(簡単に説明すると、ヒロインがククイ博士に救いのない片思いをしてると勘違いしてるマーレインさんと、脈なしマーレインへの長年の片思いがやめられないヒロインのシリーズの4話目です。)





 長年住み続けた賃貸のアパートにライド用のケンタロスが突っ込んだ。その一報を聞いた時、もしかしたら、とは思っていたのだ。そのケンタロスの突っ込み方によっては、私は引っ越さねばならないのではないか、と。
 悪い予感は当たるもの。ケンタロスはアパートの大事な柱をいくつか突き破ってしまったらしい。今は急遽呼んだキテルグマのトレーナーに補強工事をお願いし、かろうじて建っている状態だ。
 大きな風穴の空いたアパートを背に、大家さんが頭を下げる。

さん、本当にすみません……」
「いえいえ、ケンタロスも含めけが人が誰もいなかったのだから不幸中の幸いですよ。それで……、やっぱり住み続けるのは難しい、ですよね」
「はい。ここまで来たら一度取り壊して、建て替えたいと思ってます。住み続けるのはどう見ても危ないですし、費用は負担しますので引っ越ししてもらうしかないかと」
「です、よね……」

 やはり、そうなるか。ツギハギになってしまったアパートを見上げ、私は肩を深く、深く落とした。
 住み慣れていた住居を唐突に失う。まだ悲しみなどの分かりやすい感情は沸いてこない。ただただショックで、途方に暮れてしまう。

「長年お世話になってましたし、気に入っていたので。残念です」

 絞り出すようにそう言いながら、私が真に心惜しく思うのは住処を失うことではなかった。スカートのポケットの中で、チャリ、とそれが音を鳴らす。私にとって本当に残念なのは、この家の鍵を、手放すことだった。




 過去の話。どれくらい過去かと言うと、マーレインはキャプテンじゃなく、ククイもポケモン博士ではなかった頃。バーネットは研究室内では出来が良く目立つ存在だったものの下っ端だった。というか、私たち全員が一律で”大人の中の下っ端”だった頃の話だ。

 名高い学会を控え論文を仕上げるべく、連日の徹夜を乗り越えた私は絶賛体調不良だった。体が悪いせいで心が暗いのか、何も考えられないほど心が暗いから体の様々な調節が効かなくなっているのか、はたまた両方か。とにかくとてつもない疲労やだるさを押し殺して研究室に顔を出したところ、薔薇色の頬をしたバーネットから報告を受けたのだ。ククイとついに結婚を決めたということだった。
 嬉しさと驚きと、感動と。だけどそれらが体調の悪さが悲惨なほどミックスされて、私はおめでとうを一言伝えるとついに倒れてしまったのだ。

 その後のことはあまり鮮明ではないのだけど、どうにか家に運んでもらったらしい。バーネットが色々と面倒をみてくれたのをうっすらと覚えている。
 バーネットの心配っぷりはなかなか深刻だった。だけど自分の研究もあるのに、いつまでも私の面倒を見させるわけにはいかない。そう危惧した私は、薬が効いた一瞬で彼女を帰らせねばならないと決意した。

『もう大丈夫だから! ありがとう、バーネット!』

 私は全力でからげんきを見せて、バーネットを帰らせた。ドアが閉まるまでは精一杯の明るい笑顔で彼女を送り出し、ドアが閉じた瞬間、私は鍵をかけてベッドに這い戻ったのだった。

 うんうん唸りながら寝て、起きた一瞬でトイレと水分補給を済ませてまた寝て。二日を過ごした後、ようやく起きていられるようになった。彼女を送り出したときには朦朧としすぎて気づかなかったが、お鍋の中にスープが用意してあった。それに机の上にバーネットの書き置きも残されていた。バーネットは私への気遣いを綴り、最後には「いつでも呼んで!」の部分を強調してあって、励まされた。

 動けなるなるほどの疲労には参ったが、論文はとりあえず出すところに出し、特にやらなければならない研究もないことが救いだった。散々頑張った後なのだ、存分に休ませてもらおう。そう思った私はスープを飲み、再度家でたっぷりの睡眠を仕込もうとベッドに入った。そこで誰かから連絡が来てないかとかを私も見ればよかったのだけれど、とにかくベッドで休みたかったのだ。
 シーツにくるまった瞬間にうとうとっと眠気がやってきた。それまで散々寝ていたので、眠れたのは小一時間くらいだろうか。目を開くと、驚くことなかれ。私の家に、マーレインが部屋に来ていたのだ。

『なんで』

 鍵をかけたはずなのに、どうしてマーレインがここにいるの、という疑問が沸いた。だけど驚く気力もなかった私は一言小さく問うだけになってしまった。対してマーレインは、大いに焦って挙動不審になり、その長い手足があちこちに当たりそうになっていた。

『ご、ごめん!』
『どうして……?』
『あの日倒れてから、誰もきみと連絡が取れないって聞いて、心配だったんだ、ごめん。電話を入れても一向に連絡がないし』

 枕元を探って端末を取り出すと、確かに私が倒れたことを知る友人たちから少なくない数の連絡が入っている。マーレインからここ数時間で繰り返しの着信が入っていた。こんなに連絡をくれていたとは、意外だ。

『もし家の中で倒れでもしてたらと思ったら、顔を見ないと安心できなくて』
『そうなんだ』
『本当にごめん、気づかれないうちに出て行くつもりだったんだ』

 気づかれなければ勝手に人の家に入って良いというわけではない。私がこの状況を許しているのは他の誰でもなく、マーレインだからなのに、彼は気づくことなく慌てふためていている。

『でも鍵は……?』
『う』
『ちゃんとかけて寝たと思ったんだけど』

 こっちは女性の一人暮らしなのだ。記憶はおぼろげながらも戸締りには気をつけている。また眠り続ける前も鍵を回し、カチャンと音が鳴った記憶もある。
 マーレインはバツが悪い顔をしながら、白状した。

『実は、鍵を持っているんだ。いや、いや違うんだ! 試したんだよ。その、ぼくのクレッフィが持ってる鍵が、もしかしたら合うかもと思って』
『あ、そっか』

 クレッフィ。その名を聞いて、途端に腑に落ちた。クレッフィときたら、言うまでもなく鍵好きだ。一体どこのものかもわからない鍵をずっと集め続けているポケモンである。
 確かに私は、ここに引っ越してから早々に合鍵をなくしていた。合鍵が行方不明だなんて、本来はすぐに鍵を変えるなどして対処した方がいいとはわかっていた。だけどヒヤリとしつつも、自分の研究が忙しく、いつの間にか忘れていたのだ。
 クレッフィの仕業なら納得だ。しかもクレッフィの持ち主がマーレインなら、なおさら安心だ。

『ごめん、本当にごめん……!』
『いいよ。心配してくれたんでしょ?』
『うん……。ぼくに言いたいことがあるなら、いくらでも聞く。だから元気になってから、いくらでも言って欲しい』
『ふふ』

 マーレインは私に怒る気力が無かっただけと思ったらしい。私は単純に嬉しかった。辛い時にマーレインに会いたい、甘えたいという欲求が、その日ばかり許されたのだから。
 それに、好きな人に顔を見なければ安心できないとまで言われて、心配してもらったのだ。私の安否が不明な間は、マーレインの頭の中は私のことを考えていてくれたのかも。にやけそうになる顔を隠すため、私はシーツを鼻の上まで引っ張った。

『何かして欲しいことは?』
『んー、そうだねぇ……』

 いてくれるだけで、なんだか幸せ、とは言えなかった。顔を半分隠しながら、私の家の中で、その丸い背中を見るという夢が現実になる日が来たことにも、ベッドの中で驚いた。まだだるさを訴える体に、じんわりと幸福感が染み入っていった。

 甘い偶然を引き寄せてくれたあの鍵は、幸運にもマーレインのクレッフィに連れて行かれてしまったあの鍵は、結局今日まで返してもらっていない。マーレインも忘れてしまったようなので、私も忘れたふりをしていた。

 だって、鍵を返してもらったら、自分からまたマーレインが来てくれるかもしれない可能性を潰すことになる。
 都合よくも、私はときめいたのだ。自分が弱った時にかけつけて、優しくしてくれたマーレインに。だったら合鍵を預けたままにして、また来てくれるかもしれないという期待を抱きたかったのだ。
 もちろんあの鍵は、2度と使われることはなかったけど。




 ノック数回の後にドアを開けると、悪くはなってないけど、良くもなってない猫背が振り返る。大人の下っ端だった頃に比べると、本人は体が硬くなったと言っていた。確かに少し、体にゴツゴツとした部分が増えたような気がする。だけど、ふにゃりとした笑顔は変わらない。

「やぁ、か。珍しいね」
「まぁね。はい、差し入れ」

 紙袋の中身を突きつけると、マーレインは無邪気な笑顔で中身を取り出す。小包装された薄焼きのクッキーが、缶の中にぎっしり詰まってるのを見て、彼の笑みはまた深まった。

「すごいね、どうしたんだい? 今日はいつになく豪華だなぁ」
「これなら天文台の他の人にも配れるし、あと私も味見する予定」
「どうぞどうぞ。お茶を入れるから座ってよ」

 お言葉に甘え、私はソファに腰掛けさせてもらう。彼が時々ここで寝てるであろうソファだ。

「ご用件はなんだい?」
「マーレインのクレッフィに会わせてくれるかな?」
「それはまた、どうしてだい?」
「引っ越したの。だから大家さんに鍵を返さないといけないのよ。確かマーレインのクレッフィが合鍵を持ってたと思って」

 合鍵の行方を常に意識していたくせに、我ながら白々しい。そういえばそうだったね、と肩をすくめるとマーレインがボールを取り出した。出て来た彼のクレッフィに、私はクッキーを差し出しながらお願いした。

「クレッフィ、お願いがあるの。私の鍵を返して欲しいの」

 鍵集めが大好きなクレッフィだ。素直に返してくれるかは不安だったけれど、黒い瞳がじぃっと私を見つめた後、一本の鍵が机に置かれた。私が長年使って来た鍵と同じ色、形をした、まさに合鍵だった。
 クレッフィに感謝を伝え、私はその鍵を受け取った。ずっと、私に金糸のような期待を握らせてくれた鍵を、握りしめたあと、カバンにしまった。

「でもどうして引っ越したんだい?」
「なんでだと思う? マーレインにも予想がつかないと思うなぁ」

 私にとってもまさかの事態だったのだから、マーレインにもわからないだろう。ニヤニヤと彼を見ていたら、なぜかマーレインは緊張した面持ちになった。

「あのね、ライド用のケンタロスが家に突っ込んで、住めなくなっちゃったの」
「それはそれは……、大変だったねぇ」
「乗っていたトレーナーも急な体調不良で、不幸な事故だったみたい。けが人はゼロなことが救いかな」
「……ククイは知ってるのかい?」
「うん。引越し、手伝ってくれた」
「えっ」
「一人でどうにかなるでしょって思ってたけど、ククイが来てくれて正直助かったなぁ」
「………」
「私はククイには言ってなかったんだけど、バーネットから伝わっちゃったんだろうね、きっと。それでバーネットに命じられて手伝いに来てくれたんじゃないかな。ククイって、ほんとバーネットに弱いよね」

 ねぇ、と同意を求めようとして振り返ると、マーレインは私に背を向けていた。
 話しかけていたのが跳ね返されたようで、私も思わず動揺する。しかもよく見ると、その背中から、暗いオーラが漂って来てるではないか。

「ま、マーレイン……?」
「どうしてぼくは呼んでもらえなかったのかと思ったけど、よく考えたら当たり前で笑ってるんだよ」

 しまった。マーレインは時々自分の体型を嘆いているようなのだ。いくら食べても太れない。それは羨ましい限りなのだけど、ごく稀にククイと自分を比べて自嘲している時がある。

「いやいや、ほら、マーレインはいつも忙しいでしょ!?」
「ククイだって、同じくらい忙しくしてるよ……」

 マーレインは画面の方に顔を向けたままこちらを見ない。あちゃあ。私は自分の顔を手で覆う。変なところで落ち込ませてしまった。
 どうにかフォローをしようと言葉を選んでいる隙に、マーレインは他の研究員に呼ばれて、肩をいつもより深く落としながら出て行った。

 マーレインが出て行って、私も深いため息をついた。迂闊なことを口走ってしまった。反省するとともに、私もちょっぴり落ち込んでしまう。
 ククイはあの性格もあってとにかく気安い。けど、マーレインにはうまく頼れないのが私なのだ。今更気づいた、確かに私は失敗している。
 マーレインに頼ればよかった。いつだって一番助けてほしいのは、求めている手のひらを持っているのはマーレインなのだから。

 だからこそ、あのベッドから動けず苦しかったはずの一日は、輝いた記憶なのだ。

「クレッフィ、おいで」

 呼ぶと、大切に集めた鍵を鈴のように鳴らしながらクレッフィは来てくれた。いたずらごころの持ち主だが、マーレインに大切に育てられたこの子は素直で可愛らしい。

「さっきはアパートの鍵を返してくれてありがとうね。代わりにこの鍵、あげる」

 手のひらに乗せて差し出した新たな鍵。それは私の引っ越し先の部屋に通じている。
 以前まで使っていた部屋の鍵は、大家に返さなければいけない。その代わりに、私の次の部屋の鍵をクレッフィ、もといマーレインに預けに来た。これが今日マーレインを訪れた、本当の目的だ。いつもより豪華な差し入れは、罪悪感の現れだったりする。

 私は過去の一日にあった幸せを、忘れられずに生きている。その記憶が崩れてしまうと思うとやはり不安になって、我慢なんてできなかった。やっぱり、私の部屋の合鍵は一度も使われなくていいから、マーレインの元にあって欲しい。
 そんな私の思惑なんてつゆ知らず、クレッフィは目を輝かせて受け取った。その細い腕をすぐさま通して、真新しい鍵が手に入ったことを飛び回って無邪気に喜んだ。

「あはは、かわいいねぇ」

 あの出来事は私が倒れるところをたまたまマーレインが見ていたから起こった、ただの偶然だ。
 私たちはもう別々の職場で働き、別々に生きている。次にマーレインが来ることもないだろう。
 だから、引越し先の鍵を渡したのは、完全なる自己満足だ。私が困った時、弱った時、どうしても彼を求めた時。都合よくマーレインその人が現れることが、万が一あるかもしれない。その一筋の可能性が、今日と、それから明日からの私を生かしてくれるのだ。




(「マーレインさんの話の続き」というリクエスト、ありがとうございました)