さんは水が好きなんだって。
ほとんどひっかけみたいな心理テストを会話のネタとしてかまされて、結果として言われたのがそれだった。心理テスト自体はあまり信じていなかったけれど、その言葉はしっくり来て、すっと自分の胸に吸い込まれていったのを覚えている。
さんは水が好き。やっぱりそうだよね。うっすらとした自覚を持ちながらも、自ら言い切るとまではいかなかった私の内に流れていた嗜好。誰かにかたちにして言ってもらいたかったのがそれだった。
手や食器を洗うのも、水に触れるおかげで刹那の心地よさを感じられる。休日があったら川でも湖でも海でも、どこでもいいので、泳げる場所に行きたくなる。泳ぐことで一日が潰れたとしても、充分悦びになり得る。
だから今日、訪れたルネシティで昼下がりの雨に降られても、悪い気はしなかった。息がしづらいほどの大雨に翻弄される。カバンの中が濡れてしまう事には、ああ、と嘆いたけれど悲しみは遠巻きなもので、天からの水に浸される心地よさに酔いしれていた。
火山跡の底に息づいた街へと降り注ぐ、このあたたかな雨。空がそれを降らす限り、ずっと濡れていてもよかった。けれど今屋根の下にいるのは、その雨をガラス越しに眺めているのは、ミクリさんが私を連れ出したからだ。
水よりもくっきりと、好きと憧れを抱かせるのミクリさんが私を引っ張った。優先順位は歴然だった。私は好きな雨に濡れるより、ミクリさんを選んだ。このひとに無抵抗になることを選んだのだ。
抗うことなくずぶ濡れた私へ、ミクリさんは微笑んだ。哀れみの微笑みだろう。彼の慈愛が巧みに香って、私に期待を握らせるようだった。
彼は私を、自分の家まで導くと、そのまま廊下に水の道ができるのも構わずに浴室まで招いたのだった。
タオルと着替えを手渡たされ、あたたかなシャワーを浴びさせてもらった。私が来ていた服も今は洗濯機の中。カバンの中身を全て広げ、タオルの上に寝かせてもらっている。
外ではまだあたたかな雨が降りしきっている。勢いよく当たる雨粒が地上の物に当たって砕けて散るのだろう。水が煙(けぶ)る。騒々しいものの、一見すると天気は霧だった。
体は思ったよりも冷えていたようで、まだ顔に当てたタオルや、着せてもらった洋服の方を温かく感じる。
「」
彼の声に振り返ると、ミクリさんはティーバッグがいくつか入った木箱を私へ差し出した。好きなフレーバーを選んで良いらしい。寝かせられたティーバッグたち。わたしがおずおずと、ひとつを抜き出すと、ミクリさんは満足げに頷いて受け取ってくれた。
やがて、湯を足されたマグカップを渡された。底を覗くと、葉から紅茶の帯が染み出していた。
「お洋服まで、貸してくださってありがとうございました。これって、ミクリさんのお洋服ですか?」
「わたしの家だからね、わたしの衣服しかここには無いよ」
私はミクリさんのプライベートをよく知らないけれど、そうとは限らないと思う。けれど、言い切ってもらって感謝だ。襟からの香りを深く吸い込みながら、まだ口をつけるのには早いマグカップで手を温める。
「ミクリさんって、こういう普通の服も着るんですね」
着せてもらったのは、無地のタートルネック。オフホワイトの生地はやわらかくさらりと肌の上を流れるものの、ステージ上のミクリさんとはイメージを違えるものだ。
「普通ではないさ。わたしの美しさを充分に引き立てる服だ」
「はい。見てみたいです、こういうシンプルな服を着たミクリさん」
その美貌を邪魔をすることない衣服のデザイン。きっとミクリさんにばかり視線が吸い込まれることだろう。
ミクリさんからの返事はなかった。私はミクリさんにとって本来プライベートで会うような間柄では無いので、私はそっと想像した。今私を守る服を、体に沿わせたミクリさんを。
「えっと、雨が止むまではいて良いのでしょうか」
「きみの好きにしてほしい。自由に過ごしてくれ」
自由。私にとっては何よりも困る許しを得てしまった。そのまま沈黙していても平気なのは雨と、それからマグカップの中身のおかげだった。
ルネジムのジムリーダーであるし、ミクリさんの家がこの辺りにある、と見当てはついていた。それとなく、本人の口からも聞いていた。けれど、実際に訪れることになるとは思わなかった。
自由に過ごしてという言葉に則るように、ミクリさんはわたしを放って置いている。浅い微笑みを浮かべたままのミクリさん。私に注視はしないものの、どことなく、意識が注がれているのを感じる。自由にさせた私がどんな行動を起こすのか、楽しみにしているようでもあった。
ミクリさんの視線から逃れるように、私はそっと、壁の棚に近づいた。ミクリさんから何か言われたらすぐさまやめるつもりだったが、ミクリさんは凪いだままだ。
棚に立てかけてある数冊の本から、一冊をまじまじ見る。背にまで大胆に広がる鮮やかな色彩。写真集だろうか。
「気になるかい?」
「はい」
「も写真集を見るんだね」
写真集だから興味を示したのではない。居間の棚。すぐさま手を伸ばせるところに置いてあるもの。それはきっと、ミクリさんがいつか目を通し、その日から彼の血の中に流れている物なのだ。気になるに決まっている。
「見ても良いですか?」
「もちろんだよ。貸してあげたいくらいだ」
「そんな。悪いですよ」
「構わないさ。またきみが自分からこのわたしに会いに来るのならね」
借りたなら、返さねばならない。思わず下唇を噛んだ。
急に罠と姿を変えてしまった写真集を、私は手に取る。棚から抜き出し、そして開かなかった。閉じたまま、まだ水を含む自分のカバンの近くに置かせてもらう。
「一冊だけで良いのかい?」
もう一度会いにくる理由にするには、一冊で充分だ。
ミクリさんを見れば、口元だけだった笑みが、瞳の奥まで広がっていた。
「わたしは自分を含め美しいものを皆に見せたいと願うからこそ、コンテストにも臨むのだけど」
「なるほど」
「こうやって見ていたいと思わせられるのは久しぶりだね」
シャワー上がりに借り物の服。飾り気を洗い流された、素地の私。そんな鑑賞に耐えるような生き物ではない。けれどミクリさんが私を許容していることが、しとしとと伝わってくる。
きゅう、とカメラのピントのように、神経が彼へと絞られる。見るものを溶かすような、ミクリさんのたれ目へと。降りしきる雨のザアザア音が、大きく迫って、滝のようになって、私を急き立てる。
「ミクリさん、私……」
上がった雨。残った水たまりを辿る帰り道。
私の腕から手首まで、流れるようだったミクリさんの私服を思い出す。今はもうしっかりと乾燥された自分の服に着替えてしまった。襟元から立つ香りはミクリさんの服から感じたものと近く、けれど同じとは決して言えないもの。
唯一のよすがとなった、写真集を抱きしめる。ふと、水たまりに映った私は眉をしかめていた。
カバンに収まりきらなかった大判の写真集は、目の前にぶら下げられた光り物であった。また、ミクリさんから送られた「見ていたい」の言葉もまた、罠であり、誘いだった。
写真集を借りることを決めたからこそ、私へ下された、二つ目の誘い。彼に好意をちらつかされて、私も飛び込むように返事をした。
『ミクリさん、私……、あのまま濡れていてもよかったんです。もともと、水に触れているのが好きなので。でも雨水よりミクリさんの方がよかったから、ミクリさんをとったんです』
ミクリさんは唇を震わせた。
『水よりわたしを選んだのかい?』
『まあ、そうですね』
『なんて、熱烈なんだ!』
ミクリさんの感嘆した様子に、私は恐縮してしまった。そこまでのことを言ったつもりはなかったのだ。水よりは好きですよと言ったまでで、愛を告白したわけでもない。
だけど、はたと考える。雨が通り過ぎて言った世界。木々が輝いて、夕暮れを迎え入れようとしている。洗い流されたルネシティは月の建物のように白い。
先ほどまで降り注いでいたのは、多くの生き物にとっての命の源流。世界に溢れながらも、無いと生きていけないもの。街をも輝かせるもの。それよりもミクリさん。命よりもミクリさんと、言ったようなものだった。
一度、熱いため息が出てしまった。だけど一度きりで私は振り切れた。間違いではない。
己が一人で得てきた気持ち良さより、ミクリさんの与えてくれる気持ち良さなのだ。きっと干からびそうになっても、目の前の水より、ミクリさんに吸い寄せられる。ミクリさんの血が挟まっているはずの本を私は再び抱きしめた。
(「ミクリさんといちゃいちゃしてる夢」とのリクエストありがとうございました。しっとり系いちゃいちゃで失礼いたしました…!)