ローズ委員長の姪という肩書は、意外に役にたつものだ。ませた少女だった私は、大人びた言動で関係者席に出入りして、顔なじみのリーグ委員会重役たちとそのバトルを見ていた。テレビ越しに彼のバトルを見ていても、ダンデを好きになることは避けられなかったように思う。だけどその他の観客よりも良い席で見た、チャンピオン・ダンデが誕生する瞬間は私の人生を変えてしまった宝物だ。

 十年前、ダンデに向けてはなった台詞を私は一字一句覚えている。これから自分は罪を犯すとわかっていたのだろう。ずるい言葉を持ちかけて私は、田舎からやってきた少年チャンピオンを確かに騙そうとしていた。

「ねえチャンピオン、私と付き合いましょう」

 優勝トロフィーを受け取ったばかりの彼が丸くしたのはトロフィーと同じ色の瞳。関係者席から見ていた彼は今、私のすぐ近く、それでいて同じ高さに立っている。間近で見た彼は輝いて見えて、私は必死に胸のドキドキを抑え込んで、強気に私は彼に近寄っていった。

「私、あなたのバトルが好き。スタジアムに立つあなたは最高だね」
「あ、ありがとう」
「あ、私はローズ委員長の姪、よ。って呼んで」
?」
「そうよ」

 声変わりする前の少年・ダンデが戸惑っている。だけどそれを尻目に私はまくし立てたのだ。

「あなたとそんなに年は変わらないけれど、あなたよりはリーグのこと、この世界のことは知ってる。……ダンデ、きっとあなたはこれからたくさんの女性も大人も近寄ってくる」

 そのダンデに近寄ってくる女性のうちの一人は私なのだけど。きっと彼は気づきやしないだろう。そう踏んで、私はさもそれが良い選択肢であるかのように言ったのだ。

「でもあなたの肩書きに寄ってくる人たち、全員私が蹴散らしてあげる! だからチャンピオン、今日から私があなたの恋人だから!」

 意外にダンデの話の飲み込みは早かった。もっと困らせるかと思いきやダンデは金の瞳を細めて、「ああ、よろしく、」と私と付き合うことを了承してくれたのだった。
 両手を上げて舞い上がりそうになった。そのままダンデに飛びつきたくもあった。だけど私は感情を押さえつけて右手を差し出すと、ダンデも手を差し出して、私たちは握手を交わした。
 あれは、心が通じ合ったもの同士の握手ではなかった。さながら契約が成立した、と言わんばかりの握手だった。





 私とは違う、純朴な男の子を下心に搦め捕ろうとした。その記憶は、今も私の胸を刺して痛みを知らしめるほどに、鮮烈だ。

 ローズ委員長の姪という肩書きは、意外に役にたつものだった。いや、ダンデのためだと思うと、途端に私は自分にあるカードの切り方を覚えて行ったのだ。
 ダンデの理解者を自称して、彼に手助けしてくれそうなリーグ関係者を紹介したり、逆に悪い噂を聞いた事がある人物からは距離をとるようダンデに助言をした。ダンデがリーグの厄介事に巻き込まれそうになったら、私は彼の味方を増やすために動いた。

 私はただのませた少女でしかなかったけれど、叔父の家柄の人間が新チャンピオンと交際することに、周囲はとても肯定的だった。お似合いだと褒めてもらうこともあった。そんな時、私はここぞとばかりに自分がダンデにふさわしい恋人だと周りに言いふらして、彼の恋人の座を埋め続けた。
 大人気のチャンピオンに対し、極力、彼の名を汚さない恋人であろうと努力を重ねた。人目があるところではダンデの側を離れなかったので、世間から私たちは仲の良い恋人同士に見えていたようだ。

 実際に、彼と喧嘩したことはなかった。私たちはいつも笑顔で会話できていた。気があったというよりも、私がダンデとの間に節度ある距離感を保って来たおかげで、私とダンデが意見をぶつけあうことは一度もなかっただけの話だ。それ以外の部分でも私はダンデに対しては盲目的に肯定ばかりしていたからか、私は彼の怒った顔だけは、見たことがないのだった。

 目の前の、特大に印刷されたダンデも、怒りとは真逆の、こちらを誘うような笑みを浮かべている。

「ほんと、良い顔してるわ」

 オフィスの壁に貼られたポスターの中で笑む、ダンデの虚像。本人には一度も言わなかったけど、私は彼のあごひげを最初は似合っていないと思っていた。だけどもう立派にダンデの魅力を引き立てるものになっている。
 10年前、私が詰め寄った田舎から来た少年は、今や唯一無二の魅力を放つ立派な男性になった。野性的で、情熱的で、だけどバトルは理知的で残酷なまでの自信に満ちている。そんなダンデをチャンピオンとしてじゃなく男性として心酔する人々も増えた。そんなチャンピオン・ダンデの美貌を余すことなく納めた、女性をターゲットにしたポスター。
 これに眉をしかめる資格は、今までもこれからも、私には無いのだろう。けれど私はぽつりと呟いた。

「もう、剥がせば良いのに」

 ダンデがチャンピオンの座を降りたのは、先々週のことだ。新たなチャンピオンに未来を託したダンデは、今は肩書きを持たぬ男になっている。
 ダンデが自身のバトルでない部分を取り上げられているポスターを許容していたのは、これも彼なりのガラル地方に対する貢献だからだ。私もそれにならって、グラビア仕事もこなずダンデに文句を言ったことはなかった。けれどもう彼はチャンピオンではない。彼の貢献がひとつの終わりを迎えたのなら、甘い顔をしたダンデのポスターなんて、どこかへ閉まって、二度と誰も見ないようになればいい。そんなこと考える自分へ肩をすくめていれば、後ろから話しかけられた。

「許可なく剥がせませんよ」

 振り返れば気優しい同僚が、未だ憧れの眼差しをポスターの中のダンデに送り、それから私へ視線を移す。

「だってさんの大切な恋人のポスターですから」
「これ、私への気遣いだったの? 別に良かったのに」
「そう言いながら、度々眺めてたじゃないですかぁ。ダンデさんはさんにとって10年以上寄り添ってきた大事なパートナーですもんね」

 パートナー、ね。また私は肩をすくめる。その言葉が内包するいくつかの意味のひとつには、確かに私たちは当てはまるかもしれない。

「確かに、もうすぐ人生の半分はダンデと過ごしてると思うと、驚くわね」

 ダンデを引っ掛けた当初は、こんなに関係が長続きするものだとは思っていなかった。チャンピオンとしてたくさんの人に出会う中で、もしかしたらダンデの心を射止める存在だって出て来る可能性はあった。ダンデが、この世界のやり方を覚えて、私が必要でなくなる可能性も考えていた。
 なのに、なんだかんだ気づけば結構な年月が過ぎている。素敵な10年だった、なんて振り返っていると同僚に興奮した様子で肩を叩かれた。

「っさん、さん!」
「な、何?」
「噂をすれば、ですよ!」

 急にテンションを上げた同僚が、にやけながらオフィスの窓の方へ私を向かせる。飛び込んで来た光景にはさすが驚いた。3階のオフィスの窓に、リザードンが姿を見せていたから。そして背中にはもちろんダンデがいる。
 ダンデがリザードンとともに、私を迎えに来たのだ。私が彼らに気づいたのを見て、深められた笑みが返ってきた。逃さないとでも言うように、まっすぐに私を見ているように思えた。

「……潮時というやつね」

 気づけばそう独り言が出ていた。わざわざダンデが私を迎えに来る。職場まで。よっぽど確実に私を捕まえたい用事があるのだろう。
 バタバタとした日々が過ぎていく中、私はいつかその時が来るだろうと思っていた。






 一字一句を覚えている、恋人になった時のこと。『ねえチャンピオン、私と付き合いましょう。私、あなたのバトルが好き』、そんな言い訳じみた告白をしたこと。思い返すたびに確信が強まっていく。あれはまるで契約だったなと。

 10年も関係が続けば当然、気づく。ダンデの中に強く存在する、私ではない女性に。
 私たちの間で、何も話すことがなくなってしまうと、ダンデは何度か故郷の幼馴染を褒めた。
 ポケモン博士の孫娘であること。ジムチャレンジ時代の、自分のライバルでもあったこと。方向音痴の自分をよく助けてくれたこと。しばらく会っていないが元気にしているだろうか。数回かもしれないとしても、その幼馴染の話は私の胸に深く残っている。彼の赤くはにかんだ笑顔と共に。
 優しい声色で彼女のことを語られて、私は例に漏れず笑顔で相づちを打ちながらそれを聞いた。だけど頷く度に私の恋心に自信を失っていった。その幼馴染に比べてしまうと、私の恋は不純に思えてならないのだ。だって好きになったのは彼がチャンピオンになったあと。彼が優勝を手にした姿に抱いたときめきは、まるで権威に恋をしたようで、違うと言い切れるほどの自信はない。
 私は何度も自分に問いかけている。彼がチャンピオンになっていなければ、私は彼を好きになっていたのだろうか。
 ローズ叔父さんにつながる私の血を羨む人はいた。だけど私はダンデの、なんでもない幼馴染に生まれたかった、なんて思うのだ。


 荷物をひっつかんで外に出ると、ダンデはやはりオフィスの出口で私を待ち構えていた。ダンデは開口一番に私の家に行きたがったけれど、本当に急に来られたので準備ができていない。気楽な食堂で先に夕飯を済ませて私たちは帰宅したのだった。
 スーツの上着を脱いで水を飲む。いつもならストッキングまで脱いで疲れた足を解放してあげるのだけど、ダンデの前だと乙女心が顔を出して、シャツのボタンを緩めるに止まっている。

 ソファに座り込んだダンデにもペットボトルの水を差し出したが、彼は沈黙して受け取らなかった。そして、食堂では当たり障りのない話しかしなかったくせに、家に来るとダンデは急に本題を切り出したのだった。

は、今後どうしていきたいんだ?」

 ダンデから予想していた通りの質問が飛んできて、笑ってしまいそうになった。だけどそれを押さえ込んで首をかしげる。

「どうって?」
「オレたちの関係についてだ」

 ダンデがチャンピオンになった瞬間から始まった関係だ。ダンデがチャンピオンでなくなった瞬間、またいつかこの関係を問い直す日がくることは、やはり必然のようだ。私は用意していた答えを彼へ差し出す。

「いいわよ、私は。あなたの好きにして。そうだ、私、あなたの秘書にでもなろうか? これからはリーグ委員会に関わっていくんでしょ? プレイベートと仕事を分けるのは得意だよ」
「……どうせ、そんなことを言うと思っていた」
「そう? あなたのことだし、そっちも答えはもう出てるのかな。で、どうするの?」

「何?」
「………」

 あの日の少年はどこにいったのだろう。私の名を象ったその響きは、誰かを従わせるような声色があった。ダンデの視線に射抜かれながら、私はおとなしくダンデの横に座った。

「キミはいつだってオレを放っておくな」
「そういうこともあるわね」
「ああ、ここ十年の話だ」

 ざわり、と心が荒れだす。なぜそんな皮肉で、責め立てられなければならないのだろう。今後について聞かれ、私はダンデのことを考えた末に言ったはずだ。ダンデの好きにして、と。言葉の通り好きにしてくれていいのに、ダンデはなぜだか自分の要求を言ってくれない。
 私は注意深く息を吐いた。

「当たり前じゃない。私、あなたには雑音を気にせずチャンピオンに専念して欲しかったんだもの」
「”あなた”じゃない、”ダンデ”だ」
「どうしたの、そんなことにこだわるなんて」
「そんなことじゃない」
「………」

 今夜のダンデは何かがおかしい。話しているだけで調子が狂わせられる。苛立ちで眉を釣り上げそうになった、けれどそれも抑えて微笑したのに、ダンデから浴びせられたのは冷水のようなそれだった。

「オレが好きなんて、嘘のくせに」
「……っ」

 たった一言に、様々な感情が吹き出してきた。いくらダンデでもそれを言う資格は無い。
 確かに私は何度も自分に問いかけている。彼がチャンピオンになっていなければ、私は彼を好きになっていたのか分からず、苦しんでいる。だけど私が費やして来た時間を、そうさせた気持ちを嘘だなんて言われたくはない。

「……ずっと、そう思ってたの?」
「………」
「私の気持ちなんて嘘だと、思ってたんだ」

 やはり、潮時だ。いつもなら押さえられていた怒りが、どうしようもなく湧き上がって来る。
 負け知らずのホープトレーナーが勝ち上がって来ている。噂は聞いていた。だけど私は実際にあなたをスタジアムで見て、一目惚れをした。あなたが好きで、せめてあなたの好きを守ってあげられたらと思って、生きて来たのに。感謝しろとは言わない、見返りだって求めていない。ただ、それを否定されるのだけは我慢ならない。

 ダンデと喧嘩したことはなかった。私とダンデが意見をぶつけあうことは一度もなかったから。私が節度ある距離を保ち、そしてダンデも、私の機嫌を損ねるような下手を絶対に言わなかったからでもある。仲違いを避けていたのはお互い様なのだ。
 だけど今、あっけなく入った亀裂。ダンデがこの空気感の中、微笑し続けているのも、もうこの関係を保たなければならない理由がお互いに無くなってしまった証拠だろう。

「ああ、いいな。一度くらいはキミを散々困らせて、の本気で怒った顔が見たかったんだ」
「じゃあこれで満足? 私、本気でイラついてるの」
「本当に、初めて怒った顔をみた。……そうだよな、無理して笑うメリットはもう、無いものな」

 確かに私は、叔父・ローズの人徳と権威を借りながら、精一杯ダンデとの契約を履行していった。だけど笑顔まで、感情まで損得勘定でやる女だと思われていたなんて心外だ。
 ギリギリとボトルを握りしめれば、ダンデはさらに笑って、嘆息までする。その様子がさらに私を煽る。

「あなたが窓辺に現れた瞬間から、今日は別れ話をするんだと思ってた。でももっと、笑顔で握手でもして別れられるものと思ってた。それなのに、なんなのあなたは」

 一緒になる大切な理由がひとつなくなった。だからと言って、関係全部が無くなってしまうわけではないことを心の拠り所にしてきた。だけど彼がチャンピオンでなくなった以上に、彼の嘲りが、私たちの芯のない関係を砕いて意味のない瓦礫にしていく。

「ダンデと呼んでくれ」

 一言、今までありがとうくらい、言ってくれたらいいのに。この後に及んで言うことがそれか。
 さっき、ダンデが一瞬、傷ついたような表情をしていたと思った。だけど、確かめることができないまま、全てが怒りに染まっていく。

「っ、もう出てって!」

 怒りのまま持っていたペットボトルをダンデに投げつけようとして、でも彼に当ててはいけないと床に投げつけた。何がしたいんだか分からない私に、ダンデは無言で立ち上がった。ダンデと呼んでくれ、なんて、意図が分かりかねるそれが彼と交わした最後の言葉になるかと思った。だけど家の扉をくぐる前、ダンデはもっと別の、最後の言葉をくれたのだった。

「愛していたよ、





 消沈していく感情の中、やつあたりをしたペットボトルを拾うのは今まで生きてきた上で一番虚しい作業だった。凹んだボトルの中の水を見ながら、ぽつりと呟く。

「愛していた、か……」

 愛していた。口に出しても、出さなくても、その言葉を何度もなぞってしまう。そうすると、私は不思議と胸がすく思いがするんのだ。
 愛していた、過去形だ。それでも途方もなく満足してしまう自分がそこにいた。そうか、愛はあったのか。

「そっか、良かった……」

 手の甲で拭った自分の涙は暖かい。これがきっと嬉しいの涙だからだろう。
 ダンデを失ってしまったことに、泣いているのではない。無いと思っていたものがあった。存在していた。だから、嬉しくて仕方がなくて、泣いているのだ。
 得体の知れない、抱えきれない、涙が止まらなくなる。なのに、不思議と言葉にしようとするとその感情には”嬉しい”のラベルが貼られていく。
 壊れた途端に吹き出して来る。ああ、私はちゃんと、ダンデが好きだったのだ。







 ダンデがバトルタワーのオーナーとして今もバトルの腕を振るっている。それを一部のポケモントレーナーしか知らないように、周囲のほとんどの人は私とダンデがどうなったかを知らないようだ。

 職場にあったダンデのポスターは、彼がバトルタワーオーナーとなった今でも同じ場所に貼られてある。チャンピオンのマントをはためかせる彼。誰よりも王座にふさわしかったのは彼であることに変わりはない。だが、私の方は変わってしまった。本当に、このポスターに文句をつける資格を失ってしまったのだ。
 10年、変わらなかった関係だ。周りが私とダンデの関係に変化がないと思い込んでいるのも無理はないだろう。

「10年だものね……」

 もう少しすれば、人生の半分以上をダンデと過ごしたことになっていた。彼に人生の終わりまで尽くしてあげたい気持ちが消えない。だからダンデと恋人でなくなったことを少しだけ残念だったなと思う。だけど同時に、よく続いたものだと感心していまう。
 きっと今も、変わっていないであろう姿へ笑いかける。ほとんど人生の半分を一緒に過ごした人物と喧嘩別れをしたくせに、私は不思議なくらい前向きだ。

 彼の10年間は最後まで美しく、未来へとバトンを渡して終わった。それに比べ、私の10年間の崩れ方ときたら。一回の喧嘩で跡形もなく崩れ去った。だけど、私は時に笑いながら生活をこなしている。
 案外平気な顔をしていられるのは、思い出のおかげだ。壊れてしまった関係、崩れた思い出の瓦礫をひとつひとつ拾い上げて見つめる。すると思い出のすべてには、ダンデが好きでしかなかった私がいる。

 そしてダンデは言ってくれた。愛していた。過去に向けられた言葉であっても、あの一言は今もしなやかに響いていて、私は不思議に凪いだ気持ちを運んでくる。愛はあったんだ。そう彼の言葉を反芻すれば私はようやく自分の気持ちの自信の無さから解かれて、あのダンデの幼馴染への遠い憧れも、不思議と薄れていくのだ。

 動かない彼の写真を見て、私はもう一度笑顔をもらって、ポスターの目の前を通り過ぎた。





 金曜日。週末らしい疲れを全身に感じつつも、仕事にやり残しはないかと考えながら歩いていたところだった。

さん!」

 同僚に声を抑えながら呼ばれた、と思いきや、強引に給湯室に押し込まれてしまった。彼女は私とダンデが別れたことを知っている数人、その一人だ。驚きながらも給湯室の奥に移動すると、彼女はさも深刻そうに言った。

さん、窓に彼が来てるけど、どうする?」
「彼?」
「ダンデさんですよ!」
「え……」

 驚いたのは少しだけ。ここでも私は不思議に穏やかな気持ちで、同僚へ安心させるように笑った。

「そうなんですね。私に用事がある様子なんですか?」
「ダンデさんが窓からうちにくる用事なんて、さんに決まってるじゃないですか!」

 本当にそうだろうか。苦笑いするものの、同僚は真剣だ。

「どうします? 席を外してるって私から言いましょうか?」
「大丈夫です。別に、私は平気です」
「本当ですか……?」
「はい。お気遣いをありがとうございます」

 ゆっくりと進み出れば、またも終業時刻を狙って、リザードンに乗ったダンデが窓からオフィスルームに影を落としている。
 今日の彼は私を見つけてもぴくりとも笑わない。リザードンの羽ばたきで舞い上がる長髪が少し恐ろしく見えるくらいだ。窓を開けるとダンデを荒ぶらせてる風が私のおでこにも吹き付けた。

「元気そうだな」
「そうだね。案外普通に過ごせてるわ」

 やっぱり彼を見ても、私には柔らかな気持ちがこみ上げるのみだった。



 もう彼を家に招くことはできない。ダンデもわかっていて、私を食事に誘うのみだった。私は二つ返事で了承した。
 付き合っていた頃、何回か行ったことのある気楽な食堂に入って、向かい合わせに座る。

 別れた相手とふと再会した時、……今回はダンデの側から会いにきたのだけれど、まあこういう時はお互いに、何もなかったように気楽なおしゃべりをするものだと思っていた。そうじゃないと気分が暗くなってやってられないものだと思っていたのに、目をあげると、やはり笑顔ひとつも浮かべないダンデがいる。

「何?」
「いや……」

 さっきからずっとこの調子だ。暗に私を責めているのかと思いきや、そうではなく、ダンデはただ一人顔を暗くしている。

「それで、今日はどうしたの?」
「………」
「リザードンに乗って直接窓に向かうのは迷子になりづらいけど、本当はあまりよくないやり方だものね。それを知ってて今日も使ったのなら、それなりの用事があったのよね」
「………」

 注文を済ませてメニューを閉じて、私がグラスを半分を飲んでもダンデは口を開けずにいる。
 これはもう少し世間話を続けた方が良かったかと話題を探し始めた頃。

「仕事である男と知り合って」

 そんな切り出しだった。

「君の両親から、君を結婚相手として勧められたと聞いた」
「へえ、そうなの。知らなかった」
「………」

 ダンデの俯き気味の暗い目は、私を疑っているように見え、跳ね返すように言った。

「そんな目をしなくても。本当に初耳だってば。うちの親も手が早いというか……。叔父があんなことになったから、もう貰い手がいないかと思ったけど。そうだったの……」

 あんなにもガラルの人々に尊敬されていた叔父が、ひとつの事件を境に今や行方知れずになってしまった。ガラルの一般市民をも危険に晒し、恐怖を与えた。叔父の罪は明らかなものだ。
 まだ叔父に尊敬を寄せる人はいる。けれど事件以降、手のひらを返して来た人が存在するのもまた事実だ。こんな状況で私はダンデとも別れてしまった。だからこそ、両親も焦っているのだろう。

「ダンデ、驚くわね。それに私に婚約の順番待ちの列があったなんて」
「乗り気、なのか?」
「ダンデはどう思う?」
「キミを悪く言うつもりはないんだが、その……。オレに十年付き合ってくれたキミだからな」
「それって……、どういう意味?」
「望んだ相手と幸せになって欲しいと思うだけだ」

 ずっと緊張したような面持ちだったダンデが、ふと、表情を崩した。ようやく少し明るい顔が見られた。それが嬉しくって、にやけそうになってしまう。
 言いようもなく嬉しい、けれどにやけ顔自体は見られたいものではない。こみ上げる表情を隠そうと、私は考えなしに思い浮かんだことを口走っていた。

「結婚なんて、考えたことなかったなぁ」

 周りからその話をされたことは何度もあった。だけど向き合ったことはなかった。多分、ずっと、楽しかったからだ。夢中になれるものがあった。それで満足だった。
 私が夢中になっていたもの、それは言うまでもなくダンデである。彼に心奪われて、私は自分自身を山ほどおろそかにしたものだ。

 そんなこと、ダンデ自身は知りもしないのだろう。「そうか」と、そっけない返事もその私に対する興味のなさの現れだと思った。
 けれどダンデは私の予想もしていなかったことを喋り始めた。

「……本当はあの日、キミに笑って未来の話をしてもらいたかった。気晴らしに二人で旅行でも行こうだとか、そんな話を聞きたかった。オレは、できれば結婚の話をしたかった」

 ダンデから結婚の言葉が出て、かすかに心がざわつく。願望としか言えないものが、ぽっと胸の中で姿を表す。でもそれを持ち続けるなんてことはできない。

「気を遣わなくてもいいのに」

 私はダンデの助けになりたいとは思って行動していた。だけど見返りを求めたことはない。
 ただダンデの言葉に、愛していた、は本当だったのだなぁと遠く感じる。
 ダンデが私たちの過去にくれる言葉は全て優しいものだ。“愛していた”も同じだった。ダンデが楽しかったと感じてくれていた。なんて嬉しい話だろう。あの夜みたいに嬉しさがじんわりとこみ上げてきて、私の胸を脆くさせる。

「気を遣う、そうきたか……。オレが思いやりで結婚を考えると思うのか?」
「え……? だってもう、終わった話だと思って」
「なるほどな。あっという間に過去にしてしまうんだな」

 思わず眉が寄った。
 さっきから私とダンデの会話がどうにも噛み合わない。なんとか彼の言うことを理解しようと追いかけるのだけど、時間が経つごとにさらに話が噛み合わなくなっていく。
 困っているのは私なのに、ダンデの方も眉根を寄せていて、そして大きくため息まで吐いた。

「いや……、今日は何かを期待して来たわけじゃないんだ。実際、オレはにとってもう思い出になりかかっているようだしな。だが、何もしないでは終われない。そう思ってしまった。迷惑をかけてすまないが、聞いてほしいことがある」

 ダンデはまた深いため息をついた。目は歪んでいた。

「……なんて、言うべきか」

 ぎこちなく笑んでいたダンデだった。けれど彼は空気の握り方を知っている男だ。
 すっ、と真剣さを顔におろし、金の瞳が私を射抜く。

「なあ、。オレと付き合おう。オレがいなくなって、キミは晴れて自由だ。きっとキミにはこれからたくさんの男性が近寄ってくる。肩書きにしろ能力にしろ、仕草ひとつとっても、キミは魅力的だからな。寄ってくる男たち、全部オレが蹴散らしたいんだ」

 聞いている途中、はた、と気がついた。それは私が初めて会ったダンデに言い放った言葉、罪を知った言葉たちによく似ている。

「……覚えてたの」
こそ」
「わ、私はともかく。ダンデはなんでそんなくだらないこと」
「くだらないことじゃないさ」

 私はダンデと改めて顔を合わせたことを後悔し始めていた。あんなに穏やかでいられた心の水面に、ひとつ、またひとつと硬い小石を落とされていくようだ。話せば話すほど、波紋が幾重にも広がって、思い出す。彼への気持ちに好きと不安が同居していたことと、胸の痛みを。

、返事をくれないか」
「え?」

 まずい、思いっきり聞き返してしまった。私が昔彼に向けた言葉を覚えていたことが、一番に気になってしまったけれど、内容だけをよくよく辿れば、付き合おうだとか、言われていた、ような。

「今のって、その、そういう意味だよね……?」
「オレは本気だぜ」
「あ、う、わかってるわよ。でも……、なぜ?」

 顔を伺いつつ率直に聞いてみると、ダンデはわずかに眉をあげた。少し空気もまずい気もするけれど、疑問はとめることができない。
 だって、ダンデは、ダンデにはもう。事実を思い返すとまた喉の奥が締まるような心地がした。そしてそれは、言葉を続ける毎に増していった。 

「叔父はもういない、私があなたにしてあげられることも数えるほどしかないわ。付き合う意味はあまり無いように思うけれど」
「そんなのキミが好きだからに決まっている」
「え、……」
こそ、チャンピオンじゃないオレは尽くしがいがないかもしれない。でもオレはがいいんだ」

 何かの間違いが思っている。そうとしか考えられずに固まってる私にダンデは「そこまで驚いた顔も初めて見た」と言う。その言い方が冗談めかしているのに、さも愛おしげに、恋人に囁くようなのだ。私はさらに混乱に陥っていく。

「物覚えは元から悪くない方だが、に関してのことならオレは律儀に覚えているんだ。キミはオレのバトルが好きだと言った。妖精みたいな見た目でビジネスマンみたいなことを言いながらだ。でも一度も、オレを好きだと言ってくれたことはなかった」
「そう、だっけ……」
「デートに誘っても、は時間がもったいないと言って逃げる」
「それはちゃんと理由があって、伝えたはずだけど」
「ああ、”オレの時間”が勿体無いって言うんだろう。それも全て覚えている。そんなキミにオレは、いつも放っておかれる気分になっていた」
「………」

 ダンデのために色々することに夢中になって、それだけで満足していた。そんな私には、ダンデの言葉は信じようと思ってもうまく体に染み込んで行かない。混乱しながらもかろうじて返事を繋いでいたのに、思わず言葉が途切れたのは向かいに座るダンデが、一番彼らしくない表情を浮かべているからだ。

「ご、ごめんなさい。なんだか言われたことがすぐには信じられ、なくて……」
「やっぱり、だめか」
「そ、そうじゃなくて。びっくりしていたの。どうして今まで自分の気持ちを言わなかったんだろうと思って……」

 私はダンデが大好きだった。彼がただの男であるかどうかなんて関係なく、今も好きでたまらない。なのに、それを伝えたいと思うことはなかった。

 私たちは付き合っていたはずだ。周りは私たちをお似合いだとも褒めてくれたりしていた。なのに目の前のダンデにその誇りはかけらも見られない。ダンデは言っていた。今日は何かを期待して来たわけじゃない。その言葉の通りに、言うだけを言った罪悪感を身に受けている。
 落ち着いた様子で自分の勝ちを信じていない。そんな姿の彼が、ただひとり、私だけを見ている。どうしてかだか気づかなかった、私を一心に映し出す金の瞳が濡れている。それに気づくと湧き立つように苦しさがこみ上げて、出した声はかすれた、頼りないものだった。

「いろんなものをかなぐり捨てて私から捕まえに行ったんだもの、大好きに決まってるのに」
「……本当なのか?」

 かすれた声でもダンデは聞き逃さなかったらしい。目を見開く彼に、私は何度も頷いた。自分の中では絶対的だった、けれどダンデには教えてこなかった事実を、彼に信じて欲しくて私は頷きを重ねた。

「し、知らなかったの。私が一緒にいることは、ダンデにとって意味があることだったなんて、知らなかった。思ったこともなかった。私があなたの、ダンデの隣にいていいだなんて」
「……オレも知らなかった、キミは泣く時、そんなに大きな涙をこぼすんだな」

 ダンデに言われて手の甲を目に寄せると、それをすり抜けて涙が服の上に落ちた。また”嬉しい”の涙が、自分の意思の手を離れて流れ出していた。

「ご、ごめんなさい!」
のこと、泣かせてもみたかった。だけどいざとなると苦しくて、心が潰れそうになるな」
「待っ、て。これは、嬉しくて泣いてるの。私なんかの告白で、ダンデが安心したように見え、て……っ」
……」
「ごめ、なさい、いろんなことをちゃんと伝えたいと思ってるのに」

 喧嘩もしたことはなかったけれど、こんなにぼろぼろの顔を見せたこともなかった。涙を止められない私を見て、差し伸べてくれたダンデの手のひらを、テーブルクロスの上に捕まえる。大きくて暖かい。ごつごつした部分もあるけれど、思ったよりも柔らかい。今までずっと、触りたければ触ることのできたダンデ。だけど改めて手を繋ぐとじんと痺れが体に走った。
 だけど何よりも、彼が安心したように目を伏せたのが、私に幸せな苦しさをもたらす。

「ダンデ。私が横にいることがあなたの幸せになりそうだと、少しでも思えるなら、私を横に置いていて」

 限界を感じながら必死でたぐり寄せ、言葉を選び切った瞬間、ぱちりとパズルのピースがハマったような心地がした。
 余計なものを取り除いてようやく見えた、ずっと私が言いたかったシンプルなこと。多分、それだった。

 少しでもいいから、私が隣にいていいと思って欲しい。思えたのなら、隣にいることを許して欲しい。
 いじっぱりでみえっぱりで、他人の力を借りて振りかざした少女の私が、あの日少年に向けた本当の祈り。私が横にいることがあなたの幸せになりそうだと、少しでも思えるなら、私を横に置いてい。ダンデはチャンピオンで、私は背伸びをした女の子だったせいで、少し曲がってしまったけれど、ずっと願い続けていたことにようやく言葉がついたのだ。

が横にいてくれるだけでオレは空も飛べそうなくらい、嬉しいぜ!」

 そう言ったダンデの表情は眩しかった。ずっと、私と同じ、愛されないことが当たり前の世界に生きていたとは思えない笑顔に過去を解かれて、私はもう一度、シンプルすぎる言葉で伝えた。私もダンデがだいすき、と。






(リクエスト内容は「押して無理矢理付き合ったから自分のことそんなに好きじゃないんじゃないかと悩む主人公と最初は押され負けで付き合ったのにいつのにか主人公よりも自分のほうがすきになってしまっているダンデのもだもだすれ違いからのハピエン話」でした! もっと明るく、大好きになってしまったダンデさんのもだもだも書きたかったけどこうなってしまいました……! リクエストありがとうございました!)