ひっそりと、隠れたところにあるカフェ。ふとダンデさんが現れたのはいつのことだったか。私が気が付いたのは、初夏の昼下がりだったが、ダンデさんに言わせると”もっと前のことだぜ”とのことだった。
シュートシティの大観覧車も、ビルの狭間に隠れてしまう。そんなビルや家たちの隙間にすっぽりと体を収めたこの古いカフェは私の大事なサード・プレイス。友人と来ることもない、私が自分のためだけに訪れる、私だけの場所だった。こぢんまりしているが落ち着くこの店へ、ダンデさんはあのマント姿で現れた。
といっても、気づいたのは彼が入店してからではない。私のノートパソコンを覗き込んで来んでくる視線にふと気づき、背後を振り向くとそこに、やけに堂々としたマナー違反者は立っていた。
「な、な、な……!」
かのチャンピオンが、私のノートパソコンを盗み見している。それだけで変な汗がじわりと滲んだ。まずい、今私が書いているものは。思い出してすぐ慌ててパソコンを閉じようとした。けれどダンデさんは、人並み外れた観察眼の持ち主だ。時すでに幾手も遅し、だった。
「これは、何を書いているんだ? ポケモンのことが随分詳しく書いてあるな」
「えっとですね……」
「それに、オレのバトルのことが書いてある」
言葉に迷っているうちに、チャンピオンは私の背後から空いていた向かいの席へと移動した。答えは必ず聞く、それまで逃さないという意思表示だろう。椅子に座り込んで、正面から見据えてきたのだ。
そう強い覇気が込められたわけでもない。なのに、緊張に飲まれそうになる。相手はあのチャンピオン・ダンデだ。この人の目を騙すことはできないだろう。
観念して私は、素直に自分が書いていたものを打ち明けた。
「バ、バトルの解説をするブログ記事を書いています」
「なるほど! ネットの記事か。キミの仕事か?」
「いいえ、ブログは、ただの趣味で、す……」
震える息で言い終えた後、私は心臓を吐き出さないように必死になった。
家でもない、仕事場でもないこのカフェの片隅で、私が時間を費やすもの。それは趣味に他ならない。お金にならない個人的な楽しみだ。
友人も、家族も、誰も知らない趣味である。バトル自体はやらない私がチャンピオン・ダンデのバトル解説文を書くのが趣味だなんて聞かれたら、笑われてしまいそうだと思うと、誰にも言えなかった。
この歳まで守り通してきた秘密だったのだ。だけどそれを、興味の対象である本人に打ち明ける。私は非常に不思議な事態に巻き込まれていた。
私の異様な緊張の理由を知らないダンデさんは「そうだったのか」と肩から力を抜いている。今だに向かいの席から立つ気は無いようだ。
「何を書いているのか気になるな。オレにも見せてくれ」
「ええっ!」
私は思わずノートパソコンをかばった。
「どうして見せてくれないんだ? ネットに公開してるんだろ?」
「それは、そうですけど!」
「じゃあ今オレから隠す意味はあまりないだろ」
「ダンデさんを不快な気持ちにさせてしまうかもしれませんので……!」
「そんな悪意にまみれたような酷いことを、キミは毎日毎日書いているのか?」
「いや、悪意とかは皆無ですが!」
「すごく気になるんだ。キミの目に、オレのバトルがどう映っているのか」
ダンデさんが何を考えて私を見ているのかは、わからない。だけど、彼と対峙するポケモントレーナーの気持ちが、ちょっとわかってしまった。まるで見定められているような気がして冷静さを保つのが、難しい。
どっしりと腰を据えたダンデさんに根負けして、私は現在書きかけのファイルではなく、先日出来上がったばかりの記事を画面に表示した。ネット上での反応も良く、多少拡散もしてもらえた記事だ。大丈夫なはず、とおまじないのように自分に言い聞かせて、私はノートパソコンをダンデさんに差し出した。
ダンデさんの目線が左から右へ、左に戻ってまた右へと、私の書いた文章を読んでいく。緊張に耐えきれず、ドリンクを飲もうとしたらカップの中身は空だった、を私が三回繰り返した頃。ダンデさんは、ほう、とため息をついた。
「……なるほど。すごいじゃないか。見事に思考を読み解かれている」
分相応の褒め言葉が聞こえ、私は両手を千切れんばかりにぶんぶんと振った。
「あ、後から結果を見て好き勝手言ってるだけです! 時間をかければ誰でもできます! ポケモントレーナーさんたちは、これを実戦中に判断しながら一瞬で読まなければいけないですから! ほんと! すごいです!」
「いや、ギルガルドの表情はオレでも読みにくいと思うことがある。映像から気づける人がいるとは思わなかったぜ!」
「いえいえいえいえ……!」
ああ、私、いつもじゃありえないくらい早口になっている。自覚はあるのだけれど、どんどんと全身が過熱していく。
「ダンデさんのバトルは、基本的には派手だけれど見所は他にもたくさんあるので……! それを他のバトル好きにも共有してもらえるとこれが結構嬉しくて……!」
「なるほどな」
「私が気付けて、面白いと思ったことを書かせてもらってます。だから、その……、いつも好き勝手書いて、本当にごめんなさい」
私は机と顔が平行になるくらい、ダンデさんに頭を下げた。私は、自分が楽しむために、彼の全力のバトルに乗っかっているに過ぎないのだ。
「謝ることはない。バトルを見る人間はみんな、それぞれ好き勝手だ」
「………」
ダンデさんは気安くそう言った。ダンデさんの言うことは事実だ。けれど無性に寂しくなる響きに、安易に否定も肯定もできなかった。
固まっている私へ、差し出されたのは彼の手のひら。いつもボールをしかと握っている、自分を高めようとしている人の手のひらだった。
「オレはダンデだ」
「チャンピオンなのに。わざわざ名乗るんですね」
「これからもキミに会ったらこうして話したいからな!」
名乗られたら、名乗り返さねばならない。手を差し出されたら、握り返さねばならない。うるさい心臓の音を乗り越えて、私は礼儀に則った。
「……私はです」
それから、ダンデさんとはよく会うようになった。場所は必ずこのカフェ。ひどい方向音痴という噂だったのに、ダンデさんは最低でも週に一度は通っているようだった。リザードンに覚えてもらった、とのことだった。
彼と待ち合わせをしたことはない。だけどダンデさんは私を見つけると声をかけてくれて、そのまま相席となった。
彼がチャンピオンを辞して新たにリーグ委員長になってからは、深紅のダブルブレストでふらりと現れる。そして私がいるのを見つけると、やはり必ず相席となってくれた。
注文した飲み物がなくなっても話していることはざらだった。ダンデさんは話し相手を欲しているのだろうか。そう思うくらい、向かいの席に座ったダンデさんは楽しげに話し、そして私の話を聞いてくれるのだ。
書きあがった文章を見せることは何度かあったけれど、結局私のブログはダンデさんには教えていない。探されたら見つかってしまうだろうけれど。ダンデさんも「が望まないのなら」と探さずにいてくれている。
「少し姿を見ないなと思ったら故郷に帰省していたのか」
ダンデさんはお土産のクッキー缶を私と交互に見る。
「そうなんですよー」
「家族に会ってきたわりには、疲れた顔をしているな」
「久しぶりに帰ったら、母のお節介がしつこくてしつこくて……」
「お節介?」
「いつ結婚するのか、いい相手はいるのか、独り身に数年先の見通しはついてるのだとか言われまして。正直疲れました」
初夏の昼下がりに出会って、秘密の趣味を初めてダンデさんに打ち明けて、もう何年も最低週一回、カフェで顔を合わせているのだ。私とダンデさんはこんな、プライベートな雑談もするようになってしまっていた。
実家の母に結婚の心配をされた、なんて忙しく頼られているリーグ委員長に聞かせる話題ではない気もするが、ダンデさんは物好きな方のようで、楽しげに紅茶とともに雑談を味わっている。
「オレも家族に言われたぜ。まだ落ち着かないのね、って」
「お母さまに?」
ダンデさんは頷いて肩を落とす。私も共感してため息を吐いた。
「まあ苦労はかけているからな」
「そう、そうなんですよ。心配してくれてるのはわかるんですけど、ねえ……」
「オレも愛や恋だのがよくわからなくて困る」
「私の母はもっと、めんどくさいんです」
まず、口出しがひどい。私が地味だったり、ちょっとリラックスしていて仕草がだらしないと「こんなんだから」とお小言が始まるのだ。
少しは安心させようと普段着よりは良い服で行っても、デートには着ていくタイプの服じゃないと文句をつけられた挙句「去年も同じ服きてたわね」と言われてしまった。目聡すぎる。どっと疲れてしまった。
「オレのためを思ってくれているのは分かるから、気持ちはありがたいんだがな」
「でも、たまに連絡なしにうちに来て、部屋にを勝手に見て”やっぱり男の気配がないのね”とか言うんですよ!」
「それはさすがに酷いな」
「ですよね!」
カッ、とヒートアップして、さぁっと冷めていく。母の言動には参る。けれど、私を様々な苦労の末に育て上げ、一人暮らしを始めるにあたってもたくさんの援助をしてくれたのだ。安心させてあげたい気持ちもゼロではない。
「恋人の紹介とかしたことないから、余計に心配なのかもね……」
「そうなのか」
「ネットにバトルの解説記事を上げるのが唯一の趣味なんです。出会いがあるように見えますか?」
この趣味を続けていて、広がった人間関係は全てネット上のもの。私が顔を合わせたものといえば、ノートパソコン以外にはダンデさんしかいない。
楽しくて、バトルを見たことで自分の中に広がった世界を表現したくて、バトル解説なんてニッチな趣味を続け、結果的にかなりの時間を費やして来た。だからこそ出会いがなく、恋人の一人もできなかったのかな。私は今、好き勝手してきた代償を払おうとしているのかもしれない。
「何か、恋人を作るお手軽な方法、ありませんかね」
「………」
「冗談ですよ。そんなのないって、わかってます」
ダンデさんも言っていた。愛や恋だのがよくわからなくて困る、と。私もほとんど同じだ。恋の仕方、愛の抱き方がわからずに、ここまできてしまった。そんな人間がお手軽に、なんてできるわけがない。
「オレが、挨拶に行こうか。の恋人のダンデですって」
「……はい?」
虚をつかれたのは、ダンデさんの発言内容ばかりじゃない。彼の表情は良いことを閃いた、と言わんばかりのあまりに無垢な明るさに包まれていたからだ。言うなれば、2桁の足し算が、初めてできた子供みたいだった。
「別に誰でもいいんだろう?」
「む、無理無理!」
ありえないでしょ、と思うのが私の感覚では普通なのだが、ダンデさんは冷静に問い直してくる。
「どうして?」
「どうしてって……、それは、その……」
「の目的は誰かと恋愛することじゃなく、母親を安心させることだ。一度恋人を紹介して、キミにも恋人が出来る可能性は十分にあるんだって母親が納得すれば、それでいいだろ?」
悔しいくらい指摘が的確だ。頭脳では相手にならないとなると、私が持てる武器は素直さくらいなものである。
「あまりに、ダンデさんがすごすぎるから。あなたみたいな人が私なんかの恋人だなんて、お母さん信じないと思います」
「だが、信じさせればいいんだろう? オレと」
ダンデさんが自分を指差す。私と太さの違う男らしい指、それにしては形の綺麗な爪が翻って私の首元を目指す。
「キミが」
ごくりと思わずのどがなったが、うまく飲み下せなかった唾が私の呼吸を苦しくさせた。
「恋人だと」
さすがプロのポケモントレーナー。ニッ、と口元に浮かべられた笑みが、非常に様になっている。それだけじゃない、笑みひとつで見る側のわくわくを誘うのだ。
とんでもないことをする人だと、常々思っていた。戦績だけじゃなく、バトル中の行動や選択をひとつひとつ見るたびに、想像を超えていく人だと思っていた。
だけどもこんな、珍事に巻き込まれるなんて。とんでもないことをやってのける人、ダンデと私はこの隠れたカフェで相対しているのだ。
「……勝算は?」
「もちろん、ある!」
オレも愛や恋だのがよくわからなくて困る。先ほどの発言を裏付ける少年のような瞳が爛々と光り、楽しげに私を見ていた。
私にも一度くらいは恋人ができるところを見せ、娘が心配なあまり暴走気味な母を安心させる。その作戦の決行日は一ヶ月後に決まった。先日帰省したばっかりなのに、すぐまた帰って来て恋人を連れてくるのは不自然で、ある程度のインターバルがある方が信憑性が増すから、というのが主な理由だ。
作戦会議もまた、いつも通りのカフェで顔を突き合わせながら行われた。
「やっぱり私みたいなののお相手がダンデさん、というのは信じてもらえないような気がします」
「なぜ? オレが一番適任だと思うが」
「自分がガラルで一番の有名人なの、わかってますよね……?」
「キミがそう言ってくれるのは嬉しいが。新チャンピオンはすごいぜ?」
新チャンピオンの話題が出た瞬間、彼の目の奥が疼いたのが一瞬見えた。だけどダンデさん自身が咳払いをして、話題は元に戻る。
「キミとオレの間には情報の積み重ねがすでにある」
「情報の積み重ね?」
「なんだかんだ定期的に会っていたことでオレはについて色々知っているつもりだぜ」
そうしてダンデさんは、実例を挙げ始めた。甘すぎる食べ物は苦手なこと、雨の日だと毛先がゆるくウェーブがかかってしまい、少し落ち込むこと。コーヒーじゃなく紅茶を飲んでいる時は胃の調子があまり良くない時。画面の見過ぎで目が乾きがちなこと、それで目をこすらないように最近気をつけていること。
「え。なんで覚えてるんですか、そんなどうでもいい情報」
「逆もそうだろ? だって、オレのどうでもいい情報がいくらか頭に残ってるんじゃないか?」
ダンデさんはしたり顔で笑った。彼の個人的な趣味志向、癖なんかはファンにとってはお金を払ってでも得たい情報で、どうでもいいなんて代物じゃない。だけど、彼の些細な情報というのは確かに、思い出そうと思うとぽつぽつと小さな泡のように浮かぶものがあった。
「恋人同士も、そういうものだとオレは思うぜ」
「なる、ほど……?」
「それに。本当に娘を思う母親なら、肩書き云々よりお互いが理解し合っているかだとか、気持ちがちゃんと通じ合っているかを大事にするんじゃないのか? その点は他の男が下手に演じるよりはいいだろう」
私たちはその、本当に娘を思っているであろう母親を騙そうとしているのだが。そう言いそうになったが、野暮だと思い引っ込めた。
ドリンクに口をつけながらダンデさんをそっと観察する。やはり熾烈な読み合いを要する、バトルを生業とする男だ。人を騙すことへの戸惑いはあまり感じられない。
愛とか恋とかわからないと言いながらも、恋人はこういうもの、という視点はしっかりしている。だけど、その視点の在り方はやはり、目の前の壁を分析し、攻略する者の目だ。
私の趣味は、バトルからそのトレーナーの考え方を読み取ることだ。ダンデさんのバトルにだっていくつも取り組んできた。彼のバトル上での指示、選択、仕草、実際の行動を元に彼の思考を読み解こうとしていたのだ。おかげで全てではないが、ダンデさんの考えが多少は読めるところがある。
今回の作戦に取り組む彼からは、プロのポケモントレーナーとしてのダンデの顔がちらちらと現れている。恋愛がよくわからないも、おそらく本当のことなのだろう。
なんとなくで顔を合わせ、話していれば楽しいこともあったので、なんとなく関係を続けてきた。けれど目の前の彼を見ると、やっぱりダンデさんは厄介な人間だと感じた。
「それで、終わりはどうするんです?」
「終わり?」
「本当に付き合うわけじゃないんですから。母だって、信じたのならなおさら、その後の進捗を聞いてくると思いますよ」
「そういうことは、最初の作戦が成功してから考えよう。キミの母親の反応によって、その後も柔軟に変えていけた方が良い」
それもそうか。とりあえずは目の前の嘘に集中する方が良いらしい。
私はノートパソコンでとったメモに再度目を走らせた。たとえ相手が平凡なうちの母でも、ちゃんと頭に叩き込んでおかないと、ダンデさんについていくのは難しいだろう。
「そうだ。話し方、よかったら変えてくれないか?」
「話し方、ですか?」
「恋人にならなくても、前からよそよそしいなと思っていたんだ」
確かに、とっくに知り合いの関係は脱している、と私でも思う。帰省のお土産を渡して、実家での内情を愚痴ってしまうくらいだ。
ただ、今までなかったのだ、タイミングが。流れ流れて関係を続けてきた。途中でダンデはマントとユニフォーム姿から、ダブルブレストを纏うようになり、同じく漂わせる雰囲気も随分変わった。けれど、私たちの間に流れる気安さは引き継がれてくれた。
時間が流れると同時に確かに変わっていた。だけどずっと見つからなかった、今までを変えるタイミング。それは今なのだろう。
「……わかった。ダンデ、って呼んでも?」
「ああ! ダンデと、呼んで欲しい」
新しい一歩を踏み出した、というよりは、噛み合っていなかったものが噛み合わさったという感覚だった。
恋愛は面倒だ。恋愛のフリをするのも同じく面倒だ。
ダンデと共に母親に会いにいく。それだけのために、私は以前からあまり伸びていないとわかっていながらもヘアサロンに行き、眉もチェックしてもらい、ブティックで新しい洋服を買った。前日は長めのシャワーを浴びて、早めにベッドに入った。明け方まで、眠れなかったけど。
念入りに準備したつもりが、待ち合わせ場所にたどり着いてから思った。爪にも何か塗ればよかった。
心残りはあるものの一応臨戦態勢となった私を見て、ダンデは開口一番こう言った。
「いつも通りで良かったのに」
「いつものじゃ地味すぎるよ。ダンデと釣り合わない」
「釣り……」
私なりに実際に彼氏を親に紹介するなら、をシミュレーションをした結果なのだけれど。
不可解だと、ダンデの顔に書いてある。
「普段のキミを受け入れている、そういう男の方が印象が良くないか?」
「ダンデはそういう彼氏を演じる予定だったの?」
「演じなくても、オレはありのままのキミを受け入れているぜ!」
調子がいいことを言う。気を許して、ありのままを出せるようになったわけじゃなくて、無防備だった瞬間がダンデとの出会いの瞬間だっただけなのだ。
「恋人の前ではこれくらいちゃんと着飾れますってところも、見せてあげたいんだよ」
前回の帰省で、服装のことは母親に散々突っ込まれたのだ。また同じような地味な服を着ているとのお小言はもう聞きたくなかった。
それにしても。この日のために気合を入れたのだから、一言くらい褒めてくれてもいいのに。いや、大丈夫だという彼からの太鼓判が欲しい。私だってこれで良いと安心したいのだ。だけど一言くれるどころか、ダンデは道中、あまり私の方を見てくれないのだった。
こうやって彼と出かけたのはこれが初めてのことだった。あの隠れ家的なカフェでテーブルを一緒にするだけの仲だった。そしてダンデの私服姿を実際に見るのも初めてだ。彼ほどのヒーローなら時々オフショットがSNSに投稿されたりするし、スタイリストが指定した服を着たダンデも紙面では見たことがある。今日来ている白いTシャツも、なんとなく見覚えがある。キバナさんとかのSNSだろうか。ほんとに私物だったんだ、とささやかな発見をしてしまった。
知っているけれど、初めて直に見た仕事着でないダンデ。この人の髪が風に揺れる様子だって、私はバトルビデオの中で繰り返し繰り返し見て来た。だけど、こうして微かに彼の匂いが漂ってくることは、隣を歩いて初めて知ったのだ。
さっさと結果を言ってしまうと、私とダンデの作戦は成功に終わった。
やはり私が連れてきた男性が本物のダンデと知るなり、母は腰を抜かしそうになって驚いていたけれど。最終的には母は私にダンデという恋人ができたことを信じたのだ。
母から解放されて、今はシュートシティへの帰り道。実家もだいぶ遠くなってきたものの、まだ手足の先には緊張の名残があって、時々ふるりと勝手に震えた。恥ずかしさはありありと思い出される。
でも、今日のことを思い出すと感嘆してしまう。
「ダンデ、すごかったなぁ」
「何がだ?」
「お母さんからの質問だよ。あんなこと、よくスラスラ言えるね」
ダンデの推測は予想以上に当たっていた。母は相手があのダンデということだけでは満足せず、色々とダンデに質問を浴びせて、私たちが本当にお互いを理解しあってるかなどを知ろうとしてきたのだ。
例えば付き合ったきっかけ。私の良いところ、心配になるところ、などなど。恥ずかしいことを聞かないで欲しいと母を止めようとしたけれど、母だけでなくなぜかダンデにも制止を受け、私は恥ずかしい問答を耐えて聞くはめになった。
母親からの質問責めに、ダンデは全て、淀みなく答えてくれた。
付き合ったきっかけは『気づけば自然と』、良いところは『優しさと思慮深さ』、心配になるところは『集中してる時の無防備さ、自分への頓着のなさ』だった。
「真に迫ってただろ? 事実を交えてるからな」
「うん。お母さん、嬉しそうだった」
やはり私みたいなのがあのダンデを捕まえてくるなんて現実離れしていたようで、最初は相当疑われた。けれど最後、私とダンデを見送る母の顔は、ここ数年で一番柔らかかった。
一応恋人の前では娘の体裁を守ろうと思ってくれたのか、お小言も一度も言われることはなかった。
「ダンデ、ありがとう」
私たちの関係は嘘だ。母親を騙しはしたけれど、少し安心してくれたのだろうかと思うと、罪悪感よりもやって良かった、という感情が勝った。
「良かったな」
「うん、良かった」
確かに、その帰り道ではダンデは私に同意して笑ってくれていた。笑顔も柔らかそうな髪も、夕焼けに揺れていて、美しかった。落ちる陽までが今日は良い一日だったと祝福してくれているようで、幸せな気分に満たされた。ダンデの髪色と夕日の茜色の対比が、目の奥の奥まで焼きついた。
だけど、それがしばらく、私が最後に見たダンデの姿になった。その後ダンデさんはカフェにぱったり姿を現さなくなったのだ。
いつものカフェでダンデと待ち合わせをしたことはない。いつだって彼の方から現れて、自然と相席となって会話していた。
常連だったこのお店に来られないくらい忙しいのかもしれない。そう思いつつも、多忙が原因ではないという予感があった。あの日、もしくは前後の出来事が境界線となって、ダンデの何かを変えたのだろう。
母親からの面倒な干渉から逃げたいがために、一時の安寧を得るために、私はダンデとここで過ごす時間を失ったらしい。話し言葉を崩し、”ダンデ”と呼ぶようになった矢先だったのに。そう思うと、悔しい気持ちがある。
だけど思い出すまでもなく、私は地味な趣味に時間を費やす地味女。対してガラルの人々のために身を粉にして働き、王冠に相応しい輝く王様だ。生きている世界の差を感じると、私のささやかな寂しさは、一息で吹き飛んでしまうのだった。
現実を受け入れつつあった矢先。私に電話がかかってきた。ダンデではない。母だった。
『、元気?』
電話の差出人、母の声を聞いた瞬間、頭をよぎったのはダンデとついた嘘のこと。それからあの日ばかりは隣を歩いていた、ダンデのことだった。
『?』
「あ、うん、元気元気。ていうかこの前会ったばかりじゃない」
『それもそうね』
適当な返答をしながら、私は母から追及がきたらどう答えようかと考えていた。
私とダンデは、この嘘の終わり方を決めていなかった。私としては一度限りで終わり。つまり次に母にダンデのことを聞かれた時、適当な理由をつけて”別れてしまった”と告げるつもりだった。まあ実際のダンデとの関係も”別れてしまった”感じになっている。
だけど、母との会話は予想していたようには進まなかった。
『に言いたいことがあってね。あなた、ダンデさんのこと、真剣に考えてあげなさいよ』
「え、うん」
『ダンデさんはあんなにのことを考えてくれてるのに、と来たら……横でへらへらしちゃって』
母はやけに真に迫った、またお小言に近い声色でダンデの肩を持つのだ。まだ私、何も近況を伝えてないのに、私に誠実であれと言いたいようだ。
「あの、お母さん。私とダンデさんはもう……」
『何も言わなくて良いから! はダンデさんの気持ちに真剣に向き合ってあげてね』
それから二、三、いつもの母とのやりとりを終えて電話は切れた。意味がわからない。それが私の素直な反応だった。だって、真剣に向き合うも何も、ダンデさんが母に見せたそれは全て嘘なのだ。母が言うダンデさんの気持ちなんてものも、存在しないのだから向き合えやしない。
それに母の小言通りにしようとしても、私から彼に会いに行く手段はほぼ無いのだ。
チャンピオン・ダンデではなく、タワーオーナー・ダンデでもなく。私の向かいの席に腰をかける、ちょっと気が抜けた様子のダンデに会う手段はただひとつ。あのカフェに通い続けることだ。
ダンデが向かいの席に現れなくとも、私の趣味は変わらないのだから、今までと同じ行動を続けるのも自然なことだった。
ノートパソコンを開き、バトルビデオを再生する。他の人のバトル解説も読んで、自分の目で確かめて見る。気付いたことをメモしていく。
バトルを通してトレーナーを見ることは楽しい。と同時に、私は知りたかったのだろう。ダンデのバトルを見るときは、バトルの中に彼の核となる考え方なんかが埋まっているような気がして、必死に目を凝らしすのだ。
だけど、ここ最近思い浮かぶのは、バトルを見ずとも触れられそうな距離にあった彼のことだ。近くに、ずっと居たのに。今はいない。
気づけば、ビデオの再生が終わっていた。それどころか操作していない時間が長かったようでパソコンの画面も暗く沈んでいる。慌ててキーと叩くとほとんど進んでいない画面が映し出された。自分が集中できていないことは明らかだった。
指一本一本が鉛になったように重くて、動かなかったのだ。こういう日もある、と自分に言い聞かせる。帰ろう、また時間を作って来ればいい、と自らを励ましながら、ノートパソコンを閉じた時だった。
久しぶりに対面した、真紅のダブルブレスト。彼は空けてあった、対面の席に座った。
ダンデは自分の紅茶を一口も飲まずに、私の向かいで沈黙する。厚めの唇が、硬く結ばれている。珍しく見る、緊張を滲ませる面持ちだった。
「……忙しかった?」
そうであって欲しかった。
ダンデは肯定も否定もせず、頭を下げた。
「すまなかった、顔を出せなくて」
謝られることは何もない。私は小さく首を横に振った。
「終わらせ方の話をしておかなくちゃ、キミに迷惑がかかると思ったんだ。そっちの様子はどうだ?」
「母のことなら大丈夫。一応、疑ってはいないみたい」
「一応? それじゃキミが困るな」
「心配しないでいいよ。言ってることがちょっと掴めなかっただけだから」
話し始めると、重く私の肩にのしかかってきたものが解れていく。声が楽に出せるというか、呼吸を思い出したみたいな感覚だった。
ダンデはまだ、わずかに緊張を見せている。
「この前、電話があってね。母はダンデのこと結構気に入ったみたいだった。ダンデの気持ちに向き合えってやけに真面目になって言ってたよ」
「そうか。……他には何て言っていた?」
「他に? えっと……」
数日前の母の電話を思い出す。“ダンデさんのこと、真剣に考えてあげなさいよ”、”ダンデさんはあんなにのことを考えてくれてる”。こうして見ると、母は随分ダンデの肩を持つ。それに”と来たら横でへらへらしちゃって”なんてのも言われたんだった。
思い出せる限りを伝えるとダンデは重たく息を吐いた。
「キミの母親は、案外、全てを見抜いているかもしれないな」
「え?」
「オレたちの関係が嘘だと気付いているんじゃないか?」
「そんなわけない!」
寝耳に水で、思わず椅子から腰が浮く。
「な、なんで? どうしてダンデはそう思うの? 嘘ってわかってるなら、それこそ”真剣に考えてあげなさい”なんて言い方がはしないと思うけど! それに、それに……」
私とダンデを見送って来れた母親の、ホッとした顔、ゆるく下がった肩を思い出す。嘘に気づいていて、あんな肩の荷が下りたように笑えるものか。
それに私は母のそんな表情を見られて、嬉しかったのだ。信じていた状況が覆されて、うろたえる私に対し、ダンデはあくまでも冷静だった。
「お母さんのあの反応も、嘘だって言うの……?」
「喜んでいたのは嘘じゃないさ。娘を真剣に思っている相手が現れたんだから、安心したんだろう」
びしり、と体が固まる。頭のてっぺんからつま先までが、痺れたみたいに。なのに視界はぐらぐらと揺れる。
「もしくは、片側だけが相当惚れ込んでいる、そういう恋人同士に見えたんじゃないか? 例え想い合っているというのが嘘でも、オレには本物の気持ちがあるって気づいたんだろう。そしてはオレをパートナーとしてはなんとも思っていないことも見抜いていたんじゃないか? それなら君の母親の反応も納得がいく」
「あ、あの、ダンデ……?」
「。オレはキミのことが随分好きだったようだぜ」
随分長く、息が止まっていた。私の息が。
もちろん死んでしまったわけではないので、しばらくしたら苦しくなって、呼吸は荒く再開された。数回、たっぷりの酸素を補給して、何か、何かしらを言おうと必死になる。
「私もしかして告白されてますか、って聞こうと、思ったのに……」
ダンデは、ふむ、と思案顔の後、からりと笑った。
「愛を伝えに来たというよりは、オレの勝手な打ち明け話だな」
「い、いつから……?」
「キミのお母様と話し合ううちに気づかされていった。いや、その前にもふと、感じるものはあった」
「感じる、ものですか」
ですか、と聞いたのは気まずさからだった。だけどダンデは私の語尾に敏感に反応して、口元は笑んだまま、切なげに眉をしかめた。
「できれば話し方を戻さないでくれ、距離を取られると傷つく」
「え、ああ。そういうつもりじゃないから、気にしないで」
「本当か?」
「うん、大丈夫」
全く他意のない言葉回しだった。数回頷いて安心してもらいたかったが、まだダンデの表情から切なさは拭われない。
「……完全に気づいたのは、キミと別れてからだ。一人で帰路を歩いているうちに、キミのことが次から次へと浮かんで来て、別れたことを後悔した。キミの家まで送ればよかったと考えるうちに、ドアの向こうまで入るつもりになっていた。ほら、オレは道が覚えられないから。一度のチャンスを逃したくなくなるだろうなって」
つまり私の家に来て、中に入りたくなった、と。自分で言ったことを後から気づいたダンデは、慌てたように、私の動きに待ったをかけるように両手のひらを広げた。
「ああ、怖がらないでくれ! いけないことだというのはもちろんオレでも分かってるぜ! 一人暮らしの女性の家だもんな! 大丈夫だ、立場は弁えるつもりだ!」
「分かってるから、お、落ち着いて! 怖いとか全然思ってないから!」
「ほ、本当か?」
「うん」
「そうか……」
「………」
ダンデがあまりに必死に力説するから驚いてしまった。むしろダンデなら、家まで来たら我が家で一番高い紅茶を出しておもてなしするくらいだ。話をぶり返したらまた、ダンデが慌て出しそうで言わないでおくけれど、私は彼自身が思うよりずっと”ダンデ”という人間を信用しているつもりだ。
「ええっとだな」
「うん」
「つまり言いたかったのは、色々考えてしまっていたことで、オレは気づいた。なるほど、好きなのか、と」
「………」
「気づくと、そこから全てのつじつまが合うんだ。オレの色んな全てに、理由がつくんだぜ。あんなに純粋にキミの話を聞いていられた、キミに会いにいく理由ももっとシンプルだ。顔が見られればそれで良かったんだ。今から思えば明らかに”好き”だよな」
はは、と乾いた笑いが向かいの席から上がる。
「好きだと気付いたのが別れた後だが、好きになったのは実際はもっと前のことだったんだろうな。もっと言えば多分最初から、興味を抱いた時から、そうだったんだろうな……」
「そうなんだ……。私は、ただ、話し相手を欲してるのかと」
「オレもそう思ってた」
それからぽつりと、ダンデは「愛だの恋だの、ずっと近くにあったんだな。理解したくなかったぜ」と呟いた。私に聞かせるためではなく、途方にくれた迷い子の泣き言だった。
どうやら彼は完全に自分の気持ちを整理しきったわけではないらしい。
ダンデが私の前に現れなかった期間、彼は元気なんだと思っていた。心身ともに問題はなく、リーグ委員長としての仕事をバリバリこなしているものと、信じ切っていた。だけど目の前のダンデはそんなイメージを粉々に打ち砕く。
「なにせ初めてのことだったから、最初はオレもあまり自分の気持ちをどう扱ったらいいか分からなかったんだ。だから知り合いに聞いた。オレがしているのはもしかして恋だったのか聞いたら、そうだと言われた。脈アリかナシかで言うと、ナシと断言されて、ショックだったぜ」
「そ、そうなんだ」
「でも、”だからと言ってオマエは諦められるのか?”と問われると、答えは決まっていた。だから今日、来たんだ」
ダンデは、一度きゅっと唇を結んだ。指たちは膝の上で祈るように組まれていた。それから自分の持って来たドリンクを飲み干し、カップを置いたその流れで私に問いかけた。
「またキミに、会いにきて良いか?」
ああ、ドリンクを飲み干したのは、多分、すぐにお店を出られるようにだ。そう気が付いた。私の答えによっては、ここからすぐさま姿を消さなくてはならない。ダンデはそう考えているのだろう。
「ここは、私だけのお店じゃないから。ダンデが来たい時は好きにしたらいいと思う」
「。そういう意味じゃないんだ。次に現れるオレは、ハッキリと、キミだけに会いたくて来るんだぜ。そんなオレを許してくれるか?」
私は思わず息を飲んだ。この人のバトルを、どのファンに負けず劣らず何度も見て来た。向かいの席に座っての雑談でだって、何度も変わる表情を見て来た。下手したら親の顔より、自分の体のパーツよりも彼を見ているかもしれない。
だけどまだ、知らない、見たことのないダンデの表情が目の前にあった。懇願する顔、濡れた瞳。それが私をまっすぐに見つめている。気づけば私は返事をしていた。
「だめな理由は、ないけど……」
相応の覚悟を持った問いに返すには、あまりに曖昧で、申し訳なくなるような返事だった。でも、ダンデは手のひらで一度顔を隠しぐっ、と息を飲む。次、上げた顔は笑っていた。
「それだけで幸せだ!」
ダンデが来るとしても、私の趣味は変わらない。ノートパソコンをカフェに持ち込んで、カウンター席ではないところに陣取る。飲み物が用意されると、私は書きかけの記事を呼び出した。
最近はまたバトル環境が変わって来たそうだ。予想と指摘を繰り広げる記事はもういくつも出回っていて、私の勉強することも増えてしまったらしい。知識を仕入れても仕入れても、環境は次へと移り変わる。途方もなさはある。けれどこの奥深さが楽しいところであり、この趣味やめられない理由だ。
特にバトルタワー内のバトルは、コアだけれど面白い。華々しいスタジアムの舞台と違って、バトルタワーは玄人向けだ。
ダンデのバトルはより複雑になり、私でも色々と他人の意見を見聞きした上でないと掴みきれない戦術もある。だけど目が肥えたファンを十二分に楽しませてくれる。そしてもっと、知りたいと思わせてくれる。ポケモントレーナーたちには彼が”ここまで来い”と言っているように聞こえるとのことだ。
パチパチとキーを叩く単純作業。でもこれに集中できている時間はとても楽しい。それに、じきにダンデが来る。意識すると、高揚する気持ち。
彼は私に会いに来る。私はそれを待っているのだ。いつかは多くのものを背負ったマント。今は真紅のダブルブレスト。だけど手首は変わらない、ダイマックスバントをつけた右手が、向かいに開けて置いた椅子を引く。
「待ってたよ」
ダンデをその言葉で向かい入れたのは、初めてのことだった。初めての言葉に、彼も虚を突かれたのだろう。腰を下ろしかけたところで、一時停止していまった彼を私は笑った。新しい一歩を踏み出した、というよりは、長年噛み合っていなかったものが噛み合わさった、という感覚だった。
おしまい
(「ダンデのお話をとても読みたいです」とのリクエストありがとうございました。前編のみで話を切るつもりだったのですが、恋に気づくダンデさんが見たくなって長々と続けてしまいました。読んでくださり、ありがとうございました)