最初に彼女という存在を意識したきっかけは、多分コーヒーの味だった。
僕がふと、リーグを訪れる時。チャンピオンのみが使える私室に入ると、手前の部屋にて控えていたちゃんという事務員の女の子はさっと立ち上がって「おかえりなさい、チャンピオン。何か飲みますか」と声をかけてくれる。必ずそこにいるちゃんに、僕はなんの気もなしにその時の気分でコーヒーやお茶なんかを頼む。すると数分でちゃんが僕が望んだとおりのものを机まで届けてくれる。何を注文しても出て来るのは、食器も小さなお菓子も揃ったかなり、ちゃんとしたやつ。
その日も僕は何も考えずに、単に気分だったので「コーヒーがいいな」と言うと、いつも通り数分で机に”ちゃんとした”コーヒーが届いた。口をつけて、僕は誰もいない部屋で気づけば
「美味しい」
と、声に出して言っていた。言いながら僕は驚いていた。ただその日いれてもらったコーヒーの味が良かったという、そんな単純な理由ではない。
僕はいつもリーグにいるわけではない。いないことの方が多いし、リーグに戻るのも不定期だ。自由で気ままで、身勝手なのが僕だ。それでも僕が私室に来るとちゃんはさっと立ち上がって、安定した同じ味を、いつでもちゃんと届けてくれた。
僕がこの部屋で積み重ねて飲んできた親しんだ味。それがその日、妙に身に染みて、胃の奥から広がる熱と心が崩折れそうになる安堵が、僕に「美味しい」という言葉を口にさせていた。
立ち上がって、私室のドアを半分開けると、やはりちゃんが控えている。白いシャツに浮き出る小柄な肩にかかる柔らかそうな髪。ちょこんと乗る鼻の頭に、これまた小さな光が乗っている。
その時に、僕はようやくちゃんと、ちゃんという人間を認識したのだ。
彼女が小首をかしげる。
「どうしましたか?」
「……ううん。なんでもないよ。なんでもないけど、チャンピオンと呼ぶのはやめてくれるかな。僕のことはダイゴと呼んで」
はい、ダイゴさん。そう返事をされると、いいな、と思った。
僕は彼女を、リーグの事務員じゃなく不思議に美味しいコーヒーをいれてくれるちゃんだと思うようになった。名前を呼ばれると同じように彼女も、僕を単なるチャンピオンをしている男ではなく、ダイゴとして見てくれているような、人間同士として関わっているような気になれた。別に大したことじゃないけれど、ほのかに心を交しあった、良い日だったと記憶している。
洞窟以外の場所に行きたい、そこに帰りたいと思うのは僕にとっては珍しいことだった。けれどコーヒーの美味しさが身に染みて以来、僕はあのチャンピオン用の私室に安らぎを感じるようになっていた。
あの部屋で過ごす時間は唯一無二。ずるいくらいちゃんの入れてくれる飲み物が美味しいのだ。
だから僕がリーグに行くとしても、必ずちゃんの勤務時間内だ。
「あれ?」
今日はちゃんがいるはずだ。なのに僕が私室の前に行っても、いつものデスクにちゃんがいない。
「今日は休みだったかな」
デスクの上を見ると、簡単に揃えられた筆記具が置いてある。先ほど使ったばかりに見えるから、彼女は席を外しているようだ。
ちゃんがいないのに私室に入る気にもなれなくて、僕は来た道を引き返した。
廊下の窓から外も見ながら、ちゃんを探す。困る。ちゃんといつもの場所にいてもらわないと、ちゃんと僕を待ってくれないと。そこにいると思ったちゃんがいないことに、僕はらしくなく焦っている。そこまで焦ってしまうことに違和感を覚えることもなく、リーグの施設内をちゃんを探して回った。
ようやく見つけたちゃんは、中庭で草木に水をあげていた。二階の廊下から見つけた彼女は、いつもよりさらに小さく見える。華奢な体でホースをあちらこちらに向け、ついでに水をかけてもらったキャモメたちが羽を震わせて喜んでいる。
僕は下に降りる時間も惜しんで窓を開けた。
「ちゃん」
「ダイゴさん」
「こんなところにいたのかい。探したよ」
いつもの場所に戻っておいで。そう言おうとしたのに、ちゃんはふと僕が顔を出す窓と反対方向に意識を向ける。誰かがちゃんに話しかけているようだった。
「ちゃん!」
呼んでも、彼女は僕よりもっと近くにいる誰かばかりを見て、喋り込んでいる。こんなにも呼んでいるのに悪気なく、横にいる誰かの方を優先している。僕はむっと顔をしかめて、気づけばモンスターボールを彼女に投げていた。
いやおかしいだろ。人間に対してモンスターボールを投げるなんて。そうは思うのだけど、僕のボールは彼女の頭にこつんと命中して、驚いた表情のちゃんを中に納めてしまった。
ボールは揺れずに、僕の手中に戻る。野生ポケモンを捕まえる時のような抵抗はなかったのは、誰の目にも明白だった。
「ほら、僕のものじゃないか」
僕は気分良く笑って歩き出す。向かった先はチャンピオンの私室じゃなく、僕の家だった。トクサネの家の戸を後ろ手で閉めて、僕はボールに入れて連れ歩いていたちゃんをひんやりとしたフローリングの上に出してあげる。さっきリーグの中庭にいたそのままの、仕事着姿のちゃんが呆けた顔でフローリングにぺったりと足をつけて座り込んで、僕を見上げる。戸惑いも無い、抵抗もしない。従順なちゃんの上目遣いに、僕の喉がごくりと鳴った。
「ーーーっ!!」
高鳴り過ぎた心臓の痛みで目が覚めた。
全力疾走した後のように脈がどくどくと鳴り、息は乱れ、汗はじっとりとべたついている。
夢の光景がまざまざと残像を残す視界であたりを見渡す。なんの変哲も無い自宅。僕はいつも眠るベッドの上。冷たいフローリングの上に、ちゃんはいない。
なんて夢だったのだろう。
おかしなことばかりだった。ちゃんをモンスターボールで捕まえるなんて。いや夢の中ではもう僕は、当然のように彼女を手持ちとして扱っていた。
ちゃんはそんな関係じゃない。僕としては最近ちょっと心の距離が近づいた、ポケモンリーグの職員だ。決して、家に連れ帰って、服を脱がしあって、なんてするような相手じゃない。ちゃんだってそんないやらしい子じゃない。だけど、夢の中では。
「最低だ……」
あの光景を思い出すだけで、身体中が熱を生み出す。誰もいない部屋で僕は顔を赤くしている。夢の中で僕はちゃんを脱がして、好きにしていた。ちゃんも僕に従順に支配されていた。ひどい妄想だ。だけどあの夢をかけらも忘れたいと、見てはいけないとは思えなくて、そこが僕の最低なところだ。僕の本心はもっと見たかった、あの夢の続きをまだ見たいと思っている。
僕は一際大きな息を吐き出した。
そうか、僕はちゃんのことが。
何かに対し、降参したのはいつぶりだろう。だけど認めざるを得なかった。僕はあの夢を見て以来、自分の気持ちに気づいてしまった。コーヒーの味を好んだのが先なのか、もともと彼女が僕の中に住み着いていたからコーヒーの味がしみたのか、今はもうわからないし、確かめられる気がしない。だってちゃんを見ると否応なしに僕は、あの夢を思い出してしまうのだ。背徳的で、いやらしくて、でも確かに生々しく僕の欲望を映し出していた夢を。
僕は彼女の顔をとてもじゃないがまともに見られなくなり、ちゃんには「ダイゴさんが最近冷たい」「避けられている気がする」「嫌われてしまったようだ」と誤解させてしまったりする、前途多難な僕の恋は始まったばかりだ。