いきなり蛇口を全開にした。限界まで。それでいつものホエルコじょうろに水を満タンまでいれて、花咲く木々に水をやる。水に濡れてきらきらひかる木々たち。あと数日すれば実をつける。

 光を受ける木や花、それらが何も変わらずにいるという眩しさが目にしみる。喉の、奥の奥まで締め付けられる。
 昨日のことだ。ダイゴさんからの告白を断ってしまった。木や花にとくとくと水を飲ませる。これが私なりの現実逃避だった。




 どうしてそういう、つまりダイゴさんに告白されるような状況になったか、よく思い出せない。
 私とダイゴさんがどんな関係だったかと言われたら、知り合いと友人の中間地点だ。たまに、トレーナーとして役に立つグッズやどうぐを交換し合うこともある。ダイゴさんはよく私に進化の石なんかをくれて、私は珍しいきのみをよくまとめて送っている。けれどそれ以上の時間を共有したことはない。

 仕事終わりの帰り道。途中にあるふかふかな土に植えたきのみの様子を見ていると、声をかけられた。


「ただいま」


 と、ダイゴさんは夕暮れを背にして目を細めていた。一週間ほど前もこうして夕暮れの中で、きのみに水をやっているところ彼と鉢合わせて、副社長としての仕事で、カントー地方に行くと教えてもらっていた。
 なかなか意気揚々とした顔でカントー地方のことを語るので、多分カントー地方でも石を掘ったりするアテがあるのだろうな、と感づいてしまったことも覚えている。


「これ、おみやげ」
「わ、ありがとうございます」


 四角い大きな箱。ダイゴさんがにこっ、とこっちを見ている、見続けられている。なんだか中身を見なきゃいけない気がして私は袋の中身を開けた。
 蓋をあけると一番は天蓋のようなプラスチックの覆いだ。取り出して見ると、下には土の入った鉢。


「これはね、きのみプランターって言うんだよ。トレーナーが旅をしながらきのみを育てられるように開発されたものらしい。きのみマニアの君にぴったりだろ?」
「きのみマニア……。まあ、そうですね」


 きのみ栽培は、私はちょっとした特技になりつつある。ホウエン地方のふかふかな土のありかを割とよく知っていて、きのみのために仕事終わりはポケモンに乗ってきのみたちに水をあげにいっている。そんな日々なので、マニアと呼ばれても強くは否定できない。そうやっていろんなところに出向いているところに、ダイゴさんと出会ったわけだし、ダイゴさんの中の私は”きのみマニアな女の子”というキャラなのだろう。
 本当はきのみと自分のポケモンにだけしか気持ちを打ち明けられない、内気でいくじなしのわたし、というだけなのだけど。


「ありがとうございます」


 それ以上の言葉をどうしたら見つけられるかわからない。だけど嬉しい。きのみプランターを回して見ながら、どうしよう、何を植えよう、会社のデスクにでも置こうかななんて考える。


「その喜んでくれる顔が、見たかったよ」
「は、はは……」


 こらえきれず顔が熱くなる。勘違いしちゃいけない。何度か話していてわかったけれど、ダイゴさんはそういうことが言えてしまうひとだ。
 どぎまぎとプランターの土のきらきらばかりを見ている。ダイゴさんの首から上が見られない。


「カントー地方、悪くなかったよ。だから、いつかは一緒にいこう」


 ダイゴさんの首元が喋るのを私は固まりながら聞く。


「一緒にカントー地方ですか……?」
「うん。きのみプランターの他にもさんに色々見せたいものがあったんだ」
「私にですか?」
「見せたいというか、僕のいる場所にさんがいてくれればいいと思ったというか、……僕は君が好きなんだよ」


 一瞬で冷静じゃなくなったのは私だ。だけどダイゴさんの方もなんだかむず痒そうな、彼にしては珍しい、失敗した、というように慌てた顔をしていたのだ。
 その場の空気は混乱に満たされていた。お互いになぜか、パニックになっていたのだ。

 私に比べればまだ頭の回っているであろうダイゴさんに、「さんは?」と言われ、気づけば私は「ごめんなさい」してしまっていた。90度に頭を下げて、そのままダイゴさんに何も言わせないすばやさで私は駆け出していた。
 きのみプランターを抱えたまま、肺が痛くとも走って走って、灯りのつかないわが家に逃げ込んだのが、昨晩だった。

 玄関の冷たいドアにもたれかかりながら、苦しい息を続けながらほとんど初めて見た慌てたダイゴさんを思い出す。

 ダイゴさんは、親切で、話しているだけで良いひとなのがわかって、憧れのひとでもあった。
 ダイゴさんが私に好意を抱いていてくれている、そのことは嬉しい。あんな輝いたひとに、自分を認めてもらえるなんて、光栄なことだ。だけどダイゴさんと恋人同士になる自分は、想像がつかなかった。裏切られるとか、ダイゴさんに何か悪い目に遭わされるだなんて思わない。ただただ、ダイゴさんの恋人と”私”が結びつかない。ただ漠然と、私じゃないと思ってしまうのだ。
 想像もつかないほどハッピーな私は、もう自分から壊してしまった。けれど、平凡に仕事をして、毎日きのみを可愛がってささやかな喜びを得る、安定した自分は守れた気がした。




 ホエルコじょうろはもう空っぽだ。最後の雫を振り切っても、帰ろうという気持ちが湧いてこない。空の青さに気持ちが吸い込まれて行く。ぬるい土の匂いと、青葉の匂いと。
 目の前に土に植わっているのはオッカのみだ。丁寧に育てていたこれが実をつけたら、その中で一番良い実をダイゴさんにあげたいと思っていた。それでほんのちょっとでも役に立てたら良いなと、期待を押さえつけながら毎日様子を見に来ていた。
 なんで頭を下げてしまったんだろう。そう思いながら、でも、内心ホッとしている。

 告白を断られてしまい、ダイゴさんも少しは悲しかっただろうか。だけど、大丈夫だと思う。そのうちもっとふさわしいひとに恋をして、じきに恋人になって、私と過ごすよりずっと良い幸せを掴むだろう。ダイゴさん。あのひとなら大丈夫だ。

 目元に手をやって下を向いた時、後ろからやってくる足音に息を飲んだ。


さん」


 ぴくりと指を動かしてしまう。葉っぱが揺れて、落ちた雫が土に吸い込まれて行く。


「なんですか」
さんのこと、簡単には諦められないから。追いかけてきたよ」
「………」
「ごめん」


 黙っていると、ダイゴさんに謝られてしまう。彼が何を謝ることがあるのだろうか。
 胸が痛む。そもそも私が、彼の気持ちに対して謝りの言葉をぶつけたというのに。


「あんな風に僕の気持ちをぶつけるつもりは無かった。君のことが大事だから、もっとちゃんと時間をかけて、丁寧に伝えるつもりだった」
「……返事は多分、変えられないと思います」


 好きという言葉をこぼしてしまったダイゴさん。思い出すだけで私は惑わされてしまって、記憶は幻のように白む。それでもあの夕暮れから、ご飯を食べてもお風呂に入っても寝ても、起きても、思い出しては考えた。
 憧れの募ったダイゴさんからの告白に、ごめんなさい以外の言葉が私に言えただろうか。もちろん答えは否だ。何度思い返しても、言えないのだ。


「うん。ごめんなさいはもう聞いた。それで良い。でもちゃんの気持ちは?」
「………」
「好きとか、嫌いじゃないくらいは、教えて」


 選択肢に「ダイゴさんが嫌い」が入っていないことが可笑しい。それが潰れそうな気持ちの端っこを崩した。


「僕のこと、好き? それとも嫌い?」


 やっぱりダイゴさんは分かってて言っているみたいだ。彼のこと嫌いなわけがない。そんな言い方をされると、自然と言葉が引き出されてしまう。


「ダイゴさんのことは」
「うん」
「好き、です」


 土と葉っぱと空の匂いばかりだった嗅覚に、ふわりと香りが重なる。それはそっと後ろから伸びて来て私を捕らえた、ダイゴさんの香りだった。


「本当はね、分かっていた。今気持ちを伝えても君が断ってしまうこと」
「ごめん、なさい」
「良いんだよ。君の臆病さは、同じように優しさや繊細さを持っているからで、それが僕は好きなんだから。だからゆっくりとお互いを受け入れて行く時間が必要だろうって分かっていたのに。怖がらせた」
「ごめんなさ……」


 育つ木々、咲いた花、実りをつけようとする枝の横で私たちは顔を合わせて、少しだけ会話を交わして。そうした日々を送る関係を、私は知り合い以上で友達未満だと思っていた。
 だけど、ダイゴさんは違った。ダイゴさんがこんなにも私に理解を差し伸べていてくれたことを、私は気づいていなかった。
 ダイゴさんは分かってくれている。私もダイゴさんが好きなこと、だけど私が逃げてしまうことも。
 ああ、ダイゴさんと一緒なら。やっと思えたことを、ダイゴさんがそのまま口にする。


「大丈夫」


 ぼろっと溢れ出した涙をスーツの袖がはじく。香りが強くなる。彼の、想像していたより柔らかい毛先が首筋で擦れている。触る想像もしていなかった彼の服の裾に触れようとすると、腕がほどけていく。
 背中から伝わる、私を確かめていたあの抱擁が告げていたことを、またダイゴさんが言葉にした。


「きっと大丈夫だよ」