赤ん坊の泣きの声が聞こえる。夜の林の奥から。記憶によればこの奥に民家はないはずで、それに街灯のわずかな明かりで腕時計を見ればもう明日も近い時刻を差している。母親が赤子をあやすために散歩をしているにしても、もう少し明かりのあるところを歩くだろうという違和感があった。
だから、これって。思い当たったことを私は隣を歩くマツバさんに伝えた。
「これってムウマですよね」
「うん、そうかもね」
「いやムウマですよ」
ムウマじゃなかったらなんだと言うのだろう。時間帯も場所を見ても、赤子の泣き声なんてするはずがないのに。どうしてそこでマツバさんは「だろうね」とか、適当に頷いてくれないのだろう。
はあっ、と思いため息を吐いて私は肩を落とした。最近、ずっとこうだ。私はマツバさんの、些細なことに過敏に反応して苛立ってしまう。だから今夜だってなるべく顔を合わせたくなかった。
けれど仕方がなかったのだ。風邪が長引いてだるそうな母の代わりにエンジュ町内会のお手伝いを頼まれてしまった。それで母が少しでも気が休まるならと顔を出したまでだった。
その後の打ち上げも出たくはなかったが、断れなかったのだ。地域の人々との関係性が悪くならないよう、せめて顔だけ出すだけのつもりで行ったまで。だというのにへらへらと近寄って来たマツバさんに、一体何度苛立ったことか。
いいですいいですお気になさらずと遠慮したのにも関わらず、マツバさんはお酌までしてくれた。「マツバさんて気が利きますね、お酌もまめまめしくて」という皮肉にも気づかないで私の横に居座って、マツバさんはへらへら笑顔のまま、その後もしばしば話しかけて来たのだった。
その場を早々に抜けたかったのに、マツバさんのせいで私は何度もタイミングを失った。ようやく逃げ出せ、外の空気に胸をなでおろしていたのに。
『時間も遅いから、ぼくが送るよ』
背後からかけられた声には思わず悪寒が走った。
「説明がつかないものの正体がポケモンだと思うと、少しは怖さが紛れるかい?」
「……まあ、ゴーストタイプのポケモンがやったことなら仕方がないですよね。彼らはそういう性質ですし」
「そうなんだね」
「………」
マツバさんからの言葉をかわしながら、私は内心苛立ちの手綱を死に物狂いで握っていた。一体どういう神経で私の横に座っていたのか、家まで送ると言えたのか、感情のまま問いただしたかった。先週、貴方は私をフったくせに。どうして、と。
マツバさんと偶然にも街角で出くわしたその日。マツバさんも私も急ぎの用事はないということなので、日陰に移動してお互いに世間話をしたのだ。
世間話の内容なんて元々なんてことないものになりがちだ。けれどマツバさんと交わす会話の意味のなさが逆に、私にとってはくすぐったかった。木漏れ日が揺れる中、お互いの奇遇を喜んで、ただ相手と話していたいから会話を繋いでいるような心地がしたのだ。私は、そうだった。マツバさんといたいがために、重要じゃない小さな話題を紡いでいた。
タイミングよく、人気がなくなって、気分も悪くない沈黙がいくらかあって、私はこぼすように聞いたのだ。
『マツバさんって、お付き合いしてる人とか、好きな人がいるんですか?』
そっと口にした好意。けれど、マツバさんはまるで表情を無くしたような顔で、冷たく私に現実を突きつけた。
『期待させてしまっていたのかい? ごめん、ぼくはそんなつもりじゃなかったんだ』
少なくともマツバさんに嫌われてはいないと思っていた。もしかしたらマツバさんもいくらか私を特別に感じてくれているかもしれない、と思っていただけに、マツバさんからの拒絶はショックだった。予想もしていなかった冷たい言葉は私にとっては驚きで、指先が凍りついたように冷たくなって思うように動けなくなった。
だって、マツバさん、優しかった。そっと隣に来て話し相手になってくれる、なんでもない帰り道や買い出しに付き添ってくれる。ジムリーダーとして出かければ、小さなお土産を欠かさなかったり、数日会わないでいるとマツバさんから「何かあったのかい」と様子を見に来てくれたり。
そんな親切は今夜に限ったものではなかったのだ。
ささやかだけれど、興味がなかったらわざわざこんなことしないよね、という行動がいくつもあった。「何かあったらぼくがいやだから」と押し切られることに、私もこっそりにやけそうになっていたものだ。私は様々な親切のお礼を用意すると、マツバさんはどれも嬉しそうに受け取ってくれた。喜んだ顔を見せてくれるのが、私も嬉しかった。
そうやって好意をお互いチラつかせていたのに。
私に勘違い女の冷水を浴びせたのはマツバさん自身だ。なのにマツバさんは今夜も、ご機嫌に私の横を歩いている。
なんて無神経な男なのだろう。柔らかな優しさをいくつもいくつも香らせておいて、そして私を好きにさせておいて。だけどこの人はその実、私に全く興味がないのだ。
しんみりと、悲しさと切なさがせり上がってくる。怒りの気持ちで守っていないと、すぐさま失恋の痛みがすべての気持ちを覆ってしまうのだ。
もう思い上がりだったとわかったのだから、こういうマツバさんの気を持たせる無神経さを、私は割り切って受け止めなければならないのだろう。
「あの、マツバさん。ここまでで大丈夫です。私を送ったら、打ち上げに戻るつもりなんですよね? 尚更、あまり席を空けすぎないほうがいいと思います」
早く帰れ、と暗に告げるも、マツバさんは動かない。
「ぼくはナマエさんが心配なんだ」
「お気持ちだけで。大丈夫ですから」
「その、心配というのは、夜道を一人で帰すことだけじゃないんだ。ナマエさん、元気なさそうだから。……変わったことは何もないかい?」
ざわざわと腕に走った鳥肌は怒りか寒気かわからなかった。
「変わったこと、ね……」
あなたがそれを言いますか。私が顔を引きつらせているにも関わらず、マツバさんは私は物憂げに見つめる。伏せられたまつげの奥で紫の瞳が揺れる。
「ぼくは、普通の人には視えないものが視えるんだ」
「もちろん知っていますけど」
こともなげにマツバさんは「だよね」と私の苛立ちを受け流してしまう。
「ぼくならなんとかしてくれるって思っている幽霊は意外に多いんだ。ほら、幽霊も元は人間だったりするから。ぼくらも無神経な人より感づいたり察してくれる人に頼ることがあるだろう。同じように気づいてくれない人より、気づいてくれた人を選ぶんだろうね」
マツバさんは、何を言いたくて私には視えない世界の話をしているのだろうか。言いたい真意がうまく掴めない。だけどマツバさんはぽつぽつと、語る口を止めなかった。
「かわいそうだとは思うけれど、きりがないし、ぼくにできることもそう多くはないから、あまり相手にしていないんだ。けど、無視ばかりしているとどうにかぼくの気を引こうとするものもいるんだ」
「はあ、そうですか……」
「厄介な連中はいずれ、ナマエさんにちょっかいを出すと思うんだ」
ちょっかい、という軽い表現。だけどマツバさんの表情は硬いものだった。
「ぼくはそれを心配しているんだ」
「もしかしてですけど……。そんな理由で、フられちゃったんですか、私は」
心配だからと言えば聞こえがいい。けれどマツバさんは私を遠ざけた。つまりマツバさんにとって私は心配だけど、面倒を引き起こす存在だったってことじゃないか。それはそれは大層な迷惑をかけていたころだろう。
「え……?」
「なんですか、その反応。私、告白したじゃないですか」
マツバさんは、目を丸めている。まるですっかり忘れていたか、初めて聞いたみたいな表情だ。何度か目を泳がせたあと、そうか、とマツバさんは小さく頷いた。
「ぼくが、ナマエさんに何か、酷いことを言ったのかい?」
「酷いなんて思っていません。それがマツバさんの本当の気持ちなら、私は受け入れないといけない、ってわかってますから」
「ナマエさん、待ってくれ。きみが何を言っているのかぼくにはわからない」
「は、……」
「いつの話かもわからないけれど。それは、ぼくではないよ」
思ってもいなかった言葉に、いくつもの可能性と疑念が、私の頭の中で明滅した。
「いつって、先週のことですよ! マツバさん、まさか忘れちゃったんですか……?」
私は愕然とした。目の前のマツバさんは私が好意を口にしたことも、それを勝手な期待と切り捨てたことも、彼は覚えていないと言う。
「違う。覚えていないんじゃない、知らないんだよ」
私はマツバさんの言葉を信じれずにいた。先週相対したそれは、マツバさんでは無い。けれど、木陰の下で交わした穏やかな世間話。あれはマツバさんとしか思えなかった。会話の内容にも、違和感はなかった。日差しから逃してくれた優しさも、笑い声もいつものマツバさんと同じだった。なのにそれは”ぼくじゃない”と言われても。簡単にも飲み込めない。
「信じられません……」
「……、彼らも頭がいいね。きみ相手ならぼくが追いかけると、動いてくれると思っている」
マツバさんは苦い顔をして、私を案ずるように見据えてくる。だけど私は緊張で心臓を逸らせる。
あのマツバさんが偽物だと言うのなら、そんなことを言われたら、目の前のマツバさんだって、本物のマツバさんかわからないじゃないか。
「マツバさん、貴方はマツバさんですよね……?」
適当に「何を言ってるんだい」と呆れてくれればいいものを、マツバさんと私が今まで思っていたその影は、少し困ったように数秒沈黙してしまう。
姿を見ても声を聞いても、私には目の前の人物がマツバさんとしか思えない。マツバさんじゃなかったら、なんなのだ。
けれど、マツバさんは「当たり前だろ」とか「心配いらないよ」とか、私を安心させるようなことは口にしてくれずに、横顔で言うのだった。
さあ、はやく。きみのいえまではやくいこう、と。
(「マツバさんでホラーっぽいお話」というリクエスト、ありがとうございました)
(20201205 / 加筆修正済み)