ある日突然、ヒョウタくんが私に紹介してきた女性。名をさんと言う。
最初は非常に戸惑った。さん自身に戸惑ったというより、まだ年若い女性を紹介されたことは私にとって全く予想外な出来事だったのだ。ヒョウタくんはあまりその匂いのする言葉を口にしなかったが、私たちを引き合わせた理由をこういった。
『ゲンさんと”合う”んじゃないかと思って』
私は恋人が欲しいと口にしたことがないし、独り身を寂しいと思ったことがなかった。もう幾年も女性が欲しいという気持ちより、さらに修行を極めたいという気持ちばかりを抱き続けて来た。そんな私に、女性なんて。
信頼のおけるポケモントレーナーでもあるヒョウタくんに呼ばれて、用件も聞かずに二つ返事で会いに行けば、その隣には彼女。唐突に女性の知り合いが増えてしまったことに、まるで突然花束を腕の中に投げられたようにどうしたらいいかわからなくなってしまった。そう、さんは花束に例えても一切劣るところのない、可憐な女性だった。
「ゲンさんっ」
道の向こうからさんが早足で駆けてくる。待ち合わせには20分も早いというのに、焦った様子で。
早く着きすぎてしまったことが、さんに簡単に見つかってしまった。気恥ずかしい思いを抑えながら、軽く脱帽して会釈をする。
「早いですね」
「ゲンさんこそ。いつからいらしてたんですか?」
「ついさっきですよ」
「お待たせするくらいならもう少し早く待ち合わせすればよかったですね……」
「そうしたらさんはまたその時間より早く来るじゃないですか。それは私も同じですよ」
「確かに」
二人ともが待ち合わせに早く着きすぎている。けれどお互いが早いおかげでお互いが待つことも無い。気を利かせたいのに気を利かせたことにならない、偶然にも一致してしまう自分たちがおかしくて、さんも私も口元を緩ませている。
『ゲンさんと”合う”んじゃないかと思って』
ヒョウタくんになぜ彼女を私に紹介したのかと聞けば、少し気まずそうな顔をして帰って来たのはその言葉。その時はヒョウタくんの言葉を私は信じられずにいた。
最初、彼女と私は違う世界の人間に思えた。良い意味で平凡で、良い意味で普通で、かえって得難いものを纏っていた。だからこそヒョウタくんに紹介されなければ言葉交わすことの無かった女性に思えた。
だが。ヒョウタくんの言葉は外れてはいなかった。私はさんと以外に楽しく会話を交わし、案外早々を気を許し、存外頻繁に顔を合わせている。
先週会ったというのに、今週もごく自然と二人で過ごす時間を繰り返している。週に一回という頻度は友人のそれからすでにはみ出ていると分かっている。けれど、会えば簡単に次の予定が決まってしまうのだ。
「何を作ってくれたんですか?」
「ええと。久しぶりなので簡単なものを。チョコレートブラウニーです」
カバンを覗く。ギンガムチェックのペーパーの中には、濃いチョコレートの色をしっかり染み込ませたブラウニーが包まれている。すでに1cm幅にカットされていて、断面にはナッツがたっぷり見えていた。
不躾に彼女の下げたカバンの中身を覗こうとしてしまった。そんな彼女に慎みを自分に驚きながら、全く気にせず自然とカバンの口を広げてくれるさんに安堵を覚える。
先週のことだ。雑談の中でさんが言ったのだ。ケーキやクッキーなんかのお菓子を焼くのが本当は好きなのだが、結局食べてくれるひとがいないからしばらく作っていない、と。
『じゃあ私が食べます』
気づけばそう口走っていた。驚いて目を見開いたさんに『好きなものを作ってください、私は何でも食べますから』なんてダメ押しまでしてしまったし、勢いで”さんの作ったものなら何でも食べます”とまで言いそうになり、ハッと息を飲んだ。何を言っているんだろう、私は。
けれどさんは途端に嬉しそうに血色の良い頬にさらに花を咲かせたので、途端に私もまあいいかという気になってしまって、今日の待ち合わせが決まったのだ。
「とても美味しそうだ」
「ありがとうございます。あと、こんなものも」
さんがそろそろとブラウニーの横に隠されていた包みを取り出す。透明の袋に入っていたのはクッキーだ。だが、ただのクッキーじゃなく、ココア色の生地の上にぷっくりと膨れた色味が乗っている。
青、黒、白、紅。思わずわたしはその描かれたポケモンの名を呼んだ。
「リオルだ……」
「アイシングクッキーっていうんです。久しぶりで手が震えちゃいました」
先週は散々素人だ、趣味レベルのものだと謙遜していたのに、彼女の作ってくれたクッキーは柔らかくも鮮やかな色でもって忠実にリオルを描いている。
「すごいな」
「食べてくれる人がいると思うと嬉しくて、つい」
「石のクッキーなんて作ったんですね。こっちは化石ですか?」
「あ、そのえ、っと、綺麗ですし、ゲンさんも好きかなって……」
「面白いですね」
まあ、綺麗だとは思うし、化石の模様を可愛らしくクッキーで再現したさんの腕にはやはり感嘆してしまう。だが、石というのは彼女のイメージからすると意外に思えた。さらに言うならば、彼女が元から持っている趣味というより誰かに影響を受けたものだろうかと邪推してしまう。
さんが影響を受けた人物。なんとなく、ちらつく存在はある。
知らず知らずのうちに冷めた気持ちを読み取られてしまったらしい。横に立っていたさんが焦った表情をしている。
「あの、もしかしてゲンさんって、石好きではない感じですか……?」
「そうだな、はがねタイプのポケモンは育てたことはあるけれど、石については特に」
「ご、ごめんなさい! てっきり私、ゲンさんは石好きかと思ってしまって」
そんなイメージを抱かれていたとは驚きだ。さんに石や化石の話題を振ったことはあっただろうかと記憶を巡らせる。が、ポケモンについてはしばしば話が盛り上がるけれど、そんなマニアックかつマイナーな話題を、熱を込めて話した記憶は見つけられない。自分で気づいていないだけでそう思わせるようなことをしたのだろうかとさらに考えを巡らせる。
「ゲンさん、違うんです! 本当に私の勝手な勘違いです」
「というと……?」
「私の知っている男の人で、洞窟にこもったりしている人は皆さん、化石や石が好きだったので。鋼鉄島によく行っているゲンさんも勝手に石好きなんだと思ってしまったんです」
「そうかい? ああでも確かにヒョウタくんは当てはまるか。あとトウガンさんも」
「ヒョウタくんもそうですけれど」
ああ”ダイゴくん”か。
その先の名をさんは口にしなかった。けれど私の脳が勝手にその名前を補った。
さんと繰り返し会って、言葉を交わしていると時々、顔をちらつかせる男がいる。”ダイゴくん”は彼女の話の中に出る時もあれば、彼女が受けた影響として現れる時もあった。
遠い親戚だが年が近いこともあって、彼がシンオウに来るときには必ず会うらしい。大変な石道楽で、石を探す時のためにこのシンオウに別荘を買ったりと個性的で面白いと、さんは思い出し笑いしながら教えてくれた。
その彼もよくメタグロスを愛用して、トレーナーとしての腕も立つのだという。
ああ、知りたくもないのに。私がここまで”ダイゴくん”に詳しくなる程、彼女は幾度も、細やかに彼を話に登場させた。
そしてダイゴくんのことを思い出して語るさんは無邪気で可愛い笑顔になるのだった。
「………」
「あ、あのゲンさん……怒ってます……?」
「いや、怒っているわけではないよ」
顔に出てしまっただろうか。情けない。
彼女に対して怒っているわけではない。自分の顔が険しくなった理由はわかっているが、私は否定をして、あとは笑むことしかできなかった。
さんに影響をもたらして、さんにたくさんの楽しい記憶を残して、彼女の内側に存在する男。さんを通してでしか知らない彼の存在に、私はどうも冷静さを欠いてしまう。
さんが楽しそうに彼の名を呼ぶからこそ、さんに彼のことを口にさせたくないと思う。この感情の名は嫉妬というのだ。
ああ、嫉妬か。私は彼女の中に根ざした親戚の男に嫉妬しているのだ。それはつまり、いつの間にか私は見知らぬ男に嫉妬するほどに、さんのことを……。
シンオウらしい浅い色の青空。薄い雲が流れていく様子を見る。
さんと知り合ったことは人生において予想外のことだった。だがこんな風に恋に、出会うなんて。全く予想していなかったことだ。
感情に名前がついた途端に私は考え出していた。どう気持ちを伝えればいいのだろう、私のことを受け入れさせるには。このひとをどうやって絡め取れば、さんが全てを寄せる相手が私になるのだろう。
この感情の名を見つけさせてくれたことについては、彼に感謝しなければならない。感謝はしている。けれどあとはもう、その男の存在を塗りつぶしたいという思いだけが残っている。
「ゲンさん……?」
「大丈夫だよ。少し考え事があってね。……どこかに座ろう。このブラウニーを早く食べたいからね」
策略を巡らせるうちに私は優しい笑みの仮面を自然と纏っていた。さんにもっと心許してもらうことを狙って、私は笑むのだ。
さんの歩く方向を先導しながら、ああ、と思い至る。穏やかさの欠片もないこの感情の名は、やはり恋なのだ。