※「イニシエーションの中で会ったね」というお話の二人。続編というよりは後日談。
どうしてこんなことになった。硬いシートの感覚。座席につっかえる足。窓ガラスの向こう、後ろ後ろへ流れて行く街灯。車内は暗く、タイヤが道を擦る音は一定で、眠りを誘うはずの環境だ。けれどたったひとつの事象が、私の意識を叩き起こす。
私はなぜ、車内でズミに膝枕をされている?
ハンドルを握っているのはズミではない。というのなら恐らくここはタクシーの中なのだろう。シートから消臭剤を吹きかけたあとの、独特の匂いもする。
そっと目線を上げると、ズミは深い呼吸を繰り返しながら窓の外を見ている。私は覚醒していることを悟られないようにしながら、ゆっくりと辿り寄せる。どうしてこんなことになったのか、その経緯を。
私が出向いたのは兄弟子だった人物の結婚式、その二次会だった。仕事の都合で結婚式に参列することは叶わなかったため、二次会から参加をすると、そこには修行時代、同じシェフにしばき上げられていた懐かしい顔が多く集まっていた。
男と女が集まって食事をしたとしても、そのテーブルに集った男女が料理人なら、どうやっても紳士淑女の集いにはならないようだ。酔っ払い切った豪快な笑い声、飛び交う品のない言葉。悲しきかな馴染みきっている私もやはり、女より前に料理人なのだろう。
「、飲んでるか!?」
「少なくとも貴方よりはね」
「わははははは!!」
ばしばしと背中を叩かれ、私は顔をしかめる。ああ本当なら愛しいヒノヤコマの暖かい羽に埋もれて即座に癒されたいところだ。けれどこんな騒がしく、品の欠いた場所にあの子を出すのもかわいそうに思えて私はモンスターボールを撫でるだけにとどめる。
品がないテーブルだと、思っている。でも私は相席者たちを同情混じりに見ている。参加者のほとんどが悪酔いと言っても良いくらいひどく酔っ払っているのは、普段厨房で戦い染み込んだ疲れのせいなのだろう。
明日のことを思えば私もあまり飲まない方が良い。けれどこの場にいると懐かしさに襲われ、言葉の浮かばなさを誤魔化すように、気づけばワインを口に含んでいた。
そのあと、何杯飲んだかは覚えていない。ただ、6種、別々のワインの味を舌が覚えていた。
酔っ払いに酔っていると指摘され、「だいじょうぶでしょ! 私にはひのやこまちゃんがついてる!」なんて豪語したことはぼんやりと覚えている。
二次会が始まってどの辺りか、誰が言ったかも覚えていない。けれど確かに誰かが言い出したのだ。
「良いことを考えた。ズミを呼ぼう」
騒がしさの中、その悪い思いつきはするりと耳に入って来た。おいおいまじかよというヤジ。一目見て嫌悪の表情を向けられそうなこの場に、彼を呼ぶなんて。私も「本気なの?」とせせら笑ってしまった。
「ああ、本気さ」
「呼んでどうすんのよ」
「お前との戦いっぷりを見て楽しむんだよ」
そういえば、ズミはこの結婚式、はたまた二次会には招待されなかったのだろうか。それとも招待された上で多忙を理由に欠席したのだろうか。どちらも有り得るのがズミという男だ。
「そりゃいいな。が来てるって知らせてやれ」
「ひどい。悪趣味っていうのよ、それ」
私の名も使って彼を呼び出すと聞いた時、決して口に出すことはしないが、ズミは来ると思っていた。
あの男は、私を好きなのだと言っていたから。だから、私の名を出して呼べば、ズミはここまで来ると思った。私を自信過剰だと思わないでほしい。そうすんなりと自惚れさせてしまうほど、あの日のズミは迫力に満ちていたのだから。
あの日。ズミは、告白をしたものの交際しようとは言わなかった。気持ちを受け入れろとも言わなかった。ズミが求めたのは、ただ事実を無かったことにしないこと。
酒に酔った私がどうやらズミを惑わしたこと、いがみ合っていたはずの二人が恋人のように食事をして酔って、夜中のブティックになだれこんだこと。私はズミの見立てたワンピースに着替えて、そのあとズミの家に行ったこと。それらを無かったことにしないでくれと彼に似合わない表情で懇願されてしまったから。私はその感情の存在を認めている。
気持ちを受け入れたわけじゃない。恋人にもなっていない。ただ、あの天才でありながら狂人でもある彼の弱った姿に思わず同情してしまい、彼の言う通りにしているに過ぎない。
そう、私はあの日のズミに同情した。
ズミは、私にも何がなんだか分かっていないけれど、嘘偽りなく真っ直ぐとした気持ちを持っているのだ。あの天才でありながら狂人でもある彼にも、ピュアな部分はあるのだ。だけど恋する相手が仇敵しかいなかった、そんなズミの孤独に、同情したのだ。
「……やめておけば。ここにいるのは私とズミのやり合いに慣れてる人たちばかりじゃないんだし、周りにも悪いって」
「そうかぁ?」
やんわりと止めにかかるも相手も酔っ払い。空気を読み取れる判断能力は残っていないらしい。
「そうよ。私たちの常識を一般人に当てはめない方がいいんだって。それに……」
周りの旧友たちは知らない。私とズミの間に”そんなこと”があったなんて。ただの厨房を罵声で賑わした、名物コンビだと思っている。
料理人としての才能の有無を追い求め、相対評価に傷つき、自己否定を繰り返していた私たち。体も精神もすり減らす中で、一匙のスープに救われて、一皿の出来に絶望していた私たち。お互いを憎み合っていた私たちは、決して宴会の見世物ではないのに。
「そんなの、ズミがかわいそう」
そう訴えた。けれど酔っ払いの制止はなんと無力なことか。周りは、止めてくれなかった。
やっぱり、ズミは来たんだなぁ。彼の硬い膝、肌触りの良いスラックス。彼が会場に現れた瞬間は全くといって良いほど覚えていないけれど、コールに応えてあの場にズミが現れた。時系列的にはそうなるのだろう。
ズミが来てどれくらい滞在したかは分からないけれど、帰る時に私を連れ出したらしい。まあ酔い過ぎて、一人で帰れないと思われたのだろう。酔って酔って、ダメになった時の私をズミは知っているのだから。
酔いは、引いて来ている。酩酊感は少し残っているが、随分楽になった。はぁ、と息をつくと冷たい声が降って来た。
「やっぱり起きているじゃないですか」
「………」
ばれたか。起き上がろうとすると、そっとズミの手が肩を抑えた。
「いいの?」
「座った方が楽というなら、止めませんが」
寝ても座っても、そう気分は変わらないと思うが、男の膝も存外心地が良い。固めの枕は私の好みだった。まだこの膝に頭を乗せたままでいいのなら甘えようと、私は体から力を抜く。
「ズミが来た時の記憶が、全然ないんだけど……」
「ええ、そうでしょうね。水を買ってから行ったら案の定という状況でしたから」
そう言うとズミは、ほとんど空になったペットボトルを私に握らせた。多分私に飲ませてくれたのだろう。だから少しマシな気分で目を覚ますことができた。水を飲んだことも全く覚えていないけれど。
「ちょっとは楽しんだの?」
「いいえ。30秒もいませんでした。時間の無駄ですから」
「……今度から呼ばれなくなるよ」
「構いません。元々、招待はされていませんでしたから」
そうだったのか。予想外というよりは、納得のいく答え合せでもあった。料理人同士でもよくあることだが、男同士の嫉妬も恐ろしい。そう聞いたことがあり、目にしたこともある。
ズミというのはその辺の立ち回りが下手なのだ。いや下手というよりも、立ち回ったりなどしない。立っているだけの男なのだ。その立ち姿は言外に些末なことに構っている暇などないと主張しているように見え、実際小細工無し、才能という名のはかいこうせんで周りをなぎ倒す。そうい姿がまた、周りの嫉妬を加速させていた。
もちろん私もズミに嫉妬を繰り返した凡人のひとりだ。だが、彼に陰湿ないじめはしたことがないことは誓おう。悔し紛れに言葉の暴力は散々振りかざしたが、足を引っ張るような真似はしていない、はずだ。
ズミにはかいこうせんを撃たせないで勝つのではなく、撃たせた上で勝たねば、本当の勝利とは言えない。凡人のくせに青かった私はそんな殊勝なことを考えていたのだ。
「私が可哀想、ですか」
「………」
「うわごとのように繰り返していましたよ」
「そ、そうだっけ?」
ズミが可哀想だと思ったことは覚えている。
別に、彼の孤独については、本物の才能に対する代償だと思っている。そうして買ってしまった妬み恨みだって、理由があって彼の人生にまとわりついているものだ。
だけど、私に「無かったことにはしないで」と懇願したズミの純心な部分だけは、とても傷つきやすいものに思われた。だからあの時、守りたいと思ってしまったのだ。
しかしズミが来た後も気づかずに、そんなに何度も繰り返してしまったとは……。正直、恥ずかしい。
「……なによ」
ズミが私の頬をつまんで上に引き上げる。何気に痛い。
「いえ」
「ズミ、なんで怒っているの」
「……怒りとは違います」
「どちらにせよ不機嫌じゃない」
「ええ、そうですね」
この狭い車内で怒気を振りまかないでほしい。私はともかくドライバーが可哀想だ。
「この世は、物事の機微が分からない恥知らずばかりです」
「は、はぁ」
「貴女もですよ」
「え」
「酔っている貴女を見ると吐き気がする」
まさかズミの怒りが私に向くとは思わなかった。しかも吐き気がするとまで言われるとは。引きつりながら膝の上からズミの表情を伺う。
「す、すみません?」
「我を忘れる快楽を知る貴女を、心底軽蔑してしまいます」
「は?」
我を忘れる快楽? それはつまり? 楽しく酔っ払っていた私に対して苛ついているということだろうか。
「それは……、私が謝ることじゃないと思うんだけど」
「そうですね」
あっさりと肯定されて、脱力する。ズミは何を言いだしているんだ。
「ズミも、我を忘れたかったらそうすれば良いのよ。方法はいくらでもあるでしょ」
「いえ私が我を忘れたいのではなくて、貴女が貴女自身を軽率に扱っていることが腹立たしいんです」
「………」
「貴女は本当に自分勝手だ。忌々しいくらい好き放題だ」
絶句する他、あるだろうか。独身の女が自由に生きていることを咎められるなんて。そしてこの男の傲慢な言い草に、返す言葉などあるだろうか。私が呆れ返っているのにも関わらず、ズミはごく自然に、けれどいつもの彼に身に走る真剣さのまま続ける。
「だから、言うならばこれは嫉妬です。貴女を自由にできるのは貴女だけ。そういう事実が非常に妬ましいんですよ」
さっき頬をつまみ上げていた手が、するりと降りて来て、何を触ったかというとそれは、私の喉だった。喉、首筋、その奥に通る呼吸。そういうものを彼の指が感触を確かめている。
全身を襲った血の気の引く感触。酔いなんて吹き飛ぶほどに、自分が彼の膝に頭や喉を預けたままだったことを後悔した。
今更ながらこの男はやばい。いや分かっていた。恋人でもなんでもない異性が、自由に生きていることにいちゃもんをつけるような男だ。価値観や、ひいては倫理観、見えている世界がまるで違うと修行時代から分かっていたけど、この身に直結してくると恐怖しか感じない。
どうしよう。ズミをどうやりすごそう。一気に頭の中がその考えて埋め尽くされる。
適当に、適切に言葉を紡いで、彼の神経をこれ以上逆立てないで帰らねばならない。そうじゃないと、ズミにまたなにか”される”気がした。一線を越えるズミなど、容易に想像できる。恐怖に震え混乱を極めていた私は、ズミが目を細めてこちらを見下ろしていたことなんて気付かなかった。
タクシーは、きちんと私の家の前に停まった。歩けるかと聞かれ、歩けると答えると、ズミは車内からおやすみなさいを言い、一緒に降りることはしなかった。
ペットボトルを握りしめたままドアを閉めると、一気に安堵して、へなへなと座り込んでしまった。よかった、帰れた……。
嫌な夜だった。昔の仲間の嫌な部分を見て、ズミの異常な部分も見聞きしてしまった。一気に疲れがぶり返す。へろへろになりながら化粧を落とし、雑なシャワーを浴び、ベッドに飛び込んだ後、もうひとつ嫌なことに気がついた。
自分は車の行き先の心配を、全くしていなかった。
本当に嫌なことに気がついてしまった。もう一週間は目覚めたくない、どうか明け方目が覚めても誰かもう一度、殴ってでも気を失わせて。そう願って枕を抱きしめて、私はようやく最低な夜の幕を下ろしたのだった。