ぼくたちはすっかり大人になって、人生の主役ではあっても、この世界の主役ではなくなって。漫然と日々を過ごす中、に会いたいと思うことは、案外少ない。
 ただ、顔が見たいとはよく思う。遠くからでいいから、無事な姿を確かめたい。無理してないか、無茶してないかと、日々の中で無数に考える。顔が見たいを100回繰り返すと、そのうち1回くらいは図々しく願いが肥大して”会いたい”になる。

 その1回が訪れたその日は、おそらく今までで一番、最悪なタイミングだった。
 ぼくの研究とは関係のないものごと、メリットは認めるもののやりたくない事、その他、多分責任はぼくなんだろうなぁと見え透いた泥舟。あまり見たくないどころか、見ないようにしているんだけど、今回ばかりは逃げられなかった。悪いタイミングで、ポケモンボックスの定期メンテナンスも重なった。
 あれやこれ、ややこしい物事がたくさんあったのだけど、とにかく、とてつもなく多忙な時期が続いていたということだ。
 忙しくなってしまったのは仕方がないので、動じない気持ちを保って、ひとつひとつの物事を淡々とこなす。それでも疲れないわけではない。疲労はどんどんと積み重ねられる。
 溜まった疲れは、ぼくから柔らかさを奪っていく。物の味がよくわからなくなって、コーヒーや栄養剤では追いつかなくなって、寝ても体の痛みがとれなくて、今日の曜日を忘れる。

 そんな時に、”は無事だろうか”が、”会いたい”に変化してしまった。
 フラフラと手が勝手にキーを叩いてマウスを操作する。そこに理性的な判断は何もない。頭のどこかがものすごく早く動いているような感覚もあるが、無我の境地だった。
 なんだっていいから。とにかく。はやく。そんな言葉がガンガンと頭の中で鳴る中、ぼくは映画のチケットを二枚買った。
 そしてその内の一枚を、に送信する。

『ホクラニ天文台が撮影協力した映画のチケットが余ってしまったので、良かったら見てください』



 彼女に送った、映画チケットはいわゆる前売り券じゃない。時間帯は金曜夜のレイトショー、座席も指定済み。そんなチケットを渡したのだから、は誘い出されるように夜の映画館に現れた。

 先に隣に座っていたぼくを見るなり、は固まった。数秒、沈黙した彼女の肩からずるりとカバンが床に落ちる。

「え、連番なの」
「いや、それはその」
「あー……、わかった!」

 は意地悪く目を細める。どき、と二つの意味で胸が詰まった。

「マーマネくんと行く予定だったんでしょ!」

 なるほど、そうなるか。確かに最近のぼくはマーくんに色々やらせてあげたい、見せてあげたい気持ちで行動していることもある。の推察は、普段なら良い線を行っているところだ。
 内心は驚きつつも、平然とぼくは頷く。

「うん、そうなんだよ」
「だめだよ、こんな時間に誘ったら。マーマネくんがいくら天才でも、まだ子供なんだから。夜更かしは彼の成長にも関わるよ?」
「そうそう。うっかりしてたんだ。映画館側も、この時間帯は未成年は入れないからね。だからチケットが無駄にならないようにきみに譲ったんだよ」

 最初から最後まで嘘ばかりである。確かにホクラニ天文台の撮影協力はぼくが確認した上で許可を出したものでもあるので、この映画を一度見ておきたいなとは思っていた。だけど、それこそ忙しくてマーくんを誘う余裕はぼくにはなかった。
 マーくんを誘う余裕はなかったくせに。ぼくはそんな切羽詰まった状況でも、彼女を巧みに、自分の隣へ引っ張ってくる手配はできるらしい。我ながら悪どいなぁ、と息を吐いた。

 も、ひとつため息を吐いた。「仕方がない」とでも言うようだ。それから、落ちていたカバンを拾い、指定された席、つまりぼくの左隣に座った。
 映画館のしっかりした椅子は、隣に彼女が座った衝撃も綺麗にならして、ぼくには伝えてくれない。ただ、座るといつも見るよりかは目線の高さが合うようになる。

「でも一緒の回を見るならそう言ってくれればよかったのに。他に何にも言われないから、私、すっかり一人映画のつもりでいたよ」
「……そっか」
「そうでしょ」

 は軽く言う。でも、ぼくと映画を観に行こうと正面から言う勇気はなかったように思う。彼女は仕事終わりの息抜き程度に思っているだろう。もちろん待ち合わせるぼくは旧友だ。
 けれど、ぼくから言い出すとそれはデートのお誘いになってしまう。それも、かなり真剣なお誘いに。

「あの時は随分疲れてたからなぁ。考えつかなかったなぁ」
「え、ほんとに大丈夫? 私でよかった? 判断間違えてない……?」
「どうしてだい? ぼくはでよかったと思ってるよ」
「あ、そう……。まあ長い仲だし、便利に使ってよ」

 彼女を便利な相手だと思ってあまりのチケットを送ったわけではない。むしろしか目当てじゃなかった、と一緒の映画見るためでもなく、の姿を確認したいがためにぼくはお金を払ってメールを送った。

 話はそこで終わりになった。スクリーンの幕が横に引き、劇場の照明が落ちたからだ。
 上映されるのは人気小説を映画化したもの。流行りの俳優と女優はどちらも若い。10代だろうか。断片的にホクラニ岳や、天文台周辺で撮ったと思われるシーンが挟まれる。
 メテノやダンバルが多い中、上手に撮影してるなぁ。ぼくがズレた感想を抱く中、ストーリーは進んでいく。

 とにかくに会おう、会いたいと思ってネットでチケットを買っていたぼくは、あの時はほとんど何も考えられずにいた。だが映画という選択はなかなか良かった。約90分あまり、は無言でぼくの横にいるのだから。
 半分で自分を褒め称え、半分でぼくは自分自身を嘲笑した。
 彼女の言う通り、同じ映画を見ようと伝えていたら、もっと長い時間を談笑して過ごしていただろうに。

 好きじゃなかったらな。馬鹿の一つ覚えみたいな恋じゃなければなと、思いを馳せる。ぼくの方にやましささえ無ければ、多分この映画にぼくも行くんだと伝え、誘えていたんだろう。
 ぼくはもう大人になってしまったなと思う。身の回りにぼくがやるしかないんだろうなぁ、という物事に周りを囲まれている。でもこういう時には染み付いた臆病さにやられてしまう。ぼくは彼女にとって二番手かどうかも怪しいのだ。その気持ちがぼくの手足を鉛みたいに重たくさせる。

 に会いたいと思っていた。ちょっと近くで顔が見たい。今夜はきみに会える。期待に胸を膨らませていたぼくが想像していたのはきみの笑顔とか、真剣に考え込んでるところとか。目を細めスクリーンの中、何かを見ようとしてるところだったのだけど。

(泣きそうになってる顔もいいなぁ……)

 彼女が心配だとか言っていても、結局ぼくはそんなに綺麗な心の持ち主じゃない。彼女が心を痛めてる様を、栄養素にしてしまって吸収している。
 彼女の感動を、こういう映画で泣けるひとなんだな、と冷静に観ているぼくもいる。だけど、がスクリーンに見入れば見入るほど、ぼくもから目が離せなくなっていた。

(でも、あんまり見るのは失礼だよね)

 はっ、として、でも呼吸は穏やかに抑えたままで、ぼくはスクリーンに目を戻した。じろじろ視線を送るのは失礼だと自分を戒めた、過去の日々が急に鮮やかに蘇ったから。
 と出会ってから今まで、何度も抱いて来た自戒を、ぼくは今夜もまた抱いている。面白いくらいに、変われずに。

 ああそうだ。ぼくは思い立つ。帰ったら一番にコーヒーを飲もう。今猛烈に、一人で熱いコーヒーを飲んで、を思い浮かべながら、深いため息をつきたい気分だ。そうでもしないと、この気持ちが爆発してしまう。
 だけど、スクリーンばかりが光る劇場でぼくは自分を押さえつける。彼女がおやすみなさいと手を振るまでを、ぼくは見送りたい。だから、暗がりの客席の中でぼくはもう一度、彼女が知るぼくの顔を被り直したのだった。





(「マーレインさんのお話の続きで、マーレインから夢主の方に会いにくるお話」とのリクエストありがとうございました!)