本丸の清らかな空気を吸うと、帰ってきた、という心地を肺からを満たした。
 本来、自分が息づいて時を刻んだはずの現代。そこを発って本丸に来たのだから、帰ってきただなんていうのは見当違いの感覚だというのには言わずにいられなかった。


「ただいまー」


 少し声を張るとすぐさま本丸の奥から何振りもの刀剣男士が顔を覗かせる。


「おかえりなさいませ、主君!」
「ただいま、みんな! お留守番ありがとうね」
「帰ったんだね、おかえり。現代はどうだった?」
「結構忙しかったよ。あっちこっち用事できつきつで」
「任務、ご苦労様でした」
「まあ、無事で何よりだ」
「もう今回もお土産たっぷり買っちゃったよー! みんなで食べるの楽しみ!」
「荷物持ちで行った甲斐があったぜ」
「ありがとうね、厚くん。清光もお疲れ様」


 大きな袋をせっせと運び入れてくれたのは、今回の現代行きに付き合ってくれた厚藤四郎と、加州清光だ。荷物を置くと二人はせっせと、よそ行きの服の襟を緩めた。

 ちなみに現代についてきてもらった刀剣男士は現世になじめる外見であるかどうかを重視している。今回についていった厚藤四郎、加州清光に加え、大和守安定などが黒髪で現代によく付添っていく筆頭である。
 とはいえ、刀剣男士を連れ歩いて目立たなかったことは無い。滲み出るものが人々の視線を絡め取ってしまうのか、注目を浴びることは必至だ。今回の二人も、よく見るとまつ毛が長かったり、体の線が異様に綺麗だったりして、何度も芸能人に間違われた。スカウトを受けたり勧誘されたりということも絶えず、二人にはいらぬ苦労をさせてしまった。それでも、奇抜な色をまとった刀剣男士や大男を連れ歩くよりはと、自身と背丈も近く、人々をごまかせそうな男士には今回も依頼をしたのだった。


「主君」
「うん、何?」


 土産の羊羹が入った箱を抱えた前田藤四郎がを呼ぶ。どうしたのだろうと、外套を脱ぎながら耳を傾けると、前田は苦笑いで口をまごつかせている。


「帰ってきてすぐで申し訳ないのですが……」
「そんな、いいのに。二日も本丸を開けちゃったのは私なんだから。言って。どうしたの?」


 溜まってしまった仕事の話だろうか、本丸に不備でも出ただろうか、まさか誰か喧嘩とかしてないよね、とは前田が口にしそうなあらゆることを予想する。けれど前田藤四郎から飛び出て来たのは予想を大きく外した、刀剣男士の名だった。


「巴形さんが」
「え……?」







 巴形薙刀が、おかしくなってしまったので、早急に会ってあげてください。前田藤四郎はそう言った。
 おかしくなってしまった、という言葉の意味するところがつかめず詳しく聞こうとしたが、一期一振までが「前田の言う通りなのです」と肯定する。具体的なことは言葉に表し難い、しかし巴形薙刀がおかしくなってしまったことは確からしい。

 帰ったら普段の和装に着替えて、お茶でも一杯飲ませてもらってから仕事にとりかかろうかと思ったが、そう言われてしまったら彼が心配だ。
 着替えもせずに、皆に教えてもらった通りに部屋を目指すと、巴形薙刀は確かにその部屋に座していた。


「巴形」


 背中を見ただけでは特に変わったところがわからない。だが、名前を呼んでやると巴形が気だるい動作で振り返る。その額を見て、もあっと声を出した。彼の右目のこめかみ近くに大きな湿布が貼ってある。


「ど、どうしたの、顔に傷なんて作って」
「主……」
「ただいま、巴形。今さっき帰ったよ」
「本物か?」
「ええ? 本物だよ。どこかで偽物でも見た?」
「いや……」


 冗談のつもりで言ったのだが、巴形は暗く押し黙ってしまった。確かに、様子が少々おかしい気がする。は巴形の正面へとまわる。俯くかんばせに、無遠慮に貼られた湿布が痛々しい。


「それで。この傷は?」
「ぶつけて、しまったのだ」
「そうだったの。貴方らしくない」


 おでこの湿布を半分だけ剥がして様子を見る。確かに少し赤く腫れている。巴形薙刀も自分の長身に最近は慣れて、頭をぶつけることは少なくなっていたというのに、が不在の間は気が抜けたのか盛大にぶつけたようだ。
 はそっと湿布を戻し、彼の傷の周りを撫でてやった。


「ごめんね、すぐ手入れしてあげるよ」


 巴形を慰めていた手が、巴形によって止められ握られる。気だるげな様子からは存外に、強く。その手をよく見ると傷が見つかる。巴形は指も何箇所か切っていたようだ。


「これも、怪我したの?」
「ああ、気づいたら切れていた」
「……。ねえ、他に怪我したところは?」


 まさかね。そう思いながらが聞くと、巴形は俯いたまま袴の裾を上げた。出て来た膝小僧にも、大判の絆創膏が貼ってあり、血が滲んでいる。


「転んだ」
「………」


 思わずの口からため息が出る。自分が現代に行っている間は、手入れができない。だから一切の出陣を見送って静養しておくように皆に言い伝えたはず。なのに、巴形はこの数日でいくつもの傷を作ったのだろう。
 しかも転んだ、なんて。彼も戦場では驚異の一閃を放つ、薙刀だ。なのにまるで子供のように、転んだ、とは。は思う。巴形がおかしくなってしまった、という表現は実に的確だったようだ。


「まぁ傷は直せるから良いとして……、どうしたの? 何かあったの?」


 巴形はその答えをすぐには言わなかった。何度も口にしかけて、噤む。けれど辛抱強く待つを前に、やがてぽつりと沈んだ声色でこぼした。


「……主が、死んでしまった、かと思った」
「ちょちょっと。勝手に殺さないの!」
「でも死んでしまったと、思った」


 そうこぼした長身の大男が、の目には小さな子供に見えた。


「うーん……なんで? 現代自体はそんなに危険はないから、心配しなくてよかったのに」
「そうではない……」


 まだ巴形が何か話そうとしている。の手を決して離さない巴形に観念し、もその場に座り直して、また巴形の言葉を待った。


「顕現してから、主のいる世界しか見たことがなかった。主のいない日々を、見たことがなかった」
「うん……」
「朝目覚めても主はいなくて、いつまで待っても帰ってこない。そして皆もそれが当然のように振舞っている。主が欠けているのに、日常を過ごしていて、俺は味覚もわからず、目の前は色褪せて見えるのに、主の声の幻を聞く」
「………」
「あれは、主が死んだ後の世界だった」


 そう呟いて睫毛を伏せる巴形薙刀に、は黙ることしかできなかった。厚や清光を連れて現代を歩き、仕事をこなしつつも本丸に持ち帰る土産を見繕ったりして過ごしていた。けれどこの数日が、巴形には地獄のような日々だった。
 寄る辺ない付喪神が唯一慕う人間、何にも代え難いがいなくなった世界。

 の数日の不在はおそらく、巴形にとってはこの世の理を失ってしまったのと同義だったのだ。
 ようやく巴形の怪我の原因も、おかしくなってしまったと言われたていた理由も、すんなりとの腑に落ちていった。


「大丈夫だよ、巴形。私は帰ってきたよ」
「ああ……」
「少しいなくなってただけ。大丈夫。死んでなんかいない」


 もう大丈夫。その言葉が、世界の法則を見失ってしまって迷い子のようになっていた彼に注ぐにしては薄っぺらだとわかっていても、彼のためにそう繰り返すしかなかった。


「安心して、巴形。私は数日、本丸にいなかった。けどそれは永遠じゃなかったよ」
「主……っ」


 僅かに手を広げると、すぐさま巴形が飛び込んで来ての体をすっぽりと覆う。巴形の香り、それから巴形の色彩がの眼前で踊り舞いて、やがて自身も気づかされる。自分も、巴形を失った時間を過ごしていた。
 彼の頭、彼の背を撫ぜながら、は彼に教え込むようにゆっくりと囁いた。


「大丈夫。これからまた私がいなくなることはある。だけど永遠じゃない。ただその時そこに、いないだけなんだから」





 翌朝、布団を干すために回収しに来てくれた歌仙兼定に巴形薙刀の様子を聞くと、調子を取り戻しつつあるとのことだった。
 たった数日の不在で調子を崩し、帰って小一時間慰めてやれば立ち直ることができる。彼の単純さは、本日も見た目をことごとく裏切っている。

 朝の支度を進めるの脳内は、巴形のことでいっぱいだった。
 現代に行かざるを得なくなり本丸を空けたことは今まで何度かある。けれど、確かに、巴形を顕現させてからは初めての現代行きだった。しかしそれは最近顕現を果たした小烏丸や、毛利藤四郎も同じこと。なのにあそこまで取り乱した刀剣男士は巴形薙刀だけだ。いや、これまでもこれからも、巴形以外にいない気がする。

 笑いを懸命に噛み殺すを、歌仙兼定がどこか冷たい目で見やる。


「主は残酷だね」
「んー?」
「彼は人間の死をきちんと知っているわけではない。いつか巴形にちゃんと”死”を教えてあげないと、かわいそうだろう」


 歌仙は昨日の巴形とのやりとりを聞いていたのだろうか、それとも巴形から口を滑らせたのだろうか。に経緯はわからないが、歌仙兼定はが巴形にどう言い聞かせたかを知っているらしい。


「君は自分の存在の儚さ、脆さを巴形に教えるべきだったと僕は思うね」
「どういうこと?」
「僕なんかは相当”斬って”いるからね、君だっていつかあっさりと消えていなくなってしまう。どんなに願おうともそれが現実だとわかっている。けれど、巴形薙刀は違う」
「………」
「これからまたいなくなることがあっても永遠じゃない、なんて信じさせたら。彼はきっと、それこそ忠犬みたいに君を待つことになる。魂朽ちるまで、ずっと」
「わかってないなぁ、歌仙」


 の数日の不在が、巴形薙刀に、の死後の世界を示した。そしてには、を失ったあとの巴形薙刀の姿を見せた。彼が意識の根源からに依存しているのだと、まざまざと見せつけて、そしてそれはの幾多の薄暗い欲をくすぐった。


「それが巴形のーー」


 はにやついた口元を隠すことなく歌仙に向き直る。不意を突かれた彼に向かって、いたずらっぽく告げるつもりだった。
 それが巴形の愛しいところじゃないか、と。


「俺がどうした、主」


 の言葉を遮ったのは巴形だった。障子を空けた隙間から顔を覗かせている。
 幾多の傷は昨晩の手入れで直し済みだ。まじまじと見ると、歌仙兼定の報告の通り、巴形は精神の方をも持ち直しているようだった。口の端が僅かだが、下がってはいない。それはの心を持ち上げた。


「俺を呼んだか?」
「うーん、呼んでないけど、でもいいよ」


 巴形がをきらきらしたもの見るような目で見下ろしている。彼はおそらく、に会いに来たのだ。たまたま通りがかったわけではないのだ。の起床する頃をきちんと図って、主が死んだという錯覚が本当に錯覚であったことを確かめるために。


「おはよう、巴形薙刀」
「おはよう、主」


 朝目覚めればが、最愛の存在に会うことができる。その幸福で長身を貫くためにわざわざ現れた巴形に、も微笑んだ。





(リクエスト内容は「長谷部の絡まない巴形」でした。おそらく純粋な巴形のお話のリクエストかなぁと受け止めたので「巴形薙刀のお話」として更新いたします。リクエストありがとうございました。)