朝起きて、顔を洗って歯を磨いて。安くてかつ大容量なところが気に入っている化粧水をぱしゃぱしゃはたいて、乳液もささっとつける。髪に一応ブラシを通し、化粧は5分で済ませて。そんなよく言えばシンプル、もっと素直に言うなら簡素なのが私だ。
 仕事用のカバンを肩にかけて家から出ると、一直線に自分の自転車を目指す。自転車に備え付けられたモーター部分にスマホの中にいるロトムに入ってもらい、またがったところで声をかけられた。

「あらぁ、ちゃん」
「あ、おはようございます」

 ワンパチを散歩させていた近所のおばあちゃんが私を見るなり丸い頬をさらに綻ばせる。

「朝からいいもの見られたわ。今日も美人さんねえ」
「いえいえ」

 肩をすくめて恐縮していると、ワンパチがおばあちゃんの周りをぐるぐると走り回り始めた。おばあちゃんが喜んでいる様子がワンパチも嬉しかったらしい。笑顔を弾けさせている。しかもワンパチが静電気を放っているのだろう、おばあちゃんの白い髪がふわふわと浮き出している。

「私もいいものが見られました。ワンパチとおばあちゃんは今日も仲良しですね」

 おばあちゃんだけでなく、私にも笑顔を与えてくれたワンパチの体を撫でてあげると、素直に喜び出したワンパチ。羨ましいくらい単純だ。

「これからお仕事よね」
「はい。いってきます」
「いってらっしゃい」

 おばあちゃんの柔らかそうな手のひらと、ワンパチの鳴き声に見送られて私はペダルを漕ぎ出した。
 今日も朝の風に当たって頬が冷えていく。それと並行して頭がさえていくようだ。

 やっぱり毎朝の自転車通勤を始めたのは、正解だった。徒歩と公共交通機関の通勤から自転車通勤に切り替えたのは、自分でもおかしな理由だとは思うけれど、度々見知らぬ人から呼び止められることがあるからだった。ただ話しかけられるだけならまだしも、花やものを受け取ることがあったり、昼食のサンドイッチだけを買うつもりが何故か焼き菓子をサービスされてしまったり。そして引き延ばされる会話のせいで遅刻しそうになった時に私は我慢の限界を超えてしまったのだ。

 その点自転車は、運動にもなるし、基本的に話しかけてくる人はいない。並走してくるひともたまにはいるが、その時はロトムの力を借りて振り切ってしまうのだ。

「ん?」

 キュッ、とブレーキを引き絞って自転車をとめる。一瞬目に入ったものを確かめるべく、数歩ばかり後退して、町内会の掲示板を確認する。

「やっぱり……」

 掲示板に張り出された町内会の広報。その一番目立つ表紙に、私の写真が勝手に使われている。先月末に開催されたフリーマーケットだ。友人の手伝いをしていたところを、いつの間にか撮られていたらしい。
 まただ。というより、いつもこうなのだ。目立たないようにしてるのに、いつの間に写真を撮られて宣伝に使われている。
 宣伝だけじゃない。なんの用か知らされず呼ばれる時は要注意だ。さんは立っているだけで絵になるから、いてくれるだけで場が華やぐから、来るだけであの人の機嫌が良くなるんだよ。そんな理由で利用されてばかりいる。

 肩が落ちそうになる。けれど私は気を取り戻して、また自転車を漕ぎ出した。

 もっと努力してる人が放つ美の方がいじらしくて、可愛らしい。私のようなのよりもずっと素晴らしいと思うのだ。
 例えば、恋する女の子。例えば、私の幼なじみキバナ、とか。

 今や超有名人となったキバナは私の幼なじみだ。もちろん彼は、幼少の頃から人を惹きつける魅力を持っていた。ひょろりとしていて、足は木の枝みたいだったけれど、ふとした表情に見惚れる子が男女問わず、年齢も問わず。
 キバナの笑顔が好きという子もいれば、ポケモンバトルや競争の時の意欲剥き出しの顔に落ちた子もいるし、悔しげな表情に目覚めてしまった子もいる。本当に罪作りな子供だった。
 なんて思い出していると私の自転車はキバナの広告の前を通過する。
 今は機能的にも見た目にも良い筋肉がしっかりついて、キバナはその顔が私の部屋よりも大きくプリントされていても鑑賞に耐えうる、完璧さを放っていた。

 職場に着くと、始業前からオフィスで数人が盛り上がっていた。漏れ聞こえて来るワードを聞くと、どうやら昨夜のポケモンバトルの話をしているらしい。

「あ、さん。おはようございます」
「おはようございます」
「今回のメジャートーナメントも熱かったね!」
「昨日のですよね?」
「そう! やっぱりチャンピオン・ダンデは負け知らずだったけど、キバナさん、かっこよかったなぁ……」

 まさにメロメロ。その言葉がぴったりなくらい、同僚は目を甘く輝かせる。それから私に向き直ると、おずおずと色紙を差し出した。

「キバナさんのサインとかって……! さんに言ったらどうにかなったりしますか?」

 こういう依頼は慣れっこだ。私が返す言葉も決まっている。

「彼、直接頼めば普通にサインしてくれますよ」

 ああ見えてキバナは自分に寄せられる期待や気持ちを大切に、ひとつひとつ扱っている。それがキバナはファンサが多めなんて言われている理由でもある。

「でもいつ会えるか分からないじゃないですか!その点さんなら、ね? 恋人なんだから、週に一度くらいは会うんでしょ?」
「はぁ……」

 肯定も、否定もせずに、私は曖昧に笑った。
 見た目のバランスが良くて、目に楽しいから。そんなおよそ生身の人間を見ているとは思えない理由で、私とキバナはしばしば恋人同士に間違われる。
 実際、私とキバナが並んだ時の見た目は悪くないらしい。私も女性にしては背が高い方なのもあって、キバナの長身は悪目立ちしないとのことだった。
 昔から散々言われて来た。絵になる、お似合いだと。写真に撮って額に入れて飾りたいと意味不明なことを言われたこともある。さらに意味不明なのは、私たちが並んでると近づけないというやつ。ひかりのかべもリフレクターも、はったつもりはない。

 そんな周囲の勘違いを否定しなくなったのは、あまりに言われるので否定するのが面倒になってしまったのもある。キバナと一緒に歩くと、キバナのおかげが遠巻きにされることが多く、随分と歩きやすいところもまた助かっている。
 でもキバナの恋人と思われて一番のメリットを感じたのは、やっぱり異性からのアプローチがやわらいだことだ。
 さすがに相手がキバナだと思うと男性も気後れしてしまうのだろう。私目当てなんじゃないかと邪推してしまう些細な訪問や呼び出しが減って、仕事環境がぐんと良くなった。それに、キバナに不満を持つなんてまずありえないと思われて、パートナー探しの場にお呼ばれすることもなくなった。恋人ということにしておけば、キバナ目当ての人に「幼馴染なんだから紹介して」と言われることもない。
 さん相手なら、キバナさんがお相手なら。そんな不思議な理屈で、周囲は勝手に、自分の答えを見つけてくれるようになった。

 キバナも、多分そうなんだろう。私との噂は、多分いい虫除けになっている。
 実際に巻き込まれたこともあった。キバナに本気の恋をしてると思われる見知らぬ女性から「キバナさんのこと、幸せにしてあげてください」と言い放たれた。

 涙ながらに言う彼女がいじらしかった。思わず私とキバナはそんなんじゃないと伝えようとしたのだが、彼女は走り去ってしまい、伝えることは叶わなかった。
 さすがに罪悪感を覚えた私はことの顛末をキバナに伝えた。勘違いから生まれた噂をあまりに野放しにするのも考えものだ。そう訴えたところ、キバナはしれっと口にした。

『オレさまが否定しないからな』

 脱力した。本人が否定しないのだ。噂が消えないはずである。
 まあ、キバナも私が恋のお相手と噂されることに一種の利便性を感じているのは間違いない。以来、私も周囲の勘違いを肯定も、否定もせずにいる。





「おかえり」
「……ただいま」

 仕事を終え、またロトムのアシスト付き自転車で帰ったら、ずっと意識の中に在った人物が家の中いた。それもリビングに。

 家の中にいるのはそう驚くべきことじゃない。以前、キバナが玄関前で待っていたことで、ひどい目に遭ったのだ。
 あの日は悪夢のようだった。キバナ曰く、ただ待っていただけとのことだった。けれど、さすがにトップジムリーダーともなれば人が自然と集まって、自宅前がサイン会会場、もしくは記者会見場のようにされてしまった。キバナも変装など一切なく、特徴的なパーカー姿なせいもあって、ちょっとした騒ぎになってしまったのだ。
 人混みと、無数のシャッター音と、それに刺さる視線。一発でもういやだ!と、根をあげるくらい大変だった。なのでそれ以降はカギを渡して、家に入っているよう伝えている。幼なじみが故に、戸惑いはなかった。

「おつかれさん」

 キバナは我が家の小さなソファから手足をはみ出させて、スマホをいじっている。服装はゆるめで、だいぶリラックスした様子だ。
 来てくれたんだ、と胸の内でつぶやく。

 キバナが私たちの噂を野放しにしていると知ったあの時。聞きたかったけど聞けなかった。なんで否定しないの?と。
 時間が経てば経つほど、後悔が募る。
 幼なじみ特有の、近い距離感。そこから生まれた家族愛に近い親しみ。だけど私のそれは時間をかけて滑らかに、特別な感情へと流れていった。ほとんどがその感情に移行してしまう前に、傷が浅くて済むうちに聞けばよかったのだ。

「よし!」

 そういって、キバナがソファから起き、立ち上がる。下を向いていた首は急にやや上を向く。

「どっか食べに行くか」
「今日は外でいいの?」

 私が帰ると夜ご飯のメインはもうできていることもよくあった。もちろんわが家のキッチンを使い、自分の食事管理も兼ねてキバナが作るのだ。
 けれど今日は外に食べに行くらしい。

「簡単に準備する。ちょっと待って」
「おう」

 鏡を覗いて簡単に見た目を確認し、シャツが汗臭くないかをチェックして、それから靴を選びなおす。
 仕事用のフラットシューズを休ませ、私は棚を見た。ここにはヒールのある靴を集めてある。並んでいる靴のヒールは、すべて5,6センチの高さ。
 ある日、灯りの落ちたショーウィンドウの前をキバナと歩いた時。それくらいのヒールを履くと、キバナと並んだ時に一番ちょうどいいと気づいた。
 暗がりに映る、男女の影。不明瞭で、顔もよく見えない。だけど初めてだった。私が私でありたいと思えたのは。

 ヒールのある靴に、疲れた足を、入れ込む。仕事終わりにわざわざそんな靴を選ぶ理由は、ひとつだ。
 立ち上がった視線の高さには、慣れた彼の緩く笑んだ唇。

「行くか?」

 私は胸を張って、うん、と返事をした。


 前述の通り、キバナは食事制限をすることが度々ある。なので二人で出かける時、お店選びは彼に任せっきりだ。キバナも私の好き嫌いを把握してくれているので、安心してあとをついて行く。
 お店に着くと、今日はすでに予約を済ませていたらしい。ありがたいことに席は個室だった。とりあえず注文してすぐに並べられたドリンクをちびちび飲みながら彼に問う。

「体調は大丈夫なの?」

 昨晩、あんなに見てる側が燃え尽きるそうになるバトルを繰り広げたのだ。キバナの体調が気になった。けれど彼はこともなげに「ああ」と言うのみだ。

「なら、いいけど」

 職業としてポケモントレーナーをする人間はやはり驚異的だ。バトルも日常の延長線上にあるもので、次の日はこうして誰かと食事にも行けてしまう。
 内心で驚嘆しながらも、顔を上げると、キバナの視線が私を射抜いていて驚いてしまった。しかもなかなか鋭い視線だ。何か私に言いたげな目をしていると思ったら、やはりキバナは噛み付くように言った。

「オレのことよりオマエだろうが」
「え?」
「最近会うと不安げな、こっちが心配になる顔をしてるぜ」
「そう、かな?」

 キバナを目の前に、私も様々な想いを抱くことがある。だけど、彼に心配させるような顔をした自覚はない。完全に無意識だ。
 容姿のせいか、あまり感情に注視してもらうことがない。それもあって、私の細かな表情を読んだキバナの指摘は、私の不意を突いていた。

 の好みを聞くつもりだったが。そうキバナは前置きした。まだ何も言われていないのに、私が急に手の中に動揺を握ってしまったのは、彼の表情を見てしまったせいだった。
 口元が、彼が照れている時の形をしている。

「指輪でも買いに行くか」
「え」

 どうしてそうなる。どうして私への心配が、指輪の話になるんだ。そして戸惑いながらも、浅ましく沸き立つ感情がある。
 急展開に振り回されながらも、私は慎重に返事をした。

「それは……、どうして?」
が何を考えてるかはわからねえ。昔から分かりづらいとこがあるが、言えるようになったらさらっと言うのがオマエだ。だから今、無理に聞き出そうとも思わない」

 さすが幼なじみ。指摘は狙いすましたように正確だ。

「だが、このオレさまがいることを忘れるな。味方で、オマエのことを何年も見てて、どこにいてもなんだかんだを想ってる。そういうオレさまを、忘れるな」
「……っ」
「指輪じゃなくてもいいぜ。ああいう肌身離さずつけてるものを探そう。それでオレさまを思い出せよ」

 喉のつまりを強く感じる。水分でそれを飲みくだしたくなったけれど、私はさっと指先を机の下に隠した。今、私の指先はじんじんと脈が通って、みっともなく震えているからだ。

「気持ちは嬉しい。だけど、わ、私、指輪なんてもらったら、キバナのことすごく」

 すごく意識してしまうと思う、と言うのは私の気持ちが前に出過ぎている。一呼吸入れてから、言葉を選び直す。

「すごく思い出してしまうと思う」
「望むところだ」
「………」

 返事のための言葉はなかった。
 キバナを思い出すための引き金なんて、私にとってはそこかしこにある。今日通勤する時に思い出して、仕事中にも思い出して、帰り道で思い出していたくらいだ。
 指輪がなくても、何ももらわなくとも、ずっとキバナのことは意識の中にある。そんな自分を許してもらえたようで、私は下唇を噛んだ。多少の痛みを用いないと自分のバランスを失ってしまいそうなほど、嬉しかった。

 キバナは向かいの席でそんな私を見ていた。肘をつき、大きな掌で自分の顔支えながら、揺らめく視線を送ってくる。ややあって、真一文字に結ばれていた口が開いた。

「……あのさ」
「うん」
「周りがはやし立てるせいで昔からの流れで来てしまった部分があるが、いつもちゃんと伝えたいと思ってた。オレはが好きだ」

 キバナは私が好きで、私もキバナが好きで、お互いがお互いにとって特別。
 言い切ることはできなかった。だけど、ずっとそうなんじゃないかとお互いに期待を握り続けてきたものの答えが、たった今かたちになって空気に消えた。でも耳にはこびりついている。
 こんな日が来るとは思っていなかった、と同時に長かった今までが押し寄せてくる。それをすぐ分かりやすい感情に振り分けることはできなかった。

「……ほんとに、初めてちゃんと聞いた」
「家で食べるのが好きなのは、オマエを独り占めしたいからだぜ」
「み、みんなは私のこと、見せびらかしたがるのに。キバナは違うんだね」
「オレさまはそんな安っぽい惚れ方してねえからな。で、は?」

 急激に迫り上がる熱に胸を詰まらせていると、キバナは畳み掛けるように言った。

の相手はオレさまじゃなきゃダメだろ?」
「ま、待って。ちゃんと自分の言葉で言うから」

 多分受け入れてくれるのもわかっている。けれど言葉にすることはまだハードルが高い。
 好き、好き、好き、と胸の中で何回か繰り返し、自分を落ち着けるためにも呼吸を繰り返す。繰り返しているうちの一回を、どうにか声にして絞り出そうとしているというのに。
 オマエってほんっと可愛い生き物だな、というつぶやきがテーブルの向かいから聞こえ、また私は悔しくなってしまった。
 キバナの口にする言葉は、どうして私は格別に嬉しくなってしまうんだろう。多分、私を見抜いた上での言葉だから。あともう一つの答えをか細い声にして口にする。

「す、好きよ、キバナ」

 惨めなくらい溺れてる私をせめて笑ってほしい。だけどキバナはあの笑顔を見せてくれなかった。むしろ彼には珍しいくらい照れた顔をむき出しにしていて、私もつられて照れから抜け出す道がわからなくなった。

 お店の人が話しかけてくる時以外は、お互いに無限に照れている。
 こういうところ、私とキバナは似た者同士でお似合いなのかもしれない。そう気づいたこの一瞬が、私までもが噂を否定できなくなった瞬間であり、否定もごまかしも必要なくなった瞬間だった。




(「キバナさんと幼なじみ兼美男美女カップルの甘めのお話が見たいです」とのリクエストありがとうございました)