夏が終わる頃からだろうか。少し、ネズさんが私から距離をとった瞬間があった。一度のことではなくて、それは断続的に、何度も訪れた。
 私が次のデートを提案しても「それはいいですね」と笑ったきり、話が消えたりした。最初は違和感を覚えるだけで済んでいたのに、あまりにも「それはいいですね」が繰り返されたから、遠回し断られてると私も気づいた。私の手を握りしめたまま、何も言わなくなる時があった。ネズさんは何か考えて苦しげに私を抱きしめるのに、何も言わずに離されることが、増えた。
 どうしたんですか、と聞いても、だいすきですよと答えになっていない答えをくれる。私が年下だから、頼りないから胸の内を教えてもらえないのだろうかと思うと、どんどん私は彼に考えを聞けなくなっていった。
 重たく触れてくるのに、心のうちは教えてくれない。ネズさんのそんな行動は私たちの関係に簡単にひびを入れた。

 私はそんなネズさんの仕草に傷つきつつも、耐えていた。
 自分のジムのこと、ポケモンたちを育てること、スパイクタウンのこと、家族のこと。ネズさんはたくさんの物事を抱え込んで、ひとつひとつを深く考えている。多分私のことも考えていてくれて、適当にはされていない。
 だから彼の答えを待とう。ネズさんが考えに考え抜いたことなら受け入れよう。悪い予感ばかりが忍び寄る中で、たとえどんな答えでも受け止めなければならないと、ゆっくりと、でも確実に覚悟が固まりつつあった。
 支えになれていないのなら、切り捨てられるのも仕方がない。そう思っていたのに。もし彼の人生において私が重荷なら、笑ってさよならが言えたらいいなとまで考えていた。なのに。



 審判の日は、唐突に訪れた。ネズさんの家に招かれて、時刻が夕食時だったのでキッチンを借りて軽く買ってきたものを盛りつけたりして、ネズさんも一緒にワインを用意してくれたりしたのが楽しくて、お互い笑顔でさあ食べようかという時だった。
 ワインを一口飲み下したネズさんが深いため息をついて、背中を丸めた。

「今から最低なことを言います」

 はい、と言おうとしたのに、それだけの返事が震えた。手に持っていたナイフとフォークを元の場所に戻して、私は自分の服を握りしめた。

「おまえと家族になりたい。結婚するのは、どうですか?」
「……っ」

 思いつめた表情から示されたのは、ずっと欲しかった言葉だった。だけどどうしてその言葉を、諦めたような顔で、別れの言葉として使うのだろうか。
 こんな形で答え合せになるなんて思ってもいなかった。

「私は、今だけ、ネズさんがだいっきらいです……」

 本当は大好きだけど。ひどすぎるネズさんにちょっとでもやり返したくてわざと傷つけるようなことを言った。けれど机の向かいのネズさんは固い表情を変えてくれなかった。

「プロポーズは、最低なこと、ですか?」
「これを言ったら終わるなと、おれも理解しています」
「………」
「答えはノーということですか」
「ネズさんは私がそう言うのを望んでいるんじゃないですか?」
「望んでなど……。でも、おまえからきっちり言われたら、おれも諦めがつくかと思いました」
「諦めって、なんですか……?」

 多分もう赤くなっているであろう目でネズさんを問い詰める。

「おれは選べません。おまえを幸せにするのはおれだけでありたいと願っていますが、この街も捨てられません。バトルする自分も、歌う自分も。捨てられないものが多くて、譲れるものは託せる人々に譲ろうとしていますが、おまえだけは譲れない。
 なのに結婚させたらおれの勝手で、おまえをスパイクタウンに住まわせなければならいですし、不自由させると夫への愛情も減ると言うじゃないですか。それで出て行くおまえを想像すると気が狂いそうになります」
「………」
「だいきらいは、望むところです。おれはおまえが幸せになれないのが一番嫌ですよ」

 だから言えば終わると思っていたプロポーズを、口にしたのか。それが決別の言葉になると思い込んで、私の幸せを勝手に決めつけて。
 ネズさんはまた自分を勢い付けるためか、ワインをごくりと飲み下してからうなだれた。

「だから今までありがとうございました。キラキラしているおまえがすきで、愛していますよ、
「私、勘違いしてました、ネズさんのこと……」
「自覚はありましたよ、年上という幻想でおまえを誤魔化しているようで、後ろめたさがありました」

 私より少し年上のネズさんは、もっと大人で、埋められない距離が存在していて、いろいろ考えてくれていると思っていた。
 確かに考えなしの人ではない。経験だって違う。けれど、大人だって混乱をするらしい。間違えもするようだ。別れ話としてプロポーズの言葉を使う時点でもう彼の混乱ぶりがわかるけれど、これから食事をする前に別れ話をした時点でもネズさんは正気ではないようだ。

 冷めていく料理が物悲しいのに、こんな時に強くネズさんを欲しいと思うのは、悪いことのような気がした。だけど私のことを考えてはいるけれど、考えすぎてがんじがらめになっている彼を、愛しいと思うことは悪いことだろうか。
 テーブルの上に広がる光景に、私の中で暗い欲望が頭をもたげる。このひとは気高いから、私が落としてあげないと落ちてきてくれないのかもしれない、と。

「ああ、もう……」

 感情が私の手を離れて行く。それに従って私は自分のグラスに残っていたワインを飲み干した。それからいつもの自分が飲む量からしていけるはずだともう一度グラスに注いで飲み干した。
 喉と胃が悲鳴をあげる。これでいい、私はヤケになりたい。
 私は立つとテーブルの向かいに座るネズさんの肩を押した。

「だいきらいは終わりました。大好きです、ネズさん」
「……いいのでしょうか」
「よくなくても、このまま判断を間違えてください。私は苦労したり、不幸になることよりも、ネズさんと一緒にいられない方がいやなんです……」

 戸惑いながらもネズさんが腕を広げる。心臓と心臓を近づけて、上へと導くとネズさんは立ち上がってくれたので、そのまま一緒にテーブルを離れた。
 電気のついていない部屋へと移動する。歩きづらさを無視して連れ込もうとしている私と違い、ネズさんの手は今はもうちゃんと私を支えてくれていた。



 返事を求めてない呼び声に、今更体温が上がってくる。ネズさんの熱を宿した声は私をくらくらさせた。早くアルコールも上がってきて、恥ずかしささえ分からなくなってしまいたい。

「おれがもうひとつ間違えたところがありまして」
「はい」
「おまえからきっちり拒絶されれば、おれも諦めがつくと思っていたんですけどね」

 真下から見上げたネズさんの口端は恐ろしくつり上がっていた。

「だいきらいで、逆に燃えました」

 不穏な申告で全身を熱くして、だけど困ったことに声も腕も表情も彼に落ちる影さえも全部が大好きで、私はなすすべもなく背中からベッドへ飛び込んだのだった。