目を覚ましたのは夕方で、狼狽していた早朝に比べれば幾分体は軽くなっていた。けれど心は重かった。これでまた、夜に眠れないかもしれない。そして今日という日も、何もできずに終わっていくことに絶望する。
夏に入ってからというもの、私はいろいろとおかしくなってしまったようだった。体のだるさ、不眠、食欲も無い。
それから、しばらく縁遠かった希死念慮。
私が体も頭も動かせなければ部隊が動くこともない。主人が無能になって、刀剣たちの気配も静かに沈んでいる。主人の霊力に障らないようにおとなしくしていようと、気遣う刀剣もいる。一向に回復しない私に、三日月が朗らかに「しばらくは本丸も夏休みだな」と笑ったのが私の救いにも、自分を責める理由にもなっていた。
茜色に染まった部屋には誰もいない。その方が気が楽だった。短刀たちの愛らしい、気遣う表情を見ると、頑張らねばと思うのに頑張れない自分に失望してしまうのだ。
そっと自分のお腹に手をあてる。空虚感はある。でもやっぱり、あまり食べる気はしない。ほとんど水だけで過ごしているのを、誰かに責められそうだと思っても、食欲は湧いてこなかった。
また、意識が朦朧としてくる。だるさと眠気と疲れで、考えが混濁する。なにが辛いのか、どれが悲しいのか悔しいのか、なんだかわからないけど、辛くて辛くて涙が滲む。
情けない声を押し殺そうと、息までも殺そうとした時だった。
「おい!!」
「っ!」
静けさをぶち破る大包平の声。それから私の嗚咽が響いた思い部屋の空気も吹き飛んで、驚きで涙も引っ込んだ。
大包平は立ったまま、布団の上の私をギロリと見下ろした。
「ど、どうしたの、大包平」
「臥せっていると聞いたぞ!」
「ああ、うん……そうね……」
よく見ると、大包平の後ろに鶯丸の姿を見つける。鶯丸はいつもよりほんの僅かに目を見開いて、大包平を見守っている。あまり見ない鶯丸の、嬉しさや好奇心の滲む姿に脱力してしまう。私が臥せっていると大包平に教えたのは彼なのだろう。
「ごめんなさい、ちょっと、具合が悪くて」
「なぜ謝るのだ。看病は誰が? 薬は飲んだか?」
「安静にしておくがいいみたいだから、みんなそっとしておいてくれてるの。だから大包平も気にしないで。すぐよくなるよ」
大丈夫、そのうちよくなる、心配ない。その言葉を何度重ねて、自分にも刀剣男士にも言い聞かせてきただろうか。
「すぐとはいつだ」
「それは分からないけど……」
「そもそもお前は、やるべきことをやったのか?」
「………」
やるべきこと。その言葉は鋭い切れ味で私を刺す。
執務、戦闘の指揮、部隊の編成、演練の設定、日課の達成、内番係の指定、手入れ、日々の鍛刀、刀装作り、その整理……。わかっている、やらなくちゃ。他の誰でもない、審神者の私がやらなくちゃいけない。
「そうね、やらなくちゃね……」
「やっていない、ということか?」
「………」
思わずおし黙ると大包平が大きなため息を吐く。訳のわからない体調不良で審神者の仕事を全うできない私に、泣く資格は無い。けれど事実を目の前にすると、視界が潤んだ。
「仕方がないな」
「ご、ごめんなさい……」
「何から始める。俺が手伝ってやろう」
「えっと……、やっぱり出陣? それとも演練……」
「何を言っている。なぜ、病に臥せる身で働こうとしているんだ」
今度は私が、大包平が何を言っているのか理解が及ばない。彼は至極真面目に言う。
「病を退けるための行いをお前はしたのかと聞いたのだ。そもそも何か食べたか?」
「……食べてはない、けど……」
「はぁ。全く。何が食べれるんだ」
「わかん、ない……」
「待ってろ」
そう言うと、大包平は一度退室する。すたすたと歩いていってしまう大包平と、とても上機嫌な鶯丸を呆然と見送っていると、すぐに戻ってきて、大包平が述べたのは、冷蔵庫にあるらしい食べ物の名だった。
「豆腐、柑橘、茄子の漬物、魚の南蛮漬け、小松菜のおひたし、焼きたらこ、煮卵、枝豆。お前は何が食べられるんだ」
「え……」
「そうめんを茹でてやっても良いが、もう少し精のつくものがいいな。魚か。魚でいいだろう?」
こくんと頷くと、また大包平は行ってしまった。すぐさま、魚の南蛮漬けを盛った皿を一膳の箸を持ってくると、私の口まで運ぼうとした。抵抗もできずにもそもそと甘酸っぱい魚を口に含むと、どんどん大包平は魚をほぐして私の口元へ運ぶ。
雛鳥になった気分でいると、手のひらで体温を計られ、白湯まで用意される。白湯をちまちまと飲んでいる間に、痛いところはないか、体のどこかが重く感じたりしないかと、意外に丁寧な問診を受け、終いには入浴まで手伝うと言い出した。それはさすがに止めた。けれど彼は私が脱衣所に入ると、ずっと戸の外で待機して、それから湯船で溺れていないかまで時節、声をかけて確認してくれたのだった。
夜がふける頃には、私は心に重いものを抱えながらも体はすっきりとしていた。お風呂で血の巡りがよくなって、軽いめまいがするくらいだ。
ふらふらと布団に入るとまた、彼の大きな手のひらで熱を計られる。目を閉じて、彼の手の熱を感じる。
大包平はいまだに知らないようだ。私の病が、体に憑いたものではなく、精神に憑いたものだと。心の弱い主人で情けないばかりだ。
「何か、俺に望むことはあるか」
「……ううん、大丈夫」
顔をぐいと掴まれ、大包平と目を合わせさせられる。
「お前、あるという顔をしているな」
「………」
「なんだ。言え」
彼を、ばかみたいにまっすぐだなぁと思う。と同時に、私をがっしりと掴む手から伝わる体温に優しさを錯覚する。
それが、いいな、と漠然と思えて、だけど上手に言葉にできない。
「全く、仕方がないな。まあお俺がお前を見ていよう」
「それ、寝にくい気がする……」
「眠らなくても良いだろう」
「じゃあ私、何をしてればいいの?」
言って欲しい。私が何をするべきか。そうしたら、私は優しい大包平のために頑張れた、と思う。いつだって頑張りたいと思っているのに。
「……ふん」
言ってくれたらよかったのに。大包平は言葉を伏せて、私の不安を聞く気もないのか目も閉じてしまった。
大包平はそれから一晩中、私の部屋に座っていた。横になっても夕方まで寝ていたせいでしばらくは眠れなかったので、その後結局二人で縁側に出て星空を眺めた。
暑さがやってきてから、私は自分を失ったみたいにおかしくなっていった。みんなのために、本丸のため、歴史を守るためにという気持ちはあるのに、それを行動で証明できなくて、むしろ気遣われて迷惑をかけて、私は主じゃなく単なるお荷物で。夜になるたびに死にたくなっていた。
夏の夜空を見上げたこともあったはずだけれど、感情に埋め尽くされ、星を見た記憶がなかった。
星空が綺麗。多分、文月に入ってからずっと、こんな風に煌いていた。気づくことができなかったけれど。それだけのことに圧倒されて、失った夏の日々にまた涙が出た。
私に大包平は、寝ろ、とにかく横になっていろと膝枕をしてくれた。そのあとに私は彼の膝を少し涙で濡らした後、気づかないうちに自然と意識を落としていった。
数日後、ひとまず普通に出歩いたり食事ができるようになった私に、不意をついて話しかけてきたのは鶯丸だった。
彼は私に、一言二言、気遣う言葉をかけてきて、最後、したり顔をして言い放った。大包平は効くだろう、と。