グズマくんはわたしを救ってくれるひとだ。嫌だと悲鳴をあげたいのに、でもあげられない。自分に大丈夫を言い聞かせて、何も言えないわたしになってしまうとグズマくんは現れる。

 グズマくんが初めて壊してくれたもの。それは靴だった。今でも、どこまでも思い出せる。夏空の下、サンダルのストラップが履いたまま潰されたような悲鳴をあげてやがてブツリと千切れていったのを。
 幼い足を守れなくなったサンダルがぽとりと土の上に落ちていくのを見て、壊れてしまうということは、何もかもが姿を現わすことなのだと知った。
 わたしの足を絡め取っていたのは板に縫い付けられた糸の塊に過ぎなかった。途端に意味失って、そしてわたしの柔らかくて弱い、このままではどこにも行けない足まで露わになった。

 あたたかな太陽を背に、グズマくんはわたしに吐き捨てるように言った。

「帰れよ、さっさと」

 グズマくんの言葉にわたしが涙が溢れた。
 もう今日は、心を押し殺してトレーナーズスクールにいかなくても良いのだ。そう思うと安心の涙が出たのだ。

 サンダルが無ければ灼熱に熱くなったアスファルトを越えてトレーナーズスクールになど行けるはずがない。このまま危険な道を行くのではなく、まだ近い家へと帰るのは、自然な流れだ。
 トレーナーズスクールに行けない理由、家に帰って良い理由を得たわたしは、サンダルを拾い抱えると、母のいる家へ走った。
 靴を壊されてしまって涙の止まらない、可哀想な生き物のふりをして。






 ねっぷうが額に吹き当たる。店内と外の温度差で、一気にじんわりと汗がにじんだ。
 急遽駆け込んだメガやすで思ったより買いすぎてしまった。いつも比べてだいぶ重くなった袋に、二匹のアブリーたちが小さな手を添えてくれた。実際に荷物の重さは変わらないが、癒しと元気をもらって帰り道を歩む。

 途中、街の薄暗いところでたむろしているのはスカル団だ。足を広げてたむろする姿に、町のひとたちが眉が顰めるのはまだ良い方の反応だ。ほとんどの人たちは、彼らを見ないようにする。
 わたしは彼らに向かって小さく頭を下げた。彼らは彼らなりにおとなしく、待っているだけなのだ。
 皆同じようなマスクをしていて誰が誰かはわからないのだけど、彼らはわたしをわかっているようだった。彼らからも会釈がかえって来た。

 家につくと、ドアが自然と開く。

「あ、ありがとう、グソクムシャ」

 紳士的にドアを開けてくれたグソクムシャにアブリーたちは堂々としたものだけれど、わたしはぺこぺこしながら家に入った。

 部屋では冷えたエネココアがかすかに香る。ソファでは貸したシーツがぐちゃぐちゃになっていた。わたしが出かける前まではここで寝ていたグズマくんは今は浴室のようだ。シャワーの音と湯気が浴室から漏れている。
 グズマくん、うちに着替えあったっけと疑問を抱いた。けれどすぐに思い出した。前回来たときにシャツやらパンツやらを置いていかれたことに。わたしがどこにしまっておいたかを覚えていないのに、グズマくんは無事探し出せたのか。また体温が上がって考えがまとまらなくなっていく。家の中、いろいろ見られただろうな。扇風機の強度を上げて、わたしはキッチンに立った。

 グズマくんとわたしが、幼馴染らしき関係を続けられている理由はよく分からない。
 ただ少し思い当たるとしたら、わたしが好むものとグズマくんの好むものは意外に近いことがあった。その最たるものがむしタイプのポケモンだ。

 わたしは同年代のこどもたちと比べると、むしタイプのポケモンが嫌いでなかった。
 むしろ、ひこうタイプのポケモンの方が苦手だ。草むらのかげにドデカバシを見つけてしまうと目やくちばしや足が言いようもなく怖くて、それだけで泣きたくなっていたくらいだ。
 アゴジムシを抱き上げ、アブリーを引き連れる。おやにマリエ庭園に連れて行かれれば、シズクモをじっと観察してしまう。そういう女の子は、どこに言っても珍しがられた。

 むしろグズマくんとわたしはそれくらいの共通点しかない。
 年齢もわずかに違ったせいか、グズマくんより他の近所の子供たちと遊ぶことの方が多かった。
 母からはなるべく遠ざけられていたことには、後から知らされた。家を飛び出して一人暮らしを始めた後ぐらいだろうか。わたしのサンダルを壊したこともあって、グズマくんは母から良い印象を持たれていなかったらしい。グズマくんがハラさんの元を飛び出していったときの母の言葉は非情で、冷たいものだった。

 着るものも違くて、背の高さも違うから見える目線が違くて、ポケモンを可愛がる手つきも全然違う。わたしは彼みたいにポケモンを大きな手のひらでわしゃわしゃと全身を愛でたりはできない。アブリーたちの背中を、小さなクシでといてあげたりするのが関の山だ。
 ポケモントレーナーとしての才能の有無も違った。というよりそもそも、異性だし。

 でもほんのわずか、小さいけれど変えることのできない領域が重なっている。それがわたしとグズマくんだ。
 そしてグズマくんがわたしに会いに来るときは、彼がわたしのために何かを壊すときだ。


 フライパンに広げたパンケーキのタネ。表に気泡が上がって来て、ふちにも火が通って来た。ひっくり返せるにはもう少し待つべきだろうかとまじまじ見ていると、ぬるい部屋にもうひとつの体温が香った。
 シャワー上がりのグズマくんはラフな白いシャツ姿。頭にタオルを被ったままにグズマくんはわたしの家にひとつだけの椅子に勝手に座る。

「何か飲む?」
「おう」

 そう言いながらグズマくんはぼおっとした顔で飲み残しのエネココアに口をつけた。わたしは水でも出そうと思って手に取ったグラスをどぎまぎと元に戻した。

 パンケーキをひっくり返しながら、サラダの水気を切りながら、わたしは何だろうと考える。何だろう、わたしがガマンしてきたこと。
 グズマくんがわたしの目の前にわざわざ現れる時は、だいたいわたしがガマンにガマンを重ねて、潰れそうになっている時だ。
 例えば数年前。わたしが苦しい人間関係の最中にいるとき、グズマくんは現れた。

。来い。オレさまがなんか食べさせてやるよ』
『うん』

 それだけのやりとりだった。普通に会話をして、グズマくんが気まぐれにわたしをマラサダショップに誘った。だけどそれを見たひとたちは、何か悪いものでも見てしまったように散り散りになり、わたしの周りからあっという間に人間がいなくなった。
 友達だったはずの子は消えて、先輩としてわたしに色々言ってきたひとも消えて、わたしはあっという間にひとりぼっちになってしまった。
 友達が誰も彼もいなくなってしまい寂しいはずだった。だけどわたしは不思議に胸が軽くなって、気づいたのだ。あのグループは、わたしにとって無理をしなければいられない場所だった、と。

 フルーツを切りながら、お湯をわかしながら、まだ考えるのだけど心当たりは見つからない。グズマくんが壊すもの。わたしが、苦しんでいること。

 ハウオリシティの実家を出て、ひとり暮らしを始めて、わたしはまあまあ頑張りながら楽しみももって生活をしている。引き連れて来たアブリーたちも楽しそうにしてくれているので、自分としては上々のつもりだ。

 考えているうちに、ポケモンたちにきのみをボウルに盛り付けて、昼食の準備が終わってしまった。家にあるほとんど全て食器を総動員して、わたしはテーブルを完成させた。といってもパンケーキとサラダの簡単なプレートだけれど。
 生ぬるいわたしの家。いれたてのロズレイティーの香りが上がってくる。テーブルの向かいに、グズマくんが座っている。わたしの部屋に置きっぱなしだった本を勝手に読んでいる。そわそわと引っ張り出した脚立の上にわたしは腰を下ろした。

「いただきます」
「………」

 わたしがもそもそ食べ始めるとグズマくんも食べ始めてくれた。グズマくんの一口は大きい。
 グズマくんの一挙手一投足を、どうしても見守ってしまう。
 グズマくんが家にいるのが嫌なわけではない。けれど、考えてしまうのだ。グズマくんにわたしはどう見えているのだろう。グズマくんにとって今のわたしは、どうにも見捨てられない何かがあるのだろうかと。
 おなじむしタイプのポケモンが好きでも、同じ街の生まれでも、それだけの理由ではわたしとグズマくんは繋がらない。

 グズマくんの口にパンケーキがどんどん吸い込まれて行くのをぼーっと見やる。たくさん焼いたつもりだったけれど、グズマくんはあっという間に食べきってしまいそうだ。
 一眠りもしたし、シャワーも浴びたし、ご飯ももうすぐ食べ終わるし。グズマくんはもう日も暮れないうちに行ってしまうだろう。ううん、わたしが食べ終わる前にもう立ち上がるかも。家の外には、このひとを必要として、待っている仲間がたくさんいるのだから。そんなことを考えて鼻を鳴らしながらロズレイティーに口をつければ、本当にグズマくんは立ち上がってしまった。

 立ち上がったグズマくんはまっすぐ歩き、わたしの家のキッチンからエネココアの缶を見つけだす。自分のカップにティースプーン大盛りで粉末を入れると、熱いお湯を注いだのだった。
 カップの中身がスプーンでかき回される。ぬるい昼下がりの部屋に、あたたかな、エネココアが香った。

 二杯目のエネココアを鼻腔で感じながら、わたしはうろたえた。わたしの目の前にぶら下がるのは、チャンス。グズマくんに聞きたいことを聞く、言いたいことを言う、チャンスだ。
 聞いてもいいのだろうか、言ってもいいのだろうか。でも。悩むほどせり上がってくる胸の苦しさ。ついにグズマくんは、私を一瞥して言った。

「元気にしてるかと、思ってよ」

 ぽかんと口が開いた。
 数秒、わたしのロズレイティーの香りがくゆるだけの間が空いた。
 わたしはフォークを思わず置いた。頭がうまく回ってなくて、何を言っていいかわからない。混乱のさなか、ぽつりと言葉が勝手にこぼれた。

「……わたしも、グズマくんに会いたかった」

 グズマくんは思いっきり眉をしかめた。

「そうとは言ってねえ」
「あ……」

 ほんとだ。言葉の上では全然繋がっていない。なのに何で「元気にしてるか気になった」に「私も会いたかった」なんて返事を繋げてしまったんだろう。
 あははと笑ってごまかして、小さな息を隠して吐いて、そうか、と思わず下唇を噛んだ。

 会いたかったと言ってしまった。
 グズマくんの一言が、言葉に詰まるわたしの殻を壊してしまった。果物の皮をむくみたいにして。

 ぎりぎりまでこみあげていたものの空気が抜けていく。
 緊張の崖がほろほろと崩れて行く。
 安心で泣きたい気持ちがせり上がってきて、あの夏空を思い出した。わたしの足枷を壊した、少年のグズマくん。

 昨晩のエネココアを飲み干してくれたグズマくんはきっと二杯目も飲み残しはしない、はず。そう期待して、わたしはゆっくりと食べ損ねていたパンケーキにナイフを入れた。
 壊れてしまうということは、何もかもが姿を現わすこと。グズマくんのためにと用意したパンケーキは、ふんわりときめ細かく、美しく焼けていた。