もっと主と呼んで欲しい。そう膝丸にねだりながら、主従では無い腕を求めて、抱擁を浅ましく貪って。
「主?」
遠征帰りの髭切の、屈託の無い声。
彼は私をからかってきた。けど、疑うことは無かったと分からせた声色はそんな私へ振りかざされた罰のように思えた。
呼吸を忘れたくせにどっと汗を溢れさせる私をよそに、膝丸は「兄者!」と、割に明るく彼の帰還を喜んでいる。そんな膝丸の様子が場の雰囲気を決めたのだろうか。髭切も穏やかな顔つきでゆらりと室内に入ってくる。
「ああ、ただいま、ひら丸」
「膝丸だ、兄者」
至って普段と変わらない様子でやりとりをする二人。抱擁を解かれた私はその場に崩れるばかり。
髭切は、膝丸を求める顔をした私をみたはずだ。膝丸は髭切を拒まない私を見て、嫉妬を抱いていたのでは無かったのか。
だけど二人にとっては何も重大なことは無かったと言わんばかりに話が進んでいく。
「主、遠征の結果だけど」
「う、うん……」
この場からいなくなりたいと思う私を射るのは髭切の金色だ。取り繕うように着物の合わせを摩る。なんで、なんでなの。叫び出しそうなのは私だけのようだった。
髭切が部屋が入ってきたことで、あの日、膝丸と踏み込んだ話はできないまま。それぞれの役割に戻ることになってしまった。私は審神者に、髭切は遠征から帰還した刀剣男士として事後処理を。膝丸は待機する刀剣男士として内番の手伝いへと散会した。抱擁の余韻も幻のように散り、動揺ばかりが私を揺らしていた。
あれから幾日が過ぎた。膝丸が私を睨むこともなくなったが、膝丸と和解した、という訳ではない。単純に、髭切が私の近くへ寄ってこなくなったのだ。兄が関わってこなければ弟の嫉妬も無いようだ。
多くの刀剣男士の合間にわずか言葉交わすことがあると、膝丸は親しさをにじませて私を主と呼んでくれるようになった。引き換えと言わんばかりに、髭切とはもう幾日も話していない。命を下せば、働きは帰ってくる。最近は怪我ひとつない彼の戦績は、主としては誇るべき見返りだ。なのに私は思っている。彼を手入れする機会がやってこない。
私は、寂しがりの獣を飼ったまま、相変わらず精一杯、主の仮面を被っている。
離れていった髭切と、顔を歪ませることの無い膝丸に、自分から近くこともない。だけど日々をこなしながら、ふと静かになるとあの二人のことを考えた。
そうしているうちに寒さが和らぎ、春を迎える。時が経つにつれ、導き出されたのは、二人にとって私はどうでもいい存在だった、という結論だった。
「はぁ……」
そもそも髭切は私をほとんど遊びで「主」と呼び、自分の暖をとるために私を焼いたり、飾り立てて困る顔を楽しんだりと、私を人間扱いしているかも怪しい。
膝丸からの嫉妬も、私は答えを見つけていた。やはり膝丸にとって髭切は絶対に変わらぬ価値を持った存在だ。憤りや苛立ちに狂う彼は、確かに存在していた。けれどそれは、私を占めていた髭切に対するものではない。髭切を受け入れ、髭切に甘んじ、髭切へと流れた。そんな低俗な私へと、向けられた怒りだった。
ため息だって出てしまう。髭切は私に飽きてしまったし、膝丸が持つ髭切への感情が決して私への親愛を超えることはないと分かってしまった。
落ち込んではいる。けれどそれはどこか慣れた感覚だった。愛されないという経験を持つ私にとって、関心を失われた今という時間は、元いた位置へと戻った程度に過ぎない。
そうだ、これは髭切が本丸へ顕現する前の日々のようだ。
業務がひと段落した。肩を落とし息を吐きながらも、私はあの頃の感覚を取り戻しつつあった。
「やあ、主」
声は膝丸のものだった。庭先から早足で歩いてくると、彼の長い足のおかげであっという間に縁側へとたどり着くのだった。照り返しの激しい廊下にかかる彼の影。逆光の中に嬉々とした彼の牙が光っている。
「どうしたの?」
「少し顔色が悪いかと思ったが……」
「本当? そんな気はしないんだけど。でもうん、お外が眩しすぎてくらくらする」
「なんなら俺が横になる準備をしよう」
「ありがと、心配してくれて。大丈夫。小夜もすぐ戻ってくると思うし」
「ああ、今日の近侍は彼か」
「ええ」
「………」
「………」
抱擁以降の私たちは、大方こんな感じだ。
彼が心を乱していたことなど、私が怯えていた時期など無かったかのように言葉を交わすものの、それを続けることができずに沈黙してしまう。まるで切れてしまったものをどうにか繋ぎ直そうと、切り口をすり合わせているようなのである。
それでも、やはり、膝丸と対面していると思う。彼の姿は、私を良い、正しい方向へと引っ張ってくれる。
「主」
白い喉でそう呼ばれるだけで、自分の中に引っ込んでいた穏やかだけれど力強いものを、思い出させてくれる。「なに?」と返す私は、自然に笑んでいた。
「兄者は?」
「髭切とは最近前みたいにしてないの。多分、私に飽きちゃったんだと思う」
「そう、なのだろうか……」
「髭切はもともと、私で遊んでいただけだよ。膝丸なら分かるでしょ、髭切が私なんかにいちいち考えたり色々感じたりしないって」
言ってからいや、分からなかったから膝丸は私を妬んだりしたんだった、と思い至った。あの兄が私を雑に扱いそうだということ、弟なら分かりそうなものなのに。
実際、私は玩具のように扱われていた。そしてままごとで人形が受け取るような、暴力的な甘さの中にいた。
「……以前、取り乱したこと、すまなかった」
以前、と言われるだけですぐにひとつの過去へ繋がれる。膝丸も私と同じようにあの日が引っかかっていたということがくすぐったい。
私は首をゆるく横に振った。
「ずっと言おうと思っていた。まだ求められていると知れて、良かった。心が軽くなった」
それは私の方こそは抱いていた感情だった。彼が私に向けていたのは嫉妬であって、嫌悪や憎しみでないと知って、どれだけ安堵したかわからない。
「俺が言いたかったこととは少し、違ったが……」
「え?」
「いや」
「ごめんなさい、膝丸、今言ったことの意味がよく、わからなかったのだけど……」
「っ、見るな!」
すまなかったと謝る時も彼は決して目を逸らさなかったというのに、今度は顔を背けられてしまった。それも前髪が表情を全部隠すように、だ。
「では、主、その、失礼する」
「う、うん……」
来た時と同じく、長い足で颯爽と膝丸は行ってしまう。広い背を私は名残惜しく見送った。
私と膝丸は、ほとんど元どおりの距離を取り戻しつつある。ごく健全な主人と従者、頼るものと頼られるもの、結果を引き受けるものと行動を起こすもの。そういった、正しさを帯びた私たちに戻ったことに、一片の寂しさを抱かせるものがある。
あの抱擁だ。一度だけ体温を与えてくれたあの抱擁だけが、立ち位置を決められずさまよっている。
どうして私たちは抱きしめあったのだろう。彼に呼ばれると、久しぶりに存在を認められた気がして、伸ばされた腕に都合よく引力を感じてしまって、でも受け入れるように抱きとめられたという感覚も残っている。髭切と膝丸については整理したと思えているのに、交差させたお互いの両腕だけは、分類を決め切れない。あのとき、滲んだ情は、果たして何色だったのか。
「主」
声は耳のすぐ後ろで聞こえた。
声の主を瞬間的に悟りながら、後ろから伸びて来た手に違和感を持った。彼の指先は、こんなに熱を持っていたっけ。
熱い指先が首の筋をたどって耳の裏を擦り、蠢く体温にぞぞぞ、と悪寒が走る。その速度同じように、私と彼とが触れ合った記憶も背筋を走った。
私はこの身に記憶を溢れさせていたのに、髭切は、久しぶりだね、とは言わなかった。
私の二の腕を掴み、強引に立たせる。優しくはないけれど、扱いの分かっている手は、空いた時間を感じさせない。
立たせた後、髭切は私を引っ張った。明るすぎて、照り返しが目に痛い、縁側の外へと。
「な、なに? なんなの……?」
戸惑う私を余所に、髭切は口端をわずかに上げたまま辺りを見渡していた。
「君の皮草履、無いのかぁ」
「なに? 外に出かけるの? っきゃ!」
確かに足袋のままでは縁側から降りられないと思ったら、髭切が屈み、すぐさま私の体が浮いた。膝の裏に髭切の左腕が渡り、しっかりと私を支えている。怖さから彼の首に手を回すと、あっさりと体は安定した。
なんだこれ、なんだこれ。喉から飛び出そうになる絶叫を噛み殺していると、がくんと体が揺れる。髭切が縁側から庭へ降りたのだ。
「ど、どこへ……」
「さぁ?」
こういう口ぶりをする髭切が何かを隠してることは滅多に無い。本当に、どこへ行くか決まっていないのだ。
靴を履かせてもらえないまま、彼が歩みを進めるたびに眩しくなる視界に目を眇めた。
(ありがたいことにあまくて、の続きは複数リクエストをいただいていて、続ける意志があります。というかいつまでも書き続けられる~~ってなってしまったので今回はここで切らせていただきます。
読んでくださりありがとうございました。)