「オマエにつけて欲しい」。そう言ってキバナから腕時計を渡された。ラッピングを解くと小箱の中、クッションに身を埋めていた腕時計へ、私はできる限りの冷たい視線を落とした。
 気を緩ませてはいけない。喜んだら、機嫌を直してしまったらキバナの思う通りになってしまう。
 どうにか許してもらうための、ご機嫌取りのプレゼントだとはわかっている。私がキバナを許す可能性を少しでも引き上げるためのものだ。
 プレゼントを差し出す前にキバナにはきっぱりと伝えられた。もう私が怪しむような女性の影は無いし、私が嫌がることはしたくないと。その上で、プレゼントを差し出してきたのだ。
 視線を落としたまま私が無言を貫いていると、恐る恐るキバナが切り出してくる。

「オレのヌメルゴンが♀なの、も知ってるよな。それって、女性に入るのか、ちゃんとオマエに聞きたくて……」

 そろりと目線を上げると向かいの席でキバナが私の審判を待っている。
 背中を最大限に丸めたキバナは、わずかに上目遣いになっている。いつもよりさらに垂れた目尻は大の男ながら可愛いの部類に入っていた。キバナはずるい。多分、自分どう見えるかわかってやっている。正直ほだされそうにもなる。だけど私は凍った表情を保ち続けた。

「ヌメルゴンは、立派な女性です」
「え」

 目の前のキバナがわかりやすく顔を引きつらせる。

「女の子に入ります」
「じゃ、じゃあ」
「私以外の女の人を触るキバナは、だいきらい」

 数日前のものとほとんど同じセリフを言い放って、私は席を立った。カフェに座るために注文したコーヒーはついに一口も飲まなかった。
 ヌメルゴンごめんね、と心の中で謝る。キバナのポケモントレーナーとしての活躍の邪魔したいわけじゃないけれど、これくらいの仕返しはさせてほしい。

 置き去って来た、キバナの引きつった表情を思い出して、上手にざまあみろと思えない。浮かんでは消えるのは、出会った頃のキバナ、私を求めてくれていたキバナ、私を壁に追い詰めて牙が見えるほどに「オレに飽きたのか」と吠えていたキバナ。

 キバナと付き合って二年と一週間目。未だに私たちの仲は繋がっていながらも危機的状況である。




 キバナを困らせる台詞をわざとぶつけて、カフェから飛び出した私は足早にナックルシティの駅を目指した。もちろん安全に感情を乱していられる家に帰るためだ。道中、キバナが追いかけて来るんじゃ無いかと何度も振り返った。この前みたいに、私を逃げられないところまで追い詰めて来るのではないか、キバナならやるかもしれない。
 だけど立てた予想は外れて、私は今、駅のベンチで全てのやる気を失っている。

 人々の行き交う喧騒を横目に、私はちゃっかり連れ去って来た腕時計を虚ろな気分で眺めた。
 再度箱を開けるとやはりクッションの上で眠らされたそれに、認めたく無いけれど胸が踊り出す。
 自分で買ったことはないけれど、知っているロゴのブランドだ。文字盤に不要な凹凸はない、パッと見はすっきりとした印象を与えるフラットなデザインだ。けれどシンプルすぎず、金属や石の過不足ない使い方がとても上品だ。シンプルで太めな皮ベルトと、文字盤の爽やかなシアンブルーが引き立てあっている。たとえスーツを着ていても、馴染みながら映えることだろう。
 とにかく、私では選びぬけないくらいにセンスはばつぐんに良い。箱から取り出すと、キバナのセンスの良さが際立った。そっと左の手首にベルトを当てる。金具に通して、ちょうどいいところで調節する。

「やっぱり。すごく綺麗……」

 つけたことのないタイプだけれど、私に合っている、気がする。左手を目の前にかざして、今日一番の苦しみが込み上げた。

 自分の気持ちに素直に向き合うのなら、やっぱりキバナからのプレゼントが嬉しかった。手首に巻きついた、キバナからの贈り物は強制的に私の気分を持ち上げていく。
 だけど不安がつきまとうのだ。散々女の人を虜にして来たキバナのことだ、女性ならこういうのウケが良いとわかってやっているのかもしれない。なのに、喜んでしまった。我ながら単純すぎる。キバナのその手の罠にはハマりたくない。なのに、やっぱり嬉しい。
 涙腺と口元が緩み書けたけれど、駅の構内に現れた影に再度顔を引き締めた。

「やっぱりいいな、似合ってる」

 指摘されて、慌てて手首をコートのポケットに隠す。キバナは私の手首を追いかけるように、私の左側に腰をかけた。キバナが座ると途端にベンチに余裕がなくなるけれど、私も突っ張って身を小さくしたりはしなかった。

「……絶対に別れねえ」

 キバナが低い声で囁いたことは、言葉の割に願い事のように聞こえた。私は肩を落とした。

「よく言うよ。私がどんな気持ちだったか、知らないくせに」
「知りたい」
「………」
「教えてくれよ」

 自分のみっともない部分をさらけ出すのは勇気がいる。相手がキバナだからこそ、キバナにとって愛しやすい良いところばっかりの自分でいたいと思う。教えてくれとキバナが言ったとしても、言った後に嫌われない保証はない。
 だけど私を勇気づけるのは、先にキバナが示してくれた激しい愛情だ。
 スマートなイメージの強かったキバナが、私を壁際まで追い詰めて我を失った姿を見せた。体格差も力の差も全身で感じて、ひどく恐ろしかった。だけど同時に取り乱した姿が愛しかった。

 私は意を決して、隠していた左手首をキバナの目の前につきつけた。

「っ、これ選ぶときはちゃんと一人で選んだの? 他の誰かにアドバイスもらったりしてない? 誰かとのデートの合間に選んだとかだったら、ほんと、無理」

 彼のブルーの瞳が見開かれる。

「キバナ、わかってる? 私にはそういう不安がいつまでも、どんなことにもつきまとってるんだよ……?」

 私だって純粋に可愛らしく喜びたかった。せめて精一杯の言葉を尽くして、キバナにありがとうと伝えたかった。だけど、したくもない不安がつきまとって振り払えないのだ。
 キバナは顔をしかめ、かと思うと深く深くため息を吐いた。心の折れかかっている私にとってはそのため息でも胸が痛んでしまう。けれど、バカな心配だとかめんどくさいだとか言われる心の準備はできいた。

 キバナの反応は何もかもが予想外だった。

「例のごとく気づかないだろうとは思ったけどよお……」

 その言葉と一緒にキバナが私の左手首を捉えて、引き上げられる。同時にキバナは首を傾け、私の手首を横に並べた。

「よく見ろよ」
「え……?」

 何をされているのか、すぐには気づけなかった。私は戸惑うものの、キバナは容赦してくれない。腕時計と自分の顔を並べたまま動かずに、私が自分から気づくのよう仕向けられる。やがて、私がみるみる表情を変えると、キバナは野性的に口端を上げた。

 受け取った時にはただ綺麗でセンスがいいなと思っただけだった。皮ベルトのカラーリングは彼の頬の色、それから鮮やかな文字盤の色は瞳の色と重なるだなんて、かけらも気づいていなかった。

「オマエが気づいていないだけで、オレはいつもこんなに独占欲丸出しだぞ」

 思わず手を引くと、キバナの拘束はあっけなく緩んで、離れることができた。なのに、離れられた気がしないのはこの手首に巻きつくものに込められた意味を知ってしまったからだ。

「そ、そういう意味だったなんて……」

 私は知らず知らずのうちにとんでもないものを受け取っていたらしい。ただのご機嫌とりだと思っていた自分が急に恥ずかしくなってきた。でも記憶を消せたらいいのにとも思う。さっきから顔に熱が上がりっぱなしだ。そんな私をキバナが満足げに見下ろしてくるから、気持ちの切り替えがつかない。

「なあ、ヌメルゴンについては許可をくれ。オレの大事なパートナーなんだ。アイツとしかできないバトルがあるんだよ」
「えっ、本気で言ってると思ったの……? 私もキバナが無理だとわかってて言ったんだから、取り合わなくても良かったのに」
「そうかもしれないとは思った。だがの言うことを無視できないだろ。オレさまに許可は?」

 私に許可を求めているのに、オレさまと自称するとは。

「キバナが触っていい女の子はポケモンだけ」
「ポケモンとだけだろ」

 横に座ってたキバナが座り直して距離を詰めてくる。

「触っていいか?」
「わ、私に?」
「………」

 彼の目が無言で私だと訴える。私が嫌悪感を示さないのを言葉でも確認してから、肩を抱き寄せられた。

 散々だった二年記念日を経て、私には少しだけ、キバナがまだ愛情を向けてくれているという過信があった。ヌメルゴンについての意地悪も、もしかしたら愛されているかもという過信がなければ言えなかっただろう。
 まだかろうじて繋がっている絆を、切りたいわけではない。千切れそうに傷ついた部分を手のひらで握りしめて、守りきる方法を探している。
 未だに危機は存在するれど、守って行ける方法は見つかりそうだ。

 だってキバナは示してくれた。謝罪にプレゼント。私の言葉を律儀に守るし、執着も見せつけられた。そんな丁寧に罠を積み上げなくても、私はまだキバナを好きなままなのに。

「……あとちゃんと、ごめんなさいを言って」
「ゴメンナサイ、もうしません……」

 ドラゴンストームと呼ばれる男は私をぎゅうぎゅうに抱きしめながらしょげている。
 ようやく理解が追いつく。それに私はたくさん間違えてしまった。私にはキバナに向けられている愛情を過信することができたけれど、キバナには私の愛情や自責的な執着を確かめる術はなかったのかもしれない。
 自分自身が、こんなにもキバナを傷つけることができる存在だなんて思わなかった。

「私も、ごめんなさい」

 ぽつりと言うと、キバナは頬や左耳にキスの雨を振らせてきた。されるがままにキスを受け止めて、目を閉じると、こらえていた涙がぽろりと溢れた。涙の滴は音もなく私の服に吸い込まれていった。キバナはキスをやめない。けれどそのうちにもしキバナが私が泣いていることに気づいたら言わなくては。涙の理由は悲しさじゃないこと、それと私の中でまだ育ち続ける気持ちについて、精一杯、伝えよう。






(リクエストの「女癖の悪いキバナさんのお話の続きで、案外愛されていたと実感する話」「女癖の悪いキバナさんのお話のその後、続編」「女癖の悪いキバナさんの後日談」等に対して書かせていただきました。今回は恐れながらも一括での消化とさせていただきます。リクエスト、どうもありがとうございました!)