何の変哲も無い、昼前のこと。僕も何もせず、黒い感情を傍らに感じながらも寒空を見上げていた。歌仙が僕を探し出して、こう伝えてきた。
「お小夜、主が君を呼んでいるよ」
聞いてすぐに、僕は何の仕事を頼まれるか感づいた。それは歌仙もどことなく気づいているようだった。僕が何を頼まれるか知らないまでも、歌仙が機嫌よく笑んでいる。
「最近、よく主に呼ばれているようだね」
「まあ……」
「お小夜が主に頼られているのは、僕にとっても嬉しいことだ」
別に、頼られているというほどのことじゃない。
最近執務室に呼び出されることが増えて、行くとだいたい頼まれるのは、さんのことだ。
そして案の定今日も同じ。僕が行けばすぐにさんの名前で登場した。
「小夜左文字、昼過ぎに君の用事が無ければ良いんだが……、さんが買い出しに行くそうでね」
「そう……」
「ついて行ってやりなさい」
僕はこくりと頷く。
さんというのはひとつきほど前から使用人として雇用された人間だ。髪の毛はよくある色。背の高さは女の人として普通。仕事も特別にできるところを見たことが無いけれど、全くできないところも見たことがない。
本丸の主である彼は忙しくする傍ら、結構さんを気にかけているらしい。さんが気にかかる気持ちは僕にも分かる。なぜならひとつき経ってもふたつき経っても、さんは僕たちとまともに会話できていないからだ。
まともに刀剣男士とやりとりできないところを見ると、心配にもなるだろう。でも気に入ってはいるようだった。
「小夜、頼んだよ」
眉を下げて笑う彼の顔は、困っているというより「行けるのなら、私がついていったのだけど」と言いたいように見えた。
「やあ」
「あっわっささささ小夜さ、さ、さささ文字さん……!」
これが、さん。細い腕で雑巾を絞っているところを、後ろから一声かけただけでこうなる。これでも少し喋れるようになった方だ。前は一言も出ないこともざらだったから。
外出するさんについて行った回数はもう片手を越えていて、さんはほんの少しだけ、僕に慣れて来た、ような気がする。
実を言うと僕も、こんなさんに少し慣れて来ていた。
「も、もしかして」
今日も私と? そう言いたげにさんは自分を指差して、僕の様子を伺って来る。
「………」
「あ、……」
そんなわけないですよね、と蚊の羽音のような声がした。
これでも慣れてくれた方だ。僕が声をかけると付き添ってくれるのかもしれないと、自分から思い至れるようになったんだから。
「それで……、いつ発つのかな……」
「……!!」
こればかりは確認した方がいいかと遠回しに訂正した瞬間だった。さんが目を瞬かせる。嬉しさと苦しさを混ぜた目で、そのまま言葉を無くしてしまった。動転してしまって、どうやっても上手に喋れないさんはその次に慌ただしく使っていた掃除用具を片付けた始めた。
桶の水を流して逆さにすると、素早く雑巾をはたいてから干して、前掛けを外すといつも使っている小さな手提げをひっつかんで。飛ぶように戻ってくる。
「おまっおまたせ、し、しまし……た……」
息のきれた声でそう言ったさんに、僕は頷いた。先に数歩、歩みだせばさんもついてくる。
僕たちは静かに、門に向かって歩き出した。
こういったさんの付き添いを何度も命じられるのは、さんをどうすればいいかを僕が知っていると見抜かれてのことだろう。
初対面。いっぱいいっぱいになりすぎて何を言っているか分からないさんに困惑しながら、僕はすぐに気づいたのだ。
さんは話しかけられると、苦手なのに一生懸命返事をしようとして慌ててしまう。慌ててしまうから声が言葉にならず、さらに混乱し出している。それなら、と僕はさんとは最低限の言葉しか交わさないようにした。
話しかけなければ、さんも話さなくて良い。話しかければお互いに落ち着いて行動することができた。
そして、無駄に話しかけないのと同じように大事なのは、必要以上の関心を向けないことだ。この二つに気をつければ、さんは途端に穏やかになって、池に住まう小さな魚のように涼やかな和らいだ表情を見せてくれる。
それに気づいてしまったせいで、今日も僕はこのひとの隣だ。
買い物はつつがなく終わった。行きつけのお店に注文用紙を届け、頼まれたものを買い付け、日が傾く前に帰って来た。
敷居をまたいで、無事に本丸の領域に戻る。これで言いつけられた仕事は終わった。
ほとんどが無言のお出かけだった。僕は危険がないようにだけを気をつけて、あとはさんを放っておいたので、これで仕事をした気にはなれていない。
それでもさんは目的のものを手に入れて、満足した顔をしている。この様子だときっと僕はまた、さんの買い出しに付き合うように言われてしまうのだろう。
落ち着いた、けれど充足した表情をしたさんを置いて、そっと消えようとした時だった。
玄関先に突然の声が響く。
「おい君、探したぞ!」
立っていたのは膝丸さんだった。
灯りのつき始めた本丸を背にした彼の顔は、こちら側から見ると、ほの暗く夕闇に染められている。けれど、喋るたびに露わになる膝丸さんの犬歯がぎらつく。その鋭い輝きにさんの目線は釘付けになっていた。
「どこに行っていた?」
「っっ……!」
おそらく、膝丸さんは普通にさんに話しかけているつもりだろうけれど、彼特有の低くゆっくりとした口調はさんをうろたえさせるのに十分だった。
そしてなぜか膝丸さんは、僕はされたことのない近さまで詰め寄る。膝丸さんとの身長差で、さんの首の前は伸びきってほとんど真上を覗くようだ。
「どうして誰にも告げずに外出したんだ? 主も君の行き先を知らなかったぞ」
「わ、そん、ぁ……、えっ……!?」
「それに、上着を置いて行っただろう」
「わわた、それ……! は、わた、え……!!」
さんが指差す先には確かに、膝丸さんの腕に引っかかった女物の上着がある。
「か、か、……」
返してくださいの一言もいえないほどさんは顔を真っ赤にして、もはや地面しか見られない目がじんわりと潤んで来ている。
やたら近いところから見下ろす膝丸さん、外出先を言い伝え忘れてしまったこと、上着が膝丸さんの手の中にあることに対する恥じらい。多分、そういうのがさんの頭の中で嵐になっているんだろう。
そして近いことへの指摘か、不備の謝罪か、自分の上着を持たせているお礼に、返却へのお願いと。どれから、何から伝えたらいいか分からなくなって、さんをさらに追い詰めている。
さんと何かを一緒にしたいなら、大事なのはさんに話しかけないことだ。彼女自身にもあまり意識を向けないようにして、仕事に集中してもらうのが良い。
つまり、話しかけて、必要以上の関心を向けるのは、さんにとって一番の毒。
膝丸さんはさんにはやらない方がいいことの全てを、やりぬいていた。
放っておく方がさんにとってはよっぽど親切だよ。
経験上正しいそれを、僕は、膝丸さんに言えないでいる。
「おい、君……」
固まってしまったさんの肩に触れた膝丸さんが眉をしかめる。
「やはり、体が冷えているぞ。まったく……」
大判の襟巻きはしっかり巻いていたが、夕暮れの寒さには足らなかったようだ。眉間の皺を深くしながら、膝丸さんは持っていた上着をさんの肩にかけた。ちょうどよく、上着が持ち主に返された。
「とにかく戻ろう。話はそれから聞く」
「!?」
さんの声にならない悲鳴が僕には聞こえた。屋内へと促したい膝丸さんが、彼女の手首を掴んで引いたからだ。
そんなことをしたら人見知りのさんはまた何か喋るどころじゃなくなるよと思ったけれど、やっぱり僕はそれを膝丸さんに言えやしない。
さんはもはや呪文にしか聞こえない声を発して、膝丸さんに抵抗している。入りたいとか入りたくないとかじゃなくて、さんは本能的に自分では受け止めきれないことから逃れようとしているように見えた。
けれど膝丸さんがさらに強く引っ張ると、人間の女が刀剣男士に敵うはずがなく、さんは玄関へと引きずられて行った。
一人残された僕はぽつりと呟く。
「止めてあげれば、よかったかな……」
今にも倒れそうに混乱していたさんは、少しかわいそうだった。
だけど、膝丸さんを、あのひとの表情を思い返すと、言えないなと思ってしまう。
さんへの関わり方なら僕の方が心得ている。一方の膝丸さんはというと、てんで駄目だ。けれど、あのひとがさんに話しかけたり、必要以上に興味を注ぐ理由は、彼を見れば分かる。さんは目を背けてしまうけれど、膝丸さんの表情はあのひとの口よりさらに雄弁だ。
膝丸さんは、さんを混乱の渦に突き落としている。
だけどその膝丸さんを、多分もっとややこしい混乱に導いているのは、さんの方だ。
僕は口をつぐんだまま、帰った。彼女が来たおかげで予想外に賑やかに色づいた、僕らの本丸へ。
(今回で一応、このシリーズの審神者さんは男審神者にしました!その方が私が楽しいので。リクエストありがとうございました!)