私の兄は天性のドジ体質だ。お人好しなので許されているところがあるけれど、圧倒的マヌケだ。相棒のバッフロンを連れて、バトルも私に勝てたことないくらいなのに、旅に出てしまった。そんな兄から連絡が来るときは私は思わず貯金の残高を確認する。なぜなら大体が旅先でトラブルを起こした末の金の無心であるから。
 例えばお店のガラスを割ってしまった、転んで骨を折ってしまった、バッフロンを強くしてくれるという詐欺にかかってしまった。詐欺の件は正直知るか、と思ったがお店への弁償はしなくてはならないし、一応身内の怪我と聞くと心配になってしまう。いつかお金は返す、と言う兄の言葉を、気持ち半分で信じて、結局私は何度かお金を送っている。

 兄にお金を送る。それは私の人生でたまに起こる厄介なイベントだ。ただ今回は、私自身もやらかしてしまった。
 入金してから気づいたのだ。

『これ、他の支払い含めたら来月の家賃払えなくない……?』

 少し遅れて来た支払い請求。家賃、生活費、ポケモンたちだって養わなければならない。
 しかも一ヶ月乗り切れば、という話ではない。多分、再来月までは厳しい状況が続く。先々月に続けて高い買い物をした自分のばかやろう。

 バトルで勝って勝って勝ちまくって賞金を得たとしても、家賃が重い。勝てなければ家を引き払ってキャンプ生活もやむなしだ。いいだろうキャンプ生活、私だってジム巡りをこなしたポケモントレーナーだ、家がないくらいどうってことない。そう覚悟を決めたとき、悪友のキバナが言った。

「オレさまの家にしばらく住めば?」

 さらりとした、小雨が晴れ上がっていくみたいな声で、一瞬脊髄反射で「いいじゃん」と言いそうになった。いや待て、良くない。

「キ、キバナさぁ……。話、聞いてた?」
「ああ。生活費がヤベーから、賞金ありのバトルに専念しないとやばいんだろ」
「そうそう」
「だから、オレさまとはしばらくバトルもしねえ、と」

 なんだキバナ、話わかってるじゃないか。そういうことだ。
 長い付き合いのキバナと私は、バトルを通したお金のやりとりはほとんどしていない。私とキバナはお互いのバトル研究のために一日に何度も手合わせしたりする。あえて片方に不利な縛りルールを加えた上でのバトルも私とキバナの定番だ。なので、いちいちお金の受け渡しするのが正直面倒なのだ。
 キバナとのバトルは楽しいし、時には夕食のおごりを賭けたりして、お互いにこの関係に満足していた。
 でも私は今や生活が危ぶまれるような事態になってしまった。

「オレさまの家、広いぜ?」
「スペースを問題にしてるわけじゃないんだけどな……。ほんとに、いいの?」
「家賃に充ててる分を数ヶ月貯めたら、すぐに余裕出るだろ。今回のことは兄貴のドジのせいで、オマエの責任じゃないんだろ? そういう不運の時は頼れるヤツを頼ればいいんだよ」
「キバナ……」

 テント暮らしは可能だ、旅した中で経験したこともある。でも小さな部屋でも雨風しのげる方が安心安全なのは確かだ。
 お金が浮くのもありがたい。いくらバトルで稼ぐつもりでも勝ち続けなければいけないプレッシャーもある。ポケモンたちにも負担がかかってしまう。
 しかも相手は気心の知れたキバナだ。頼っても、甘えても、いいのだろうか。

「まぁ、とりあえず部屋見に来いよ」

 緩みかけた心に、キバナのゆるさのある笑みがするりと入り込む。

「……、うん」

 そうして私は、易き方へと流れてしまったのだ。



 私がやらかしてしまったことを打ち明けたその日のうちに、キバナは優しく手を差し伸べてくれた。家まで案内してくれ、本当に広かった上に景色のいいマンションの一室を「好きにしていいぜ」と私に貸してくれた。賃貸の契約もちょうど区切りよかったので、そのままポケモンたちの力を借りて引っ越しもさせてもらった。

 キバナの部屋に居候させてもらうのは、最初は楽しいことばかりだった。
 まず、寝ても覚めてもポケモンの話やバトルの話ができた。キバナの家にはバトルビデオや、ポケモンの生態をまとめた本もしっかり揃っていたので、トレーナーとしてもお得な気分になった。
 それにポケモントレーナーのトップを走るキバナのポケモンに対するケアの様子を間近で見て、知ることができるのだ。やっぱりトップジムリーダーは意識から違うと、とても良い刺激ももらえた。

 ポケモン以外のことなら、一緒に夕食をテイクアウトして帰るのも楽しかった。キバナに貸してもらったシャワージェルがいい香りなので自分も使おうかとネットで見たらお値段に目が飛び出たりもした。一緒に出かけるときには、キバナが「これ、絶対似合うから」とキャップを貸してくれたりする。それがまた自分では決して選べないようなデザインなのに、不思議とキバナの言葉通りにしっくりと似合うのだ。

「気に入った、って顔してるな」

 鏡の中の自分に驚いているとキバナがキャップの上から私の頭に手を乗せ言ったのだ。

「オマエにやるよ。オレさまからのプレゼントだ」

 嬉しすぎるのと、気持ちを見透かされた恥ずかしさが同時にやってきて、言葉に詰まってしまった。そんな私をキバナは心底面白そうに、大きな口を開けてしばらく笑っていた。

 キバナは私の友人でありながらトップジムリーダーだ。常にトップを走るストイックな彼と一緒に暮らすなんて、息苦しくないだろうか。私が足を引っ張ってしまうのではないかと不安だったが、それは全くの杞憂に終わった。
 自分が重大な金欠だという危機的状況を忘れそうになるくらい、毎日が楽しかった。気安く笑うキバナに、一介のポケモントレーナーとしてはキバナとは相当仲良くさせてもらっていると思っていた。けれどそれ以上の世界を、私は見させてもらったのだ。


「ん……」

 夢のような日々から、ポケモンの鳴き声で目を覚ました。上に広がるのは、キバナの家の天井、ではなくアウトドアに適したテントの布地だ。布地の向こうはもうすっかり明るい。朝だ。
 私を守るように一晩中寄り添ってくれていたオンバーンを挨拶がわりに撫でると、彼は目を細めた。

 キバナは優しく手を差し伸べてくれた。だけど今、私は生活の半分をテントの中で暮らしている。二日に1回、だいたい週に4回はキャンプに出ているだろうか。

 言っておくと、キバナのせいではない。彼に落ち度はない。彼は悪くないのだけれど。
 原因はやっぱりキバナだ。正確に言うと、キバナがモテすぎるせいである。

 メディアでチャンピオンダンデと同じかそれ以上に注目されているキバナは、ちょくちょく浮いた話が流れるのだ。誰それがキバナと付き合ってるとか、あの女性芸能人もキバナに夢中だとか、そんな噂が絶えない。というか、美人と並んでるとすぐ熱愛だなんだと噂が立つ。隣に並ぶ美人がだいたいキバナに対し、うっとりとした甘いオーラを出すせいでもある。写真を見ればすぐにわかってしまう。ああこの美人も、キバナい惚れてるんだろうなぁ、と。

 流れの速い雲を見送りながら、小さな池の水で顔を洗う。自然に流れる水は大体かなりの冷たさで、洗顔後はかなりさっぱりするものの、正直お湯が恋しくなる。

「綺麗な人だったなぁ……」

 同じ同性でも好きになってしまいそうな可愛い人もいた。それに比べ不意に水面に映る私ときたら。平々凡々とはこのことだるか。思わずため息が出た。

 キバナがモテまくるのは前からだ。いろんな噂が立つのも、前からだ。別にそれはいい。バトルの実力があって、スタジアムで死闘を繰り広げるキバナとキバナたちのポケモンは文句なしにかっこいい。ポケモントレーナーのプロ中のプロでありながら、キバナは自分がどう見られるかにもこだわっている。周りに人が寄ってきて当然だ。
 それを友人の立ち位置から遠巻きに眺めている分には、大変そうだなぁ、でも好調だなぁと軽く流すことができた。だけど、居候として噂を知ってしまうと、まるで見える世界が違うのだ。

 まず、キバナの生活が見えているせいで、事実無根の記事はすぐに分かる。そして同じように、ああこの噂は確かにキバナのスケジュールと一致する、なんて気づくこともあった。そんなストーカーじみた自分の思考にも辟易しながらも、次第に私は、もう一つの事実に思い至った。


(私が家にいるせいで、キバナは気になる女性を家に連れ込めないのでは?)


 いくつかの噂を浴びる中で、私は気づいてしまったのだ。自分がキバナの邪魔になっているかもしれない。それから私は次第に生まれる居心地の悪さ。特に夜は、キバナの家にいることがどうしてもできなくなってしまった。
 帰って、恐る恐るドアを開けて、そこにキバナと彼のポケモンたちしかいないことに安堵する。もしくは帰ってくるキバナの隣に誰もいないことに胸を撫で下ろす。そんな生活から私は現在進行形で逃げ出しているのだ。

「今日はさすがに帰らないとなぁ……」

 またもため息が漏れる。深い深いため息が。

 迷惑かけているなんてことは最初からわかっていた。プライベート空間に入り込んで、一室を占拠してるのだ。楽しかったけれど迷惑をかけていることに違いはない。だけど、私が気づいてしまったことはもうひとつある。
 キバナ本人に、噂の真相を聞けない、聞こうと思えない。むしろキバナの口から女性の名前が出るのではないかと恐れている。そんな自分の心の動きで、ようやく自覚した。私もキバナを友人と呼びながら、彼に対して下心があったのだ、と。

 私が勘ぐっているだけで、今のところキバナの口から女性の名前は出ていない。けれど、意識しだしてしまってからはキバナと顔を合わせるもの気まずい。何よりも、私が平気なふりする自信がない。

 本音はあまり帰りたくない。だけど、先週、キャンプで二連泊して帰った日のこと。キバナは意外なことに心配性を発揮して、かなりしつこく迫られた。誰かの家に泊まったのか? 本当にキャンプしていたのか? キャンプするにしても本当に一人だったのか、などなど。
 一人でリフレッシュするためのキャンプだったと何度も説明したものの、納得してもらうまでにかなりの時間がかかって、正直くたくたに疲れさせられた。

 あの部屋に帰るのは気まずい。でもあまり空けすぎるのもよくない。それに、あたたかなお湯のシャワーも浴びたいし。

「はぁあ……」

 もうひとつ大きなため息を吐いてから、私は覚悟を決めたのだった。





!」

 泊まらないため息を吐きながら、帰路を辿る途中、意外すぎる人物が私を引き止めた。
 ある意味、諸悪の根源。天性のドジで私を振り回す男、バッフロンを携えて立つ兄であった。

「お、お兄ちゃん……」

 兄は、骨を折ったという報告の通り左の手を吊っている。ギブスがなかなか痛々しいものの、そのギブスがすでにかなり汚れているのがなんとも兄らしい。

「良かった、ちょうどお前に会えて……!」
「何? もうお金は貸せないよ?」

 怪我については同情するけれど、私は思わず身構える。兄にお金を貸したことは一度や二度じゃない。長年友人だったキバナとも関係がギクシャクしつつあるのも、大元はこの兄のドジのせいだ。

「ち、違う! むしろお前にお金を返しに来たんだ!」
「本当に? そんなすぐ返せるような額じゃなかったし、信じられないけど」
、すまん! 実はお前に間違えて振込金額伝えてた! とりあえず1万ちょいあれば初診料も払えるだろうってことで借りようと思ったら、桁間違えて、お前に”15万”って伝えてたわ……」
「え……!?」

 慌ててスマホを見返す。やはり『150000円ほどかかりそうだ』とのログが残っている。どうやらゼロをひとつ多く私に伝えてしまったらしい。
 ば、バカ兄め……。私が家を引き払い、顔を青くしていたのはなんだったんだろうか。へなへなと崩れ落ちそうになる。

「信じられない……、どうしてそこ間違えるかな……!?」
「いやオレもマジで15万振り込まれてるからびびったわ……。よくそんなお金あったな……」
「なんだよ! もう! 心配した気持ちと金返せ!!」

 私がスネに蹴りを入れながら涙目で訴えれば、兄も「悪かったよ」とさすがに反省した様子だ。

は今、時間あるか? お金を下ろしてくる。それでお前に返したい」
「わかった。正直困ってるから、お願いする……」
「よしわかった、待ってろ!」

 バッフロンを駆け出した兄を見送る。一人になるとまた体から力が抜けて、へなへなと近くの壁にもたれかかった。

「よかっ、た……」

 私の中で二つの安堵が広がっていた。一つはお金の心配から解放されそうなこと。もう一つは、これでキバナの家を出られる、ということだ。戻ってきたお金と今日まで節約していた貯めていたお金とがあれば、充分だ。今夜にでもキバナに、顛末を伝えて、また部屋を借り直そう。また週の半分はキャンプにでかければ、やり過ごせるだろう。

 ちょっぴり泣きそうになる。キバナとの生活は苦しくもあった。でも楽しかったな。いつまでも続けばいいなと思った瞬間が、何度もあった。なのに、そうはいかない。これ以上苦しさを知る前に、私は元のポジションに戻ろう。それがいいはずだ。

「アイツは誰だ?」

 ぴくりと声に顔を跳ね上げて、それから問われたことが頭の中を反芻する。
 あいつ? さっきまで話していた相手ならば、兄のことだろうか。私の兄がどうかしたのだろうか、と横を向くとパーカーを着た胸元が見える。イエローベージュと紺のお腹から、そろそろと目線を上げると、正体がわかっていても予想外の人物が私を見下ろしていた。
 キバナだ。こんなところで会うとは思わなかった。彼に反応しようと口を開いたけれど、そろりと地を這うような声が閉ざした。

……。オマエ、キャンプに行くって言ってたよな」
「え、え、……うん?」

 どうやらキバナは機嫌が悪いらしい。わかりやすい威嚇じゃなく、心底冷えた温度で見下ろされる。

「なんだっけな、星を見てリフレッシュしたい、だったか?」
「キ、キバナ……?」
「まぁ確かにオマエは”一人で行く”なんて言わなかったが。まさか男と一緒のリフレッシュだとはなぁ」

 まひしたみたいに身動きを取れずにいると、そのままキバナが風景に蓋をするようにかぶさってくる。なぜ私が責められるような雰囲気になっているのだろう。得体の知れない恐怖を感じて後ずさろうとしても、さっき寄りかかった壁が反対側から私を追い詰めた。

「何か、キバナの中で誤解が生じている気が、する、んだけど」
「誤解?」
「だから、とりあえず話さない……?」

 かろうじて出した声で、キバナは一瞬呆けた顔をする。それからぬるりと笑う。

「気があうな。オレさまもだぜ」

 凶器的な笑顔とその近さにまた怯む。ざり、と背中で擦った壁が、ぱらぱらと塵を落として教えてくれる。
 私が今立たされているのは、崖の上だ。





(「キバナさんに迫られるお話が読みたいです!」とのリクエスト、どうもありがとうございました!)