恋人があのトップジムリーダーキバナであることは、周りの誰にも言っていない。理由の1つは、もちろんキバナが有名すぎることにある。
 二人して妙に気があうことは認め合っているものの、私とキバナは生きている境遇がまるで違う。少なくとも私は、私の存在がキバナの世界に影を落とすことのないように、そして自分の世界を守るために、自分の恋人について話題にしたことがない。

 もう1つの理由は、私自身すぐ別れてしまうかもと思っていたからだ。スーツを着てオフィスビルに詰め込まれてカレンダー通りに働く自分に、ポケモントレーナーというガラルの大舞台で輝く花形職業の恋人はどう見ても不釣り合いだった。しかもただのポケモントレーナーではない。
 リーグカードがファンの間で高値でやりとりされるようなメジャーリーグのトップジムリーダー。それがキバナだった。
 告白だって、ダメ元でしたのだ。この人といるとなんだか楽しくて、話しているだけで心が温かく流れ出す。ほんの数分でも一緒に過ごすと小さなことが全部吹き飛んでいくようだった。だからハマりきってしまう前に諦めるためにも私から告白をした。キバナさん、私と付き合おうよ、一緒にいると楽しいから。こんな軽率な言葉だったと思う。でもキバナは一度顔を逸らして、それからその大きな掌と長い指で自分の顔のほとんどを隠しながらも「いいぜ」と了承をくれた。
 素っ気ない声色に、私は短かな恋となることを承知で彼の恋人を自認し始めたのだ。

 そう、付き合いたてのキバナはかなりそっけなかった。「オレさまはかっこいい」と自分で口にするくせに、手のひらで顔を隠してしまうのはよくあることだった。まだ子供の頃の幼い恋愛の方が愛情表現に溢れている。キバナは華やかに見えて、奥ゆかしい性格でもあるようだった。
 そんな彼がどんな意味合いだろうとプレゼントに、自分の目の色に近い文字盤を持つ腕時計を選んだ。キバナにしては珍しい選択だった。感慨深く、私は文字盤を指で擦った。
 太めのベルトは慣れなくて疲れやすいけれど、ほぼ毎日つけている。ふとした瞬間自分の手首に視線をやれば抱かされる、生ぬるい胸の疼き。わかりやすく爽快な感情ではないけれど、いつまでも感じていたいと思わされる甘さがあった。

「あ、先輩、またそういうカッコいい腕時計しちゃうんだから」

 愛嬌に溢れた後輩の声で、気持ちが現実に戻って来る。

「もうちょっと華奢なデザインの方だって似合うのに。そういう強そうなのつけるとかっこよすぎます」

 キバナの腕時計を見つめていたのは無意識だった。後輩に指摘を受けたのは腕時計のデザインについてで、自分の呆けた顔ではないことに安堵した。感情が表に出にくい人間で、今ばかりは助かった。

「かっこいいとだめなの?」
「恋人募集してるようには見えないです」
「募集……、していないけど」
「まあ前から男性に興味ないオーラ出してますよね」

 それは本当に男性に興味ないからだ。正確に言うと、キバナ以外の男性に興味を持っている暇がない。
 付き合っている相手がキバナだった時、キバナ以外に関心を持てる余裕のある女性なんて存在しないのではないか。私は彼の興味が完全に自分から失われないために、どれだけの時間と労力を費やして来たかわからない。

 それに、これは自分に似合うから身につけているのではない。この腕時計がくれる胸の痛みが、苦しいはずなのに心地よくて病みつきになっているのだ。

「でも気に入ってるんですね」
「え?」
「時計を眺めてる先輩、なんだか可愛いです!」

 熱い視線をそそいでたのが後輩にもばれたらしい。上手なごまかしが思い浮かばずに思わず閉口していまう。
 そういえばキバナにも近いようなことを言われた。「顔が可愛くなった」と。
 私自身は特になんの変化もないつもりだ。だけどどことなく、前以上に身だしなみに気をつけるようになったかもしれない。良い時計をもらって、しかもこれがキバナの化身みたいなものだと思うと、見合う自分になりたいと思えた。
 爪の形を気をつけて整えてみたり、鏡を見る回数を意識的に増やしてみたり、髪が一房跳ねたのを放っておかないようにしたり。その程度なので成果を見込んでいるわけではない。それでもキバナに可愛くなったと言われたのは嬉しくて、一瞬で舞い上がりそうになった。なのに、キバナ自身はなぜか不機嫌そうだったので、返事と感情のやり場に困ったのを覚えている。

「やっぱり先輩、あの同期さんと上手く行ってるんじゃないですか?」
「同期?」
「ほら、資格勉強たまに教えているっていう」
「ああ……」

 そう言われ、ようやく同期さんと呼ばれる男の顔が思い浮かんだ。部署が違う割には確かによく話す方かもしれない。

「勉強教えてるだけだから、そういうのじゃないよ」
「え?」
「……え?」

 思わず聞き返してしまったのは、いつも可愛らしい後輩の顔が強くしかめられたからだ。まるでしぶくちカレーを口いっぱいに食べましたと言わんばかりの顔をされれば、自分が何かまずいことを口走ったらしいと気づく。

「同期には、資格のこと教えただけだけど……」
「いやでもすごいさんのこと迎えに来るじゃないですか」
「それは勉強の質問があるって言うから」
さんに色々贈ってるじゃないですか、お菓子とかよくもらってるじゃないですか!」
「それは勉強教えてくれたお礼だって」
「でももらったハンカチとかさん使ってたじゃないですか!!」
「使えるものだったから、つい」
「話が合って嬉しいとか、言われてたじゃないですか……!」
「それは……、社交辞令だと思ってた……」

 後輩からの詰問に全て素直に答えて、そこに嘘はないとしても、自分がまずいことを口走っているのはわかっていた。
 事実を並べ立てられてようやく気づく。私は確かに、同期の男性からアプローチらしきものを受けている。

 サーっと血の気が引いた。
 確かに帰りの駅で話しかけることは多かった。資格についての質問ばかりだったので全く気にしていなかった。お礼と言われて、なんかお礼だってハートのアメざいくやらチョコレートやらハーブティーやらプリンやらハンカチやらもらっていた。お礼なんて気にしないで伝えてもことあるごとに贈られていた。なのに私は随分羽振りがいいんだなとしか思っていなかった。バカすぎる。我ながら、本当にキバナ以外の男性に興味がなさすぎた。

「勘違いってことは、ない、よね」
「だって部署に来ても先輩にしか話しかけないじゃないですか、あの人。これが勘違いなら先輩は鈍感すぎて引きます……」
「信じていいよね」
「私は先輩の精神がちょっと信じられません」

 うん、これは後輩のことを信じて良さそうだ。
 今日は金曜日。本来なら仕事終わりにはキバナと出かけたいところだけれど、この問題を土日の間ずっと放っておける気がしない。あと、はっきりしておかないと、キバナと会っている時間に余計なことを考えたくない。

『ごめん、キバナ。急用が出来たから今夜は行けない。本当にごめん』

 ごめんなさいと頭の中でも彼に送るメッセージの中でも謝り倒して、私を今夜の予定を変更した。







 私はなるべく早く仕事を上がると、会社の前で同期の彼を待ち伏せた。とにかく早く誤解を解きたい一心だった。
 私の算段では、きっぱりと誤解であることを伝えた後は速やかに去るつもりだった。彼に謝りながらも直接、毅然とした態度で告げれば伝わるものだと思っていた。

「どういうことですか?」

 そう硬い声色で言い返されて、甘い考えだったと気づかされる。
 しかも彼の目には強い感情が宿っていて、今まで無自覚だった私には簡単には受け止めきれない。報いだ。そう思ってぐっとこらえる。寄せられる気持ちに気づかずに、無自覚に好意を受け取りながらないがしろにしていたのは私自身だ。

「今まであなたの気持ちに気づかずにいてごめんなさい。私は資格について聞かれたから答えていただけで、期待させるつもりはなかったんです。資格試験については純粋に応援していました」
「そうですか」
「もっと、早く気付けばよかったです、本当にごめんなさい」

 告げることは告げた。気まずさを振り切って歩き出そうとした。だけど一歩めの進路を彼に塞がれてしまう。

「でも、もし、もし貴方が今まで何も気づかれなかったとしても僕は構わないです。これからでもいいので僕のことを意識してもらえたら……、友達からもでいいです!」
「で、できません」
「友達にすらなれないって、どうして。なんでそんな風に言うんですか。ずっと優しくしてくれて、嫌がるそぶりも見せなかったじゃないですか……!」

 そう言われてしまうと弱る。上手な断り文句が浮かばず、結局奥の手として今まで触れずにいた事実を言うしかなくなってしまった。

「ごめんなさい。私、ずっと付き合っている人がいるんです」

 本当に、自分とキバナの関係について、名前を伏せてでも誰かに言うのは初めてだった。会社の同僚にも上司のも、下手したら家族にもフリーだと思われている私だ。不思議な高揚感が私を指先から熱くしていく。
 やはり相手も驚いたようだ。目線がわかりやすくたじろいでいる。

「っそんな気配なかったじゃないですか」
「でも嘘じゃないです。二年くらい前から、ずっと付き合っている人がいて」
「相手は? 名前は? どんな男ですか?」
「それは……言いたくないです」
「ふざけているんですか?」
「でも本当に付き合っている人がいます」
「二年も付き合ってるなら恋人との写真のひとつでもあるでしょう? ちゃんと証拠を出して、僕を納得させてくださいよ」

 相手は一歩も引く様子がない。諦められない、と彼の顔に書いてあるようだった。
 ここで証拠を提示できなければ、彼に押し切られる気がした。なんとしても今夜中に精算してしまいたい私は、大丈夫、口止めされたことなんてないと、再度記憶を確認した。そして次の秘密を口にしてしまった。 

「キバナさんって、知ってますか」
「は? それってあの、トップジムリーダーの?」
「はい」
「え? まさか付き合っている人が、キバナさんだって言うんですか?」
「………」
さん、もっとマシな嘘をついてくださいよ」

 私だって事実じゃなければ、もっと現実的で信ぴょう性のある嘘をついていた。だけど事実なのだから仕方がない。彼からの好意を誠実に断るためにも、私は事実を話している。だというのに下手な嘘だとバカにされた。つい意地になってしまった私は、スマホを開いてキバナと一緒に写っている写真を出してしまった。

「これで信じてもらえますか」
「合成ですよね? もしくは、ファンとしてお願いして撮ってもらったとかじゃないんですか? そうでしょう?」

 やっぱり信じてもらえない。それもそうか。こんな平凡な女の恋人が、あのキバナだなんて。私も信じられない。キバナのあの手のひらを時々独占できているなんて。

「でも本当なんです」

 本当なのに。信じてもらえないとわかっていた。けれど、いざ現実に直面すると、鼻の奥がツンと痛んだ。

「冗談きついですよ」
「どうしたら信じてくれますか」
「……本当に恋人なら今から電話かけられんじゃないですか?」
「キバナはなるべく巻き込みたくないです、トーク履歴とかじゃだめですか」
「無茶苦茶ですよ。トーク履歴なんていくらでも捏造できます」
「………」

 仕方がない。私は再度、自分のスマホを取り出した。少し話して、彼にわかってもらったらすぐ通話を切ろう。キバナには悟られないように、なるべくすぐに。








 通話をかけて、キバナに繋がったところを見せれば同期の彼も納得し、全てが解決するはずだった。キバナにも仕事関係の人と話しているとだけ軽く説明して誤魔化すつもりだった。
 なのにまだ通話がつながっているうちに「さん、僕を弄んだんですか?!」なんて声を荒げられてしまった。「違う、誤解です」と言い返す前に、私も通話を切ればよかったのに。その後にも続いた、明らかにこじれた男女のやりとりをキバナに聞かせてしまった。
 私が感じていたより長い間、言い争っていたのかもしれない。会社の前というわかりやすい場所で話していたせいか、私たちは空から簡単に見つけられてしまった。
 フライゴンを降り立った、画面越しじゃなく目の前で動く、本物のキバナ。呆気にとられる同期に同情して目を離せないでいると、キバナに優しくも逆らえない力で連れていかれた。

 キバナに知られずに終わらせてしまいたかった。なのに巻き込んでしまったのは、完璧に私の落ち度だ。

「全て、話せよな」

 そうキバナに問いただされるのは仕方がない気がする。だけど、彼の家に着くなり、なぜ持ち物を奪われたのだろう。それどころか、普段と変わらない服装のキバナに対し、私はもう何枚か服を脱いだ後だ。
 上はキャミソール、下はスカートは履いているが裸足だ。渡せと言われて自分から脱いだ上着、剥ぎ取られそうになって自分からボタンを外したシャツ、それから机の付近に置かせてもらったカバンとスマホも見当たらない。
 キバナに引っ張られた拍子に足がもつれて脱げてしまった靴も、もはや無いかもしれない。目の前で、檻のように立つキバナを見て、そう思った。

「こわいのはやめてください……」
「何も怖くないだろ。オレはちゃんと愛情持ってオマエに接してるぜ」
「………」

 愛情ってこんな風にして相手を追い詰めるような、激しいものだっただろうか。
 むしろ前みたく激しく怒ってくれた方がよかった。優しい声色だからこそ、背筋がざわめきっぱなしで、恐ろしさが途切れてくれない。私から冷静さを奪って、泣きわめかせてくれた方が楽だと思えるくらいだ。

「すごく心配した」

 ゆっくりと私に染み込ませるように言われたことは甘みを帯びている。だけどすごく心配した男の顔は果たしてそんな表情をするのだろうか。
 瞳孔の奥からうごめくような瞳の光。彼の、硬い指が私の頬をざりざりと擦る。肌と肌が擦れるざりざり音は、ひどく大きく聞こえた。

「ほら全部話せ」
「彼は何も悪くないです……」
「庇うのか?」
「違う。私が相手に興味なさすぎて、結果、勘違いさせたの。やましいことは何も無いよ……」
「全部話せって言っている」
「話す。話すよ。だけど」

 散々な二周年記念日の時のように、これから私はまともにキバナに逆らえないだろう。だけどこのまま彼の言いなりになるには、私には飲み込みきれないことがある。
 キバナという存在がありながら、別の恋に巻き込まれた。それに気づかずに、無自覚とはいえ助長させてしまった。自分の行いについては、反省するところだ。同期の彼にも申し訳ない。
 だけど、他の恋に巻き込まれ、助長させたことなら、キバナもあったではないか。

「キバナ、自分のことは、いいの?」

 問いただすと、キバナはあっけらかんと自分の罪を認めた。

「よくない。悪かったと思っているよ」
「じゃあ」
「オレも悪い。でもも悪い」
「……私が、腑に落ちないことはもうひとつある。キバナには、私が浮気するように見えたの?」

 キバナは答えない。私の、最大限のしかめっ面に、キバナはむしろ悲しげだ。

「そんな奴だとは思ってない。だが、もはや信じる信じないのレベルの話じゃないからなあ」
「どういうこと?」
「オレさまは小出しにしようとあんなにも努力してきたのにな」

 低い声で呟かれた内容にまた肌が粟立つ。それを摩ろうとした指先は、自分でも驚くほど冷たくなっていた。

。オマエを責めたくない。だから言っておこう。オレさまは最初から良い悪いなんか気にしていない。どちらが悪いかで言えば、悪いのはオレだ。だがオマエに悪いところがあるとしたら、オレが抱く気持ちと同じものを、オマエは決して抱いてくれないところだろうな」
「そんなの、わからないじゃない」

 私だってキバナが同じくらい好きだよと伝えたかった。なのに返した言葉は、自分が思うより力無い響きをしていた。嘘偽りなく、キバナへの特別な感情が存在している。なのに、どうしてこんなにも虚しくて弱い。意味が、願ったように伴ってくれない。
 理解が追いつかないでいると、案の定キバナに「ほらな」と嘲笑されてしまった。

「これももう必要ない」

 そう言われて腕時計が丁寧に手首から外された。独占欲の証を必要ないと言われた理由にも行き着けない、ダメな恋人なのに、キバナは自分の体温に染め上げようとする。

 今夜は金曜日。明日は土曜日、明後日は日曜日。この二日間はキバナに捧げようなどと私は、どこか冷静な頭で曜日を確認していた。その勘違いこそ、キバナを深く傷つけると知らずに、私の意識の一部は時を数えている。
 私はとりあえず下手を打たなければ月曜日は普通に会社に行けると信じて疑っていなかったのだ。まだ、この時点では。

 私はキバナが好きで、キバナも間違いなく私を好きだ。それが今は確かに感じられるのに、この気持ちの通じなさはなんだろう。
 何か間違っている。強くそう感じてはいる。なのにキャミソール姿でいたせいで震え出すほどに冷えた体にキバナの体温と鼓動が与えられて、縋ってしまった私は愚かだろうか。でも冷たくなった肌を擦り合わせたらば、安らかに目を細めたキバナにほだされて、まあ愚かでもいいやなんて思ってしまった。ああもうだめだ、いろいろと。






(リクエスト内容は「女癖の悪いキバナさんで、キバナ以外に言い寄られた主人公を見た反応を〜」とのことでした! リクエストありがとうございました……!)