」
今まで聞いてきたような興奮しきった様子ではなく、なぜだか笑いをこらえてシド王子が言う。
「キミは最高だゾ」
そんな言葉が聞きたかったわけじゃない。
腹立たしいと同時に思い出した。シド王子が私の気持ちを汲み取ってくれたことがあっただろうか。私が願ったような感情を抱いてくれたことが、一度だってあっただろうか。
「もう、帰ります」
胸を占めているのは苛立ちだった。
シド王子は珍しく私の帰郷を止めない。後ろを追って歩いている気配はあるが。またあの、からかうような目で私を見下ろしているのだろうか。
「! オレがキミをいつまでも探さないようにする方法はあるゾ!」
里を背にして立つ王子を私は振り切った。
「オレの傍で生き、オレの目の前で確かに死んで見せることだ!」
またあの王子は世迷いごとを言っている。そんな方法は聞きたく無かった。期待は外れた。私はシド王子に対し、ひどく失望した。
私は彼への当てつけのつもりで川沿い、山の際を歩きながら帰路をとった。姿を煙に巻くのではなく、この足で歩いてだ。私からシド王子が見えなくなるまで、シド王子から私が見えなくなるまで。
もう私はシド王子の前で隠れることはしない。次会う時も、これからも。あの者の前で堂々と姿を現そう。それもまたひとつ、私が消滅した時に「キミは隠れている」などと言わせない、死を知らしめる方法だと思うからだ。