私の兄は天性のドジ体質だ。お人好しなので許されているところがあるけれど、圧倒的マヌケだ。相棒のバッフロンを連れて旅に出て、期待を裏切ることなく行く先々でトラブルを起こしまくっている。そのどれもバッフロンには全く非の無いことばかりなのだから、兄のマヌケぶりが際立つばかりだ。
 そんな兄なので、キバナに追い詰められるこの状況も、兄の助けは望めないだろう。ATMでトラブルを起こしたなんだで帰ってこないとばかり思ったのだけれど、意外にも兄はすんなり戻ってきてくれた。片手に私が間違えて振り込みすぎたお金を持って。

「あ、これ、私の兄です」

 簡略に兄を紹介すると、キバナは背を丸めながら「のお兄さんですか? お噂はかねがね……」なんて言っている。お噂というのは私がたまにキバナに兄のドジっぷりをしゃべっていたことを指すのだろう。兄は旅好きな一般人。お噂されるのはどちらかというとキバナの方だ。
 挨拶し合う二人をよそに、私はそっと胸を撫でおろす。さっきまでのキバナは近すぎた。後ろは壁、前はキバナ。だけど右も左も逃げる隙もなかった。それよりも、意識の全てを向けられたような威圧感が私の動きを封じていた。でも、抱いた感情は怖い、というよりは……。とにかくまだ心臓は胸の下で素早く鳴り続けて、わずかに痛い。

、おい、
「え、何?」

 兄に意識を呼び戻されると、無言で封筒を渡される。封筒の下にある、わずかな紙の厚み。お金の存在を感じ取って、私はすぐさま枚数を数えた。

「15万! 全額ある……! お兄ちゃんありがとう、これで生きていけるよ……!」
「本当に悪かったな、
「見てキバナ! 全額戻ってきた!」
「は……?」

 話がつかめきれていないキバナに、私は兄とのやりとりをざっと話した

「そういうわけだから、キャンプは本当に一人で行ってるし。キバナのさっきのは勘違いだからね」

 話を一通り聞いたキバナは何か、言おうとしては口を閉じ。それを数回繰り返してから、ようやくひとつ、吐き出した。

「……、出て行くつもりか?」
「そりゃ、ずっと甘えてるわけにもいかないし……」

 これで私に遠慮することなく、自由恋愛してくれ! とはまぁ流石に言わないし、言えないけど。
 お金の都合がついて、自分で自分の面倒を見る目処がたった。キバナの家に居候しなければいけなかった、一番の理由は消えたのだ。

「オレは楽しかったぜ。オマエと色々一緒にやれてさ」
「わ、私も。楽しかったけど……、キバナにこれ以上迷惑かけられないよ」
「いつ、出て行くんだ?」
「本当に頑張れば、最速1週間くらいだと思うけど」
「1週間後までだな、わかった」
「え? うん……」

 キバナの言葉尻がひっかかる。再度キバナの様子を伺おうとするも、彼はもう、人の良い笑みを浮かべていた。

「まぁとりあえず今日のところは帰ってこいよ。あ、お兄さんも来ますか?」
「え、いいの? 嬉しいなぁ」
「ちょっと、お兄ちゃん! そこは遠慮するべきじゃ……!」
「オレは構わないぜ。オレさまの部屋は広いって、は知ってるだろ?」
「そういう問題じゃないんだけど」

 そういえば、こんなやりとりを前もキバナとした気がする。あの頃の私は本当に何も考えなかった。何も考えずに、キバナと無邪気に笑っていられたあの日々はいつの間にか遠く感じられた。




 図々しくもついてきた兄と、どこか何を考えているかつかめないキバナ。二人が家に着いて何をしたかというと。なんと飲み始めたのだ。次々にボトルを取り出しては空け、男二人は盛り上がっている。
 私も、最初はちょいちょい飲みながら付き合ったのだけど、次第についていけなくなってきた。兄とキバナが一応仲良さそうに話してくれているのは嬉しい。だけど男同士のノリがというか、二人のやりとりになんだか入っていけないのだ。私がちょっと冷めた視線を送っても、二人の話も飲むペースも全く止まる様子がない。

「ねぇ、まだ寝ないつもり? 私はもう寝たいんだけど……」
「おう! 寝ろ寝ろ!」
「オレたちはまだまだこれから話すことがあるからな」
「んじゃ、お先に」

 まだ話し込む二人をよそに、私は自分の部屋に戻らせてもらった。
 私は明日から引っ越し先を見つけなきゃならない。急ぎたい気持ちはあるけれど、なるべく内見も行った上で新たに住む場所を見つけたい。とにかく忙しくなる。

 ドアの向こうでは話し声が聞こえてくる。その音を遠く聴きながら、私は眠りについた。


 朝、起きればキバナも兄もどこかへ出かけていた。キバナはおそらくジムへ行ったのだろう。居候させてもらったおかげで、私はいつの間にかキバナの大体のスケジュールをほぼ把握している。けど、兄の行方は分からない。スマホにも連絡などは入っていなかった。
 そもそも、昨晩二人はいったい何時まで盛り上がっていたんだろうか。ただキッチンには空になった瓶が何本もの立ち並んでいて呆れてしまった。

「こりゃほぼ朝まで飲んでたな……」

 兄とキバナは初対面のはず。なのに朝まで話すことがあったということも驚きだ。

 寝落ちする前にスマホで探しておいた物件を再度見返す。良さそうなところには見学のアポを取りまくる。手続きも必要だし、引っ越し自体はまたポケモンたちに手伝ってもらえばなんとかなるだろう。
 それで引っ越しが終わったら、キバナとも手を振りあってバイバイするんだ。私はキバナに感謝を伝えて、キバナも「今までありがとな」とか人の良いことを言うんだろうな、なんて考えていると、自然と眉間にシワがよってしまう。
 落ち込んでいる場合じゃない。滞りそうになった考えを振り切って、スマホを操作する。また新たに見つけた物件、不動産屋さんに内見のアポをとろうとした時だった。

 画面が一瞬止まった、と思ったら電話がかかって来たらしい。同時に震えるスマホロトムを捕まえて、電話に出る。

「も、もしもし!」
『おう、

 かけてきたのは兄だった。
 声の後ろではポケモンの鳴き声と風の音。それで兄がいるのがもうこの街の中ではなく、どこかポケモンが出てくるような場所へ行った後だとわかってしまった。

「なんだ、もう出発してたんだね。次の行き先決めたの?」
『ああ。というか元々行きたいところは決まってたんだ』
「まあ気をつけて」
『キバナさんにも挨拶はしたが、お前からもよろしく言っておいてくれ』
「わかった。伝えとく。昨日、すごい盛り上がりっぷりだったね」

 キッチンに立ち並んでいた酒瓶の量には呆れた。けれど自分の家族と、自分の気のおけない友人が仲良く一晩過ごしてくれたのだ。一人勝手に気分が上がっていくが、それに兄が水を差す。深い深い、わざとらしいため息で。

……。オレはドジだけど、お前はアホだなぁ……』
「なんだよ、なんかむかつくな」
『キバナさんと話すことと言ったらひとつしかないだろ。お前のことだよ』
「え、なんで?」
『その内わかるだろうから言わねー。じゃあな!』

 どういう意味だ、なんだその思わせぶりな言い方は。兄に問い詰めたかったけれど、通話はすでに切れていた。兄の代わりに、私の戸惑いを受け止めたスマホロトムが困り笑いを浮かべていた。

 スマホを震える手が次第に震えてくる。
 一晩中、私の話をしていた? 兄から恥ずかしい幼い頃の失敗とかをバラされたんだろうか。そうだとしてもキバナがそんなに私の話をしてたのかと思うと、顔に熱がせり上がってくる。
 自意識過剰だよ、キバナが兄の話に合わせてただけかもしれないし。そう自分に言い聞かせても、熱はなかなか引いてくれず全身に溜まりそうだ。しまいには「あ゛ー」とか「う゛ー」とかうめき声が出てしまう。昨夜、キバナは何を話したのだろう、そう考えるだけでなんとも言えない気持ちが私の中をのたうち回るのだ。

 わたしはモンスタボールとバッグ、それからキバナからもらって思わず大事にしているキャップを掴んだ。もうじっとしているのは無理だ。
 スニーカーの靴紐を結び直してよし行くか、という時だった。ドアが開いて、ぬうっと私を覆う影。

「お」
「あ、おかえり」

 キバナだ。今日はもうジムから帰れたらしい。私はまだ顔が赤い気がして靴紐を再度チェックすることでごまかす。そんな私の後頭部に、上から「ただいま」が落とされる。

はどうした、どこか行くのか?」
「うん、近くにも賃貸紹介してくれるところあるみたいだから、直接行ってみようかなって」
「なんかの約束か?」
「そう言うわけではないんだけど」
「なら行かなくてもいいな」

 いや、私の肩を掴むと、くるりと方針転換をさせられてしまった。そのままキバナに押されれば、押し負けて家の中に戻ってしまう。
 キャップもとられて、思わず手で追いかけた。けれどキバナが手を伸ばした先に、私が届くはずもなく。指先がかすることもなく、私の大事なキャップは天井すれすれを通って、ドア横のコートハンガーにかけられてしまった。

 外に行こうとしたのに、部屋に逆戻りしてしまった。違和感をも押し切るキバナの行動によって。
 私はそっとキバナを視線で追った。あわよくば、「やっぱりちょっと出かけてくるよ」と言う隙を見つけたい。

「オマエのお兄さんにも、一応お許しをもらった」
「お許し? って……、何の?」
「あー、なんていうの。まあ、とりあえず止めない、本人の意思に任せるってだけだけどな」

 何をとか、誰がとか。キバナは肝心な部分を隠して話す。
 ストックされてるミネラルウォーターを一本取り出して、あっという間に半分を飲むと、ようやくキバナは私に視線を返してきた。

「この前は悪かったな、怖い思いさせただろ」

 キバナが言っているのは昨日の、迫られた時のことだろう。
 壁に擦り付けて背中と手のひら、どくどくと耳の裏を上がって来た鼓動。私の目は自然とキバナの持つ色を再解釈していた。あんまり詳細に思い出すと、あまり考えたくない気持ちを思い出しそうで、私はキバナの謝罪をなんでもないように流した。

「ううん、平気。気にしないで」
「オレの誤解はとっくに解けてる。だから、次はオマエの方の誤解を解かなきゃな」
「誤解ってなんの?」

 なんでもないふりを続けて、へらへらっと笑ってゆるく振る舞う。そんな、ノーガードな行動をとってたことを、私はすぐさま後悔した。

だけだ」
「……何が?」
「オレさまが部屋に連れ込むのは、だけだ。他に誰も入れたことはない」

 不意をつかれた。いや、私が隙だらけだったのだけど、何も繕えなくて今私はどんな顔をしてるんだろう。態勢を整える間も無く、キバナに畳み掛けられる。

「気づいてた。というか、そうなんじゃないかと期待していた」
「え」
「確信はなかなか持てなかったんだが、でもどう見てもわかりやすく意識してるオマエが、なんかものすごく可愛かった」
「え!」
「なのに裏切られたと思った。オレさまバカみたいに自惚れてたんだなぁと思ってすぐ、カァっと頭に血が上ったというか、久しぶりに我を忘れた。それくらいが好きなんだ。ごめんな。許してくれるか?」

 嬉しくて、照れていて、爆発しそうでいる。そんな私の表情で、答えも見えてしまっているのだろう。キバナは器用に片眉を上げて笑っている。

「ゆ、許すとか許さないとかそこじゃないよね……!!」
「オレは申し訳なく思っているけどな」
「だって私、今、告白……」
「ああ、した。だから、。もうでてかないよな? ずっとここにいるよな?」

 たくさんの女性が向けていた恋の視線。なんということだろう、それをキバナが私に向けている。

「えっと、昨日のことは許す。別にそんなに気にしてない、びっくりしたけど。あと、き、キバナがいてもいいって言うなら、まだいる、けど」

 いや、問題はそこでもない。出ていく、出ていかないよりももっと重大な問題を、私は必死で声にする。

「キバナが、私を好き……!?」
「そう」
「じゃあ恋人になる、ってこと!?」
「ああ。はオレさまのものになるし、オレさまの恋人はになるわけだ」
「それって、どうなるの……?」
「別に。今日までオマエを大事にして来たみたいに、大事にするだけだ。……まぁ、たまにはこういうことをするかもしれないがな」

 鼻と鼻が触れ合いそうなほどに迫られる。今日は、後ろに壁はない。私の背中を支え、それでいて逃げられなくするキバナの手があった。
 至近距離のキバナが囁く。

「嫌なら、やめる」
「……、だい、じょぶ……」

 なにせ顔と顔が近いせいで余計に、その大きな口でがぶりと食べられそうだなぁとどきどきと胸が高鳴ってくる。
 長い友人関係の中で、想像をしないようにしていたキバナとのキス。どんなものが飛んでるくるかな。緊張が私の体を固くしていく。だけど落ちて来たのは、触れ合ったらそっと離れて、幸せそうな笑顔を浴びせてくる。そういうキスだった。
 今日まで大事にして来たとキバナは言っていた。
 その一回のふれあいはキバナの柔らかいところ、そして言葉を脱ぎ去った愛情を、私に伝えてくれたのだった。