朝方のそれは歌仙兼定さんの声でした。

「主、頼まれていた資料を見つけておいたよ」
「ありがとうございます、嬉しいです。そこに置いておいてください」
「………」

 ぱさり、紙の束が廊下に置かれました。
 昼前、次に訪れたのは平野藤四郎さんの声でした。

「主君、お茶をお持ちしました」
「ありがとうございます、嬉しいです。そこに置いておいてください」
「………」

 かたり、お盆が廊下に置かれました。
 その次は昼下がりで、響いたのは大和守安定さんの声でした。

「ねえ、庭の木が花をつけてたから、ちょっと切ってきたんだ。その、すごくいい香りがして……」
「ありがとうございます、嬉しいです。そこに置いておいてください」
「………」

 微かな音がして、すぐに襖の奥からみずみずしい香りが立ちました。
 今度の声はすぐ近くから聞こえます。

「なあ、君。いつまでそうやって落ち込んでいるつもりだ?」

 ぽつんと、一番最初の雨粒が頭に当たったように、私は一瞬意識を止めてしまいました。太刀といえど刀剣男士は侮れない。誰もいれないつもりだった部屋に、いつの間にか入られていました。

「お、落ち込んでなんか、いません!」
「貞坊は別にきみを嫌って断ったわけじゃないと思うが」
「だから落ち込んでなんかいませんってば」

 そう突っぱねながらも私は内心、とても動揺していました。鶴丸さん、どうして昨日のことを知っているのだろう。あのやりとりは、私と太鼓鐘貞宗さん、二人だけで行われたものだと思っていたのに。

 昨日の昼下がりでした。私はいつもよりちょっと勇気を出して、太鼓鐘貞宗さんにお願いしたのです。自分の現代への外出に、ついてきてお供になってくれるようにと。
 思えば太鼓鐘貞宗さんが顕現されてからすでに季節が変わっているというのに、私は太鼓鐘貞宗さんのことを知らなすぎると気づいたのです。だから、自分から一歩踏み込んで、この眩しい少年の姿をした神様と一寸でもお近づきになれたらと思っての行動でした。

 現代への遠征はそこまでの危険を伴いません。危険が全くないと言い切れませんが、歴史修正主義者が現在に対する直接攻撃を行った事例は今までありません。
 危険な任務じゃない。現代への遠征は私にとって楽しい用事も含まれている。だから、断られるなんてかけらも思ってもいませんでした。

『行かない』

 ごく短なそれが断りの言葉でした。
 強い意志を宿した金の目が私を見上げて、私の全身を駆け巡ったのは恥でした。恥ずかしかった。たくさんの刀剣男士に優しくされ、この付喪神もきっと私に優しくしてくれると思い上がっていた自分がどこかにいたと、思い知らされた気がしました。だから、私は大いに反省して、今日を過ごしているのです。

「私はただ、身のほどを弁えようと思っているだけです」
「そうかい?」

 にやり顔で鶴丸さんは問いかけてくるのを私は突っぱねます。

「そうと言ったらそうなんです。落ち込んでるわけじゃないんです。己の体たらくを正しているところなんですよ」
「ほお」
「……でも、私も、自分で驚いています」

 こんなに、衝撃を受けてしまうなんて思わなかった。
 まだ心がざわついている。情けない話、ちょっとした拍子に泣いてしまうかもしれないくらいだ。

 たった一言の拒絶が私をこんなに揺るがすのは、自分のうぬぼれを思い知ったせいもあるのだろう。だけどきっと、一番の理由は、太鼓鐘貞宗さんだったから。彼だったからこそ、一瞬、太陽が落ちてしまったような絶望感を味わったのだ。

 私は拒絶されたことによって、自分の気持ちに気づいてしまったのです。私にとって、太鼓鐘貞宗さんが、みんなよりちょっと特別だったということを。だから誘うにも、勇気が必要だったのです。彼だから、笑顔で一緒に出かけられたらいいという期待も、いたずらに膨らませてしまったのです。

「断られて、そこで自省に走るのが君らしいというか、いじらしいというか」
「………」

 そんな愛しまれるようなものじゃない。現代人は打たれ弱いだけです。答えに詰まっているうちに、昨日の光景が蘇る。最初は笑顔で話しを聞いてくれていた太鼓鐘さん、だけど最後には行かないと言い切った太鼓鐘さん、表情を見せずに去って言った後ろ姿。消えない衝撃を噛みしめるうちに、手元の仕事は進み、いつの間にか庭には雨が降っていました。

 鶴丸さんはいつの間にか部屋から、飲み終わったお茶などの下げるものと一緒に消えていました。さあさあと降る小雨にかき消されようとしていた気配に気づけたのは、やはり彼が私の特別である証拠でしょう。襖を開ければそこに、あの童子姿の神様が立っていました。

「太鼓鐘さん」
「………」
「よかった、謝りに行こうと思っていたところだったんです。この前は」
「いや」

 太鼓鐘さんが私の言うことを遮って切り出しました。

「謝るのは俺の方だぜ。すまねぇな、悪かった」
「そんなことないですよ」
「昨日の言い方じゃ何も伝わらなかったよな。俺は主のお供はするし、いつだって守りたいと思ってる」

 現代に誘われたこと、嫌じゃなかったんだ。それを知るだけで、安堵やら嬉しいはら恥ずかしいやらで私の顔周りが熱くなっていく。その上、守りたいの響き。頭の中が熱でぼやけていきます。

「主、聞いてるか?」
「あ、ごめんなさい」
「だから、その……”弟”っていうのはやめてくれよ!」

 弟というのは、何のことでしょうか。言われてることが、私にはすぐわかりませんでした。少し待ってから、ようやく昨日のやりとりの細かな部分が思い出されます。

 現代についてきてもらう時、私と刀剣男士とで、適当に関係を決めているのです。例えば兄と妹。従兄弟同士や、先輩と後輩。叔父と姪、娘と親の友人、などなど。違和感なく現代に紛れるために、呼び方なんかも軽く事前に打ち合わせて、不審に思われないように努めます。
 太鼓鐘さんの中身は立派な男性であることは分かっていますが、普通の人間には彼はどうしても少年に見えています。だから私は提案したのでした。

 姉と弟という関係を装うのはどうでしょう、と。

 行かないと言われた理由が少し理解できた。まだ混乱は残しつつも、私と兄弟になるのはいやだったらしいことがわかりました。

「そう、ですか……。私の弟というのが嫌でしたら、あとは……家庭教師と生徒とかにしますか?」
「ん? 俺が生徒かよ?」
「だめですか? まあ私も先生なんて柄じゃありませんが。なら、えーと……」

 今まで刀剣男士たちと演じてきた関係性を記憶から一生懸命になって掘り起こします。友人、同級生、アルバイト先が一緒……。その他に、と言うならば。

「じゃ、じゃあ! 恋人というのもありますけど……?」

 恋人同士のフリをしたことは今までもありました。刀剣男士の方と私じゃ並んでも釣り合わないので、あまり好んで使う設定ではないのですが、その方が振る舞いやすいという刀剣男士には好きにしてもらっています。
 さすがに私の下心が見え透いてしまいそうだと思いました。けれど、金色の瞳が奥底から光っています。

「恋人という設定は、もちろん太鼓鐘さんが、嫌じゃなければですが……」
「いいぜ!」
「い、言いましたね?」
「ああ! 俺に二言はないぜ!」
「ほ、本気ですか……?」
「どうしたんだよ、主が言い出したことだぜ?」
「もう今からやっぱりやめるは聞きませんよ?」

 くどい私を責めることなく、太鼓鐘貞宗さんは強気で粋な笑顔で私を照らしつけます。

「俺に任せとけって!」

 こんなこと、あって良いのでしょうか。思い上がらないようにしないと自省していた私はもうどこかへ行ってしまいました。
 自省どころか全てがひっくり返って、何を着て行こうか、どこへ行こうか。本来の目的があって現代に行かなければいけないはずなのに、現代にいられるのはほんの数時間だけなのに、急に夢が広がり始めます。

「現代に行くの、今までで一番楽しみです……!」
「俺もだぜ!」

 実際に現代へと出かけた私が、帰るなり太鼓鐘さんと現代に行きたくて仕方なくなることなんてその時は知らず、私は無邪気に夢を広げたのでした。