その人とすれ違った瞬間、ビリリしたものがオレの中を走った。オレの肩より下を通り抜けていったつむじ、かすかな風に引っ張られるように振り返った。
すれ違って行って、オレから見えるのは後ろ姿だけだった。けれど不思議な確信があって、オレは気づけばその人を追いかけ、声を上げていた。
「あの」
「……はい?」
「前にどこかで会いましたっけ」
「え?」
丸い目が怪訝そうにオレを見上げてから、オレは気づいた。下手なナンパみたいな声のかけかたをしてしまった、と。それがオレとさんの再会だった。
普段なら、というかここが例えばナックルシティの街中なら、オレさまも迂闊に声をかけたりしなかっただろう。だがこの場所はナックルスタジアムの内部。入れる人物は限られている。十中八九リーグ関係者だと思ったのでオレも声をかけられたのだ。
「どこかって、どこでしょうか……?」
言葉選びを間違えたとは思ったが、振り返ったその人は目を丸くした後は表情を和らげた。とりあえず不快感などがその顔にないことに、救われる。
「いや、それはオレも分からないんだが……」
「うーん、多分人違いだと思いますよ。それでは」
絶対に人違いじゃない。オレは彼女を知っている。彼女の特徴が様々な記憶を刺激するのだが、どうしても決定的な記憶は思い出せない。結局オレは再び彼女を引き止めることはできなかったのだった。
その女性を二度目に会ったのは、ローズ委員長からの紹介だった。
リーグの業務連絡を受けていたら、委員長が思いついたように「ちょうどいい、紹介しますよ」と彼女を呼んでくれたのだ。
オレの前に立った姿が、この前どうしても思い出しきれなかった彼女であったことに驚いた。だがさらに驚いたのは彼女が名乗ってからだ。
「どうも、です」
「””……?」
名前を聞いて驚いた。それはオレが少年の頃、憧れを抱いたジムリーダーの名前だったからだ。
オレが子供の頃、トーナメントを席巻していた若きドラゴンつかい。それが””だ。最高成績はチャンピオンリーグ二位。優勝経験こそなかったけれど、当時彼女を超えるドラゴンタイプの使い手はいなかった。10代前半でありながらあらゆるドラゴンタイプのポケモンを使いこなして、その容姿はスタジアムの中でも映え、人気実力ともにトップを争うトレーナーだった。
オレとは三つしか年齢が変わらない。なのにドラゴンタイプの強さを見事に生かし、次々と勝利を収めていく姿にあっという間に魅せられた。憧れた。
ジムチャレンジに参加できることになったらオレは必ず彼女に追いついて、いつかトーナメントで全力のバトルがしてみたい。そう夢を抱かせた存在が””なのだ。必死になって手に入れた、彼女のレアカードだって今も大切に持っている。
だがオレがトレーナーになるときには姿を消してしまった。ドラゴンマスターになる旅に出た、という噂だった。彼女は表舞台から去り、どんなに願おうともそのバトルを見られなくなってしまった。
ようやく納得がいく。なるほど、既視感を覚えたわけだ。
「さん。あのジムリーダーのさんですか?」
「あ、うん、そんな事もあったね……!」
「おや。もしかして以前の彼女を知っていましたか?」
「なんで、消えてたジムリーダーがここに?」
「帰ってきたからに決まってますよ、ねえさん」
「そうですね、委員長。今はリーグの……なんていうのかな。まあ色々と雑用こなしながらリーグのことを色々勉強させてもらっています」
彼女が中継に映っていたのも、それこそもう十年以上前になる。
少年だったオレさまの体格が完成したように、あのドラゴン使いらしい派手な衣装を脱ぎ捨てた彼女はシンプルな白いシャツ姿が似合う大人の女性になっていた。けれど、照れ笑いした際に覗く素朴さが、オレが憧れていた過去の彼女にぴったりと重なった。
ローズ委員長は「委員長、お時間です」と耳打ちをされ、足早に次の予定へ行ってしまった。部屋に残されたオレに、さんは申し訳なさそうに眉を下げる。
「キバナくん」
ほんの一瞬。だが、確かにこのひとがオレの名前を知っていてくれたと知って、どきりと心臓がねじれたみたいな音がした。
「この前、どこかで会ったって言ってたけど、嘘じゃなかったんだね」
「はい。オレが一方的にだったみたいですけどね」
「ごめんね、わからなくて」
「オレこそすみません、あの日は下手なナンパみたいな声をかけてしまって」
「いいよいいよ! ナンパじゃなくて本気で声かけてくれてるの、わかってたし」
「そうなんですか?」
「うん、だってキバナくんみたいな男の子が私みたいなのに興味あると思わないよ。ほら、私の方が年上でしょ?」
彼女の言い草に、オレは思わず口を真一文字に閉じた。俺は数年経って服装も髪型も変えたこの人に第六感で気づくくらい追いかけてた人なのに。まっすぐに閉じられていたオレの口端がみるみる下がっていく。私みたいなの? そんな言葉で小さく見せるような人じゃないはずだ。何か言い添えようとしたが、彼女のスマホがアラームを鳴らして空気を断ち切ってしまった。
「あ、ごめん。私も次の予定が……。それじゃあね、キバナくん!」
「あっ」
オレの胸くらいの身長しかないのに、さんは大きな歩幅であっという間に出て行ってしまう。そうしてオレは逃してしまったのだ、オレさまの胸を曇らせたその人を。
ローズ委員長が直々に紹介したのも頷けるくらい、さんを見かける機会は意外に多く訪れた。
委員長とは基本的に別行動のようだが、いろんなスタジアム内の廊下でひときわ大きなビジネス用トートを脇に抱え、スマホ片手に忙しそうにしているのを見かけた。
さん自身は、会わずともオレの頭の中に度々現れる。そして考えていたことを、あの功績の割に飾り気のない笑顔で遮って、邪魔をする。その度に抱かされるモヤモヤの、ぶつけ先を見つけたと言わんばかりに、オレは彼女を見かけると真っ先に声をかけるのだった。
「さん」
「あ、キバナくん。また会ったね」
「今日も忙しそうですね」
「委員長、人使い荒くって。あの人は無自覚だろうけどね」
「分かります。何をするにも行動が早いから振り回されるんだよな」
「そうそう」
ローズ委員長に関わった人間ならわかる、あの人のマイペースさ。テンポが早いだけじゃなく、変則的なので予想がつかないことも多く振り回される。それをお互いの経験済みなようだ。共通の苦労は透けて見えたのだろう、さんはけらけらと笑って、オレは繋げようとしていた言葉を忘れた。
「あー……、久しぶりに帰って来たガラルはどうです?」
「うん、いいね。私はやっぱりガラルが大好きだよ。空気も人々もポケモンも、まるごと全部好きだなぁって感じ!」
さんの笑顔は、どうしてオレに頭上から何かを浴びせるような威力があるのだろう。
柄にもなく怯みそうになる。なのにもっと浴びせて欲しいと思う。だけどさんはまたも行ってしまう。
忙しいのはわかるが、もう行ってしまうのか。引き止めるような話題は何か、何かないだろうかと考える。
「それじゃあね、キバナくん!」
「……、はい」
引き止めようと思っていたのに、名前を呼ばれると嬉しくて、気づけばオレは素直に返事をしてしまっていた。
すれ違いざまの会話も、何回か重なって、徐々にさんとも親しくなって。憧れのポケモントレーナーから、同じ界隈の仲間みたいな距離感になってきた頃。オレは嫌なことに気がついてしまった。ジムリーダーが集まるとき、彼女は大体カブさんと一緒だ。
一度や二度じゃない。ふと見ると、だいたいあの二人が話し込んでいる。カブさんと随分仲が良いらしい。話が弾んでいるのが彼女の仕草から、そしてカブさんの表情からもわかる。
そして今日、オレたちが押し込まれている部屋はいつもより小さく、存分に二人の会話が聞こえてしまうのだった。
「あ、カブさんお疲れ様です!」
「やあ、」
「今週末のご予定は? よければまた、お伺いしても?」
「勿論だよ。時間があるなら少しぼくの相手をしてもらいたいな」
「え!いいんですか?こっちこそ嬉しくなっちゃいますよ!」
盗み聞きは良くないとはわかっている。だけど耳に入ってくる親密そうなやりとり。今週末、また伺う? どういうことだよ、オレさまはジムやリーグ内ですれ違った時に数分話せるくらいだっていうのに。
「すみません、毎週押しかけてしまって」
「大丈夫。ぼくも慣れてきてしまって、が来るつもりで準備もしてある」
しかも、毎週とか。
オレとの話は早々に切り上げて行ってしまうのに、毎週だと?
じゃあね、キバナくん。その爽やかな挨拶だけで満足していたオレさま、なんて一途で健気なんだろうか。
自分で自分を称えていると、不意に聞き慣れた通知音が部屋に響く。さんのスマホから鳴る音だ。これはタイマーじゃなく、電話だろうな。すっかり判別がつくようになってしまった。
「呼び出しかい? ご苦労様。それじゃあまた週末だね。よろしく頼むよ」
「はい! こちらこそよろしくお願いします!」
スマホを抑えながら部屋の外に出たさん。オレは反射的に追いかけた。声をかけたいとか、カブさんとのことを聞いてみたいだとか、そういう願いのようなものはあったものの、頭より先に体が動いていた。
人気のない廊下にいるさんはもう話している様子がない。電話は終わったらしい。チャンスだ、と口を開いた時だった。
「こら、出てきちゃダメだよ。あばれるならボールに戻って」
「さん……?」
「あっ……」
彼女の大きめのトートバッグから、見慣れないポケモンの体の一部が覗いていた。彼女が振り返ったことによって、そのポケモンがなんであるか、オレさまの目にばっちり飛び込んできてしまった。
「それって」
「あーあ、バレちゃった。まあキバナくんだからいいか。出ておいで」
さんがトートバッグの口を大きく開けると、中には一匹のポケモンがすっぽりと収まっていた。灰色の頭部。小さくも牙がのぞいている。
見たことのないポケモンだ。けれどオレさまの勘が働く。初めて見るポケモンだが、こいつはドラゴンタイプだ。
「タツベイっていうの。ホウエン地方の一部の洞窟の中にしかいないんだって」
「うわ、初めてみた……」
「ホウエンリーグで四天王を務めているドラゴン使いさんから譲り受けたの。最初はガラルでも見ることのないポケモンだから迷ったんだけど……。迷いはしたんだけど、ね?」
「わかります、その気持ち」
「でしょ?」
未知のドラゴンタイプなんて好奇心が疼くに決まっている。
しかも強いドラゴンマスターにドラゴンタイプを任されたら、それは信頼の証であり、実力を認められた証でもあり。そして何よりドラゴンつかいへの挑戦でもある。断ることなんてできやしない。
「へー、タツベイ。かわいいな……。やっぱり進化前のドラゴンタイプって手が小さいことが多いな」
「そうなの! 手足がないドラゴンタイプもいるわよね」
ドラゴンタイプを語るさんは、ご機嫌な笑顔だ。そしていつもの距離感を忘れたかのように近い。さっき、カブさんに話かけていたさんもこんな風にテンションが高かったな、と思ったところで、不意に合点がいく。
「あ。まさか」
「ん?」
「ホウエン地方のことを聞くために、カブさんに?」
「あ、そうそう! ガラル地方はタツベイが生きてきた環境とは全然違うから、カブさんに色々教えてもらっているの」
「なる、ほどなぁ、……」
そうだったのか。さんとカブさんが盛り上がっていたのは二人が親密な関係だからじゃなく、このタツベイのためだったのか。そう知ると、先ほどまでオレを衝動的に突き動かしていたものが、しゅるしゅると解けていく。
「ホウエンリーグのドラゴン使いが、自身の切り札にしていたタツベイの完成された姿。それはもう見事なものなんだけど……。語るより、直接キバナくんにも見せてあげたいよね」
「オレも。見たいです」
オレを見上げるさんの目がきらきらと輝いている。だがオレさまの目も負けないくらいきらきらと輝いている自信がある。まだ見ぬドラゴンタイプのポケモン。知りたいに決まっている。そしてその感動をさんと共有するのはオレさまが一番ふさわしいはずだ。
憧れのトレーナーだった彼女を、目で追ううちに変質した気持ちには気づいている。このひと自身は全く気付かない、オレがこっちを向けと念じながら視線を送っているだなんて。
「さん、オレが力になりますよ。ドラゴンストーム、キバナに任せてください」
そう言って、オレは初めてかというくらいの背伸びをした。
今やこんなに背が伸びたってのに、背伸びをするなんてくすぐったい話だ。だけどこの人を捕まえるにはこれくらいがちょうど良いだろう。
「だから週末はオレに会いに来てください」
真正面からぶつかって、まだ余裕の表情でオレの前に立つ彼女の調子をいつか崩してやろう。そう誓ってオレは笑んだ。
「カブさんでもなく、他の誰でもない、オレに」
(「キバナさんに好きな人ができるお話、できれば相手は年上で」とのリクエスト、どうもありがとうございました!)