ある日、私に新しく帰る場所、新しいお父さんお母さんができた。この前、施設を見学に来た夫婦が意外にも私を気に入ったとのことだった。
旅立つ日、施設のみんなが私がいなくなることを、あまりにも幸せなことのように祝福してくれた。なので私も「これは幸せなこと」なんだと思って、泣いたりもした。
けれど今、その祝福が呪いのように私を縛る。私は幸せになったのだ、だから施設に帰りたいと思うなんておかしい。その証拠に施設にいた頃に思い出すと、つきんと胸が痛む。痛みを覚えながら一番思い出してしまうのは彼だ。
同室だった男の子。私が彼に別れを告げようとしても背を向けて走っていって、さようならを言わせてくれなかった、癖っ毛の男の子。誰もが祝ってくれる中、そこにはいてくれなかったビートくん。最後までひねくれ者だったビートくんが、消えてくれないのだ。
「……た、ただいまー」
「おかえりなさい、ちゃん。カバンを片付けたら手を洗ってらっしゃい。今日はドーナッツを買ってあるから、一緒に食べましょ!」
「は、はい」
まだ慣れないことも多少はあるけれど、今の私は幸せなのだと思う。エンジンシティの住宅街エリアに建つ綺麗なおうち。帰れば「おかえり」と言ってくれる人がいて、しかも自分だけの部屋がある。この後、おやつのドーナッツだって、誰にも分けず、一人で食べて良い。
施設にいた頃は、一人部屋なんてありえなかった。夜寝る時、朝起きる時、そこにはビートくんがいた。ビートくんは私の本棚をいつもバカにしていたな。どの本もポケモンの絵がたっぷりなことを「姿形を知るだけで満足してるなんてありえませんね」とあざ笑っていた。
新しい家族は、二人ともが暖かく、優しく、いい人としか言いようのない人々で、私がいつか自分のポケモンと一緒に暮らして見たいというと、まずはポケモンのことをよく知りなさいと真剣に向き合ってくれてたりして、ゆっくりと時間をかけて付き合おうとしてくれている。
私が施設暮らしの孤児だったと知らない友達も増えた。胸の痛み、それから遠くなりつつある記憶を誰にも語る時間がなくて”施設育ちの”は音も立てずに色褪せていく。まるで私は最初からエンジンシティ外れに住んでいたというごく普通の女の子だったように錯覚しそうになる。
だけどひっかかる、クリーム色の癖っ毛、後頭部のつむじ。
ビートくんと私は家族でも兄弟でも無い。同じ部屋にただお互いしかいなかったから、他に選べなかったから、言葉をかわしたり、他の子供たちよりちょっとだけ多く気を許していただけ。
けれど私は他の子供よりもちょっぴり特別な自分を喜んでいた。私はあの子に必要とされている。そんな勘違いが心の拠り所だった。今のビートくんは、どれくらい私のことを思い出してくれているだろうか。
小さく息を吐いてからリビングに戻るとテレビがついていて、”お母さん”が興奮気味に声を上げる。
「ちゃん、今いいところよ! ファイナルトーナメント戦に乱入者だって!」
「あ……」
光る画面の中。歓声沸き立つシュートスタジアム。その中央に立っていたのは、見慣れたしかめっ面をしたビートくんだった。私を拒絶するようだった背中を見せていたあの男の子は、次の瞬間には誇りに胸を張った。瞳を輝かせた。
『ぼくの ハートは 砕けてなんか いないんだ!』
ビートくんの微笑と共に始まったバトルが、全ての人たちの心を巻き込んでいく。
遠い遠いスタジアムの中に、私の中の感覚が飛んで行って、目まぐるしい嵐のような一瞬をくぐり抜けて、そしてビートくんのブリムオンが倒れた時。まるで別人。ビートくんは私を忘れていないはずと信じる、なけなしの自信が、粉々に砕けて、私はようやくビートくんを忘れなきゃいけないことを悟ったのだった。
エンジンシティ外れに住むごく普通の。それがそれらしいものになっていく。世間はもうビートくんのことを、ビート選手と呼ぶより、ジムリーダーと表記する。
意識しなくても、テレビが、雑誌が、ポスターが、リーグカードが、人々の噂が私の記憶をどんどん塗りつぶしていく。まぶたの裏に焼き付いていたはずのしかめっ面を、きりりとした光が上書きしていくのだ。
忘れようと思ったし、このまま忘れちゃうんだなと思っていた。その男の子がなぜ私の家の前に立っているのだろう。
「……おかえりなさい」
私を見つけてそう言ったビートくんは、肩の力の抜けた、今まで見たことのない表情をしていた。
「ビートくん」
「ええ」
「……本物?」
信じられない気持ちで聞くと、口がへの字に曲げてしかめっ面をする。それが返事で、答え合わせにもなった。目の前の男の子は本物のビートくんだ。
「ひ、久しぶり」
「ええ」
「えっと、うち、入ってく? “お母さん”ならいると思う」
「いやですよ、あなたの家なんて」
「そう……」
いや、とは随分はっきり拒絶されてしまった。今は私、ここの家の子なのに。仕方なく立ち尽くして、私はビートくんをそろそろと見あげた。少し背が伸びた、ような? きっと気のせいじゃない。顔つきも。頬の丸みはもう随分なくなってしまった。代わりに鼻筋の綺麗さが、以前より目立っている。けれどまつげの長さはそのままだ。
ビートくんも私を見ていた。髪型、着るもの、持っているものは変わったかもしれないけれど、胸を張れるものもは何もない。恥ずかしくて困ってしまう。
「は、ポケモントレーナーとしてのぼくを知っていますよね」
「え?」
「ジムリーダーですよ? ぼくがアラベスクタウンにいるって、わかってますよね」
疑問形じゃなく、ほとんど言い切るビートくん。気の強さは変わってないみたいだ。それがちょっとおもしろくて、私は笑いながら返事をした。
「うん、今は知ってるよ」
「今は?」
「最初は全然知らなかったから。ビートくんがポケモントレーナーになって、ジムチャレンジしてたことも」
そう素直に打ち明けると、ビートくんはムッと口を曲げてしまった。器用に眉毛も吊り上がる。それがまた、私の知る、同室のビートくんで私の気がますます緩んでしまう。
「今は知らないわけないよ、ビートくんはもう有名で……。あ、リーグカードも見たよ。かっこよくて、びっくりしちゃった」
かっこよすぎて、まるで別人みたいに感じてしまった。けれどその部分は伏せて伝える。
「じゃあどうしてぼくに会いに来てくれないんです?」
「え……」
「ぼくはあなたの家族では、なかったんですか」
「っええ!?」
手に何も持っていなくてよかった。驚いて、放り投げてしまうところだった。
確かに私はそんなことを言った。普通の子供が持っていて、だけど私たちには無いものに焦がれて、ビートくんを、誰よりも自分を慰めるために家族という言葉をなぞったことはある。それを忘れてたわけじゃない。まさかビートくんが覚えているとは思わなかった。
「ビ、ビートくん、私がそういうこと言うといつもバカにして笑ってたじゃない……!」
「それは……。本当は有名になって、あなたをぎゃふんと言わせてやろうと思っていたのですが」
「ぎゃ、ぎゃふん……?」
「ぼくを置いていったことを、泣くほど後悔させてやろうと」
後悔ならしている。ぎゃふんとは言ってないけれど、みんなが祝福する道へと流れていって、失ってからビートくんから離れる寂しさに気づいた。気づくのが遅い自分に何度だって落ち込んだ。
「……新しい家族はどうですか」
良い人たちだよと返事をしようとしたのに、それを遮ってビートくんは語った。
「ぼくは今はそこそこ幸せ、なんだと思います。アラベスクジムには居場所があって、目標があって、ポケモンたちがいて。ピンクを極めたい、その望みははるか遠いのですが、だからこそ周りの人たちと一緒に目指そうと思えて」
「………」
「これを多分、幸せと呼ぶんでしょうね」
ビートくんの近況を、本人の口から聞けば、私はもっと傷つくものと思っていた。ポケモンバトルの才能があったことで、ビートくんは私なんか必要としないきらきらとした世界に行ってしまった。それを本人の口から聞くのが怖かった。けれど今、思ったより寂しくない。
ビートくんはまだ、思ったより私の近いところに立っているようだ。
「その自信のなさ、わかるなぁ」
「わかりますか」
「うん……」
私はいま、幸せなんだと思う。新しい家族に巡り会えて、以前よりずっと恵まれてる。けれどそれを、どう受け止めていいのかわからないのだ。急に手に宝石を握らされて、その輝きに、美しさに目を奪われる。なのに、その宝石を持っているのが次第に怖くなってきて、なぜ自分が持っているかもわからなくなって、とにかく一度どこかに置かせてもらいたくなってしまう。そんな感じだ。
「ぼくはようやく、ぼくの知らない遠くの場所でがぼくを忘れるくらい幸せでもいいと、思えるようになりましたよ」
「ええ。ビートくん、ひどいなぁ」
「じゃあは平気なんですか?」
「え、何が?」
ビートくんがじわじわと声の熱量をあげていく。それを聞きながら私は全然別のことを考えてしまっていた。やっぱりビートくん、背が伸びた。顔が近づくと、そのことがよくわかる。
「一番近かったひとが、自分を置いて新しい世界に行ってしまって、そこで自分のこと忘れてたらって思ったら、普通は来られませんよ? 尻込みしますよ? それでもちゃんとぼくは来ましたよ!?」
「!」
「ぼくはガラル中、あなたをずっと探してたんですよ?」
「そ、そう言われても……」
「はぁ!?」
「私も。ビートくんのこと忘れたことなかったし、ずっと探してたから……」
私の一言で、ビートくんは黙ってしまった。喋るのをやめたのではなくて、何かを喋ろうとして口をパクパクしている。ついでに言うとその顔は真っ赤でパンクしそうだ。
「ビートくん大丈夫? 顔、真っ赤だよ?」
「そういうあなたもオクタンみたいですけど!?」
「うん、そうかも……」
自分の顔が赤いこと、顔だけじゃなく全身が熱いことは自分でもわかっている。
いっぱいいっぱいになるに決まっている。だってビートくんは、たとえ私がビートくんのことを忘れてたって構わないと思うくらい強く、会いたいと望んでくれたのだ。
他の幸せと同じように、私には不釣り合いかもしれない。けれどビートくんは言うなれば、もう一度握り締められるなら次は手放したく無いと願っていた宝石だ。
「じゃあビートくんが大人になっても気持ちが変わってなかったら、ほんとの家族に、なる……?」
プロポーズみたいなことを言ってしまった。ほとんど結婚を約束する言葉なのに、ビートくんは表情を歪めて言う。
「……気持ち、変わりませんから。絶対に」
ビートくんの赤く歪んだ顔はちょっぴり怖くって、だけどその分、強く私に刺さった。私の後ろで爆発が起こったかも。そう思わせるくらい胸がいっぱいいっぱいだ。
(「ビートくんのお話読んでみたいです!」とのことでした、リクエストありがとうございました!)