幼い頃過ごした家が、まだスパイクタウンにそのまま残されている。父親がぽろりと漏らした話を聞いて、私はすぐさまカロス地方からガラルに戻ることを決めた。
カロス地方も良い場所ではある。華やかで、芸術に溢れ、料理も美味しい。だけど私はついに忘れられなかった。幼い頃に両親の仕事の都合に合わせ離れることになったガラル地方が。
いつだって、故郷はどこだと聞かれたら、迷わずガラル地方のスパイクタウンと答えていた私だ。
親元を離れて暮らすことも今ならもうできる。ならば、心を置き去りにして来たあの場所に帰りたいと私は願っていた。
迎えた引っ越し初日。
胸を躍らせながら十数年ぶりに戻ってきたスパイクタウン。街の景色には、変わったところと変わっていないところ、両方がちょうどよく混ざり合っていた。
全く変化がないわけではない。けれどそのまま残されたものもたっぷりある。家族経営の日用雑貨店、ごくたまに人が入っているのを見かけるサロン、シャッターの汚れ。
スパイクタウンがたくさんの面影を残してくれていたことを私は喜んだ。
引っ越しを手伝うカイリキーたちの手によって、幼い頃を過ごした家の中にどんどん段ボールが積み上げられていく。引っ越す前に何度か清掃してもらったものの、古い家というのもあって埃っぽい。換気のために窓を開けて、私は感嘆した。
「うわ、懐かしいなぁ……」
古びた窓。そこから覗く景色は思い出のままだ。
道の形や花をつける木の植わる場所。そんなささやかな場所にも私の思い出は宿っている。
思わず浸っているとその道の向こうから歩いて来たのは黒髪の女の子だった。そばにいるのはモルペコだ。
一目見てそれが誰だかわかった私は、駆け足で玄関から飛び出す。足を動かしている間にも思い出は蘇る。あの子は、きっと、幼い頃何度も一緒に遊んだ近所の……。こちらから声をかけるつもりだったのに、彼女の方から私を見つけてくれた。
「やっぱりちゃんだ」
「もしかして、マリィちゃん?」
「うん」
クールで、あまり感情が顔に出ないところはそのまま。だけど面影を残しながらも、文句なしの美少女に成長したマリィちゃんがかすかに目を細める。
十数年越しのマリィちゃんだ。会いたかった、けれど本当に会えると思っていなかった彼女が目の前に立っている。
「っ、大きくなったね……!」
「ちゃんこそ、綺麗なお姉さんになっとお」
「マリィちゃん、会いたかったよー!」
感極まりつつ気持ちを伝えると、マリィちゃんも小さな声で「あたしも」と返してくれた。
「私、帰って来ちゃったんだ。カロス地方も良い場所だったんだけど、この地方と町が、好きで。忘れられなかった」
「そう。あたしも、こん家に誰か来るなら、ちゃんかちゃんの家族やったらいいって思うとったよ」
「ほんとに? ありがとう!」
ずっと離れていたけれど、また会いたいと願う気持ちはお互い一緒だったのだ。それを思うと嬉しくて泣きそうにもなる。せり上がってくる思いをこらえながら、私はずっと気になっていたことを口にした。
「ネズくんは、元気?」
ネズくんとは、マリィちゃんのお兄さんである。私にとってはスパイクタウンでほとんどの日を共に過ごした、もう一人の幼馴染であり、初恋の人である。幼いながらに、ネズくんのそばにいるとどきどきが抑えられず、誰よりも隣にいることが好きだった、同い年の男の子。それがネズくんだった。あれは何度思い返しても、恋だったと思うのだ。
マリィちゃんはネズくんのことを教えてくれたものの、その目は冷めていた。
「元気。ま、今はうじうじしとって見てられんけど」
「そうなんだ? でも、元気ならよかった! 会いたいなぁ……」
ガラル地方に戻って来た理由は恋心だけではない。けれど中途半端に関係が途切れてしまったネズくんの存在はずっと私の心に居座り続けていた。おかげで今日まで他の恋もしたことはない。
終わるにしても、やり直すにしても、一度会わなければ私は次に進めない。突然別れたあの日から、そう思わせて止まないのが、私にとってのネズくんだった。
マリィちゃんは引っ越し初日から私に会いに来てくれた。でも、引っ越しがひと段落してもネズくんが私に会いに来てくれる、なんてことは起こらず、私はネズくんとの再会を果たせなかった。
不満はあまりなかった。この町で暮らし始めると、ネズくんという存在にいかにみんなの期待を背負っているかがすぐに伝わって来たからだ。
リーグ公式のポケモンバトルの放送だけでは盛り上がりはほどほど。だけど、ネズくんのバトルとなると町中、深夜まで大騒ぎになる。ここ最近は特にジムチャレンジ開催のシーズンが近づいていて、いずれこのホームタウンでネズさんがバトルをするかもしれないと、スパイクタウンは活気付いているようだった。スパイクタウンの一喜一憂は、ジムリーダーとなり、アーティストとしても人気を博すネズくん共にあった。
まさにネズくんは希望の星。きっと背負うものとやりたい活動との間で忙しくしているのだろう。想い人が周囲に認められ、活躍しているのだ。私一人が会えないことに不満を持つなんて図々しいと思ってしまう。
そもそも、ネズくんは私のことなんか忘れているのかもしれない。もう十数年前の関係だ。忘れられてる覚悟はとうにできていた。
ただ胸に感じるものをあえて言うのならば、寂しさがひとつまみ。幼い頃、じゃれ合うように遊んでいた男の子は、今は遠い存在に感じられた。
トーナメントを終えたネズくんがスパイクタウンに戻ってきている。その話を聞いた翌朝、私は行動を起こすことに決めた。今度は自分から、ネズくんに会いに行くのだ。
ネズくんは私のことなんか忘れているかもしれない。でもマリィちゃんが覚えていてくれたんだから、最低でも不審者扱いはされないはずだ。そう自分を鼓舞して、私はネズくんの家へと向かった。
ネズくんに会いに行く。その道中も、懐かしさは私の胸から吹き出してきた。この道を辿って、ネズくんマリィちゃんの元へ遊びに行ったなぁ。遊び疲れた帰り道はこの花壇にちょっと座って一息いれてから帰ったりもしたなぁ、なんて。
ひとつひとつを懐かしみながら私は角を曲がり、その瞬間、足を止めた。
「アニキ」
今のはマリィちゃんの声。その声が呼び止めた人物は、ちょうど玄関から出てきたところに立っていた。
ネズくんだ。その顔はマリィちゃんの方を向いていて見えないけれど、幼い頃からの猫背は健在。むしろ少しひどくなっているくらいだ。ああ、ネズくんだ。後ろ姿を見ただけなのに、喉がきゅうっと詰まる。
「これ。まだ行っとらんの?」
マリィちゃんはネズくんに向かって、可愛らしい紙袋を突き出す。
「ちゃんのところ、はやく行っとかないと、ますます行きづらくなる。これ渡すだけで良かけん」
そう言ってまたマリィちゃんはずいっと、紙袋をネズくんに押し付けた。
私の名前が出て驚いた。会話の内容から察するに、紙袋の中身は引っ越し祝いで、マリィちゃんは私に会いに行くようネズくんに言ってくれてるようだ。
ネズくんに会いたいと思っていた私にとってはマリィちゃんの行動はありがたい。だけどネズくんの反応は鈍いものだ。
「はあ……」
深いため息を吐き、首元のアクセサリーをいじる手には苛立ちが見て取れる。
「ちゃんも、アニキに会いたいって言うとった」
「そんなのは社交辞令です」
「じゃあ自分で確かめたら」
「いや、やめとくよ」
なんで、と追及するマリィちゃんに、ネズくんのアクセサリーをいじる手がぴたりと止まった。
そして私が追いかけていた淡い初恋相手、何年もたって会いに行ったネズくんは、言い放った。
「あいつはおれにとって最悪な嘘つきですよ」
視界の端が黒く染まる。身に覚えはない、大人になったネズくんの言ったことが、よくわからない。けれど聞いてしまったネズくんが本気で口にした嫌悪、いや憎悪のセリフ。そのまま私が回れ右をして自分の家に帰らせるには十分すぎる破壊力を持っていた。
駆け足で自分の家に戻り、ドアに鍵をかけて、私はコートも着たままベッドに潜り込んだ。しん、と静まり返る一人きりの家。
あいつはおれにとって最悪な嘘つきですよ。静けさがゆえに、ネズくんの低くなった声が何度も耳の奥に響き渡った。
ネズくんに忘れられてる覚悟はできていた。時間も随分経っている。幼い頃の記憶なんて特に薄れやすい。誰でしたっけ、と言われても仕方がないと思っていた。
でも実際のネズくんは全然違った。私のことを覚えていてくれた。けれどそれは最悪のかたちだった。
私が今日まで引きずり続けた初恋は、本人の一言によって粉々に割られてしまった。直接言われたわけではない。でもだからこそネズくんの本音だとしか思えず、私は日々の中で繰り返し落ち込んだ。
一番気になるのはネズくんが言っていた”嘘つき”という言葉の意味だ。どういうことだろうと、ネズくんにあそこまで言われた理由をずっと考えている。だけど記憶をいくら探っても、思い当たる出来事は見つからなかった。
もう一つ、最悪なことがある。
理由はわからないけれど、ネズくんは私に好意は抱いていない。ならばネズくんは私の顔も見たくないはずだ。その考えは簡単に導き出されて私はうなだれた。後悔しても時は既に遅しで、スパイクタウンでの新生活はもう始まってしまっている。だから私はネズくんを避け、人の間に隠れながら日々を送るようになった。
ネズくんを避け、バトル場を避け、歌が聞こえればその反対方向へと歩き、誰かを囲んでいるらしい人混みを見かけたら回れ右をする。そうやってできる限りネズくんに見つからないように気をつけた。
でも、スパイクタウンは小さな町。いくら避けていてもその瞬間は来てしまった。
「ぁ……」
「………」
夕暮れのスーパーで、ばったりだった。ネズくんが私を見つけ、私がネズくんを見つけた。その瞬間は数秒違わず一致していて、言い逃れできる状況ではなかった。
その時私はようやく正面から大人になったネズくんを見た。
白すぎる肌に、猫背でごまかされそうになるけれど背も手足も長くなっている。髪は私より長く伸びていて、ひとまとめにされている。前髪は顔の右半分をほぼ覆い隠してしまっているけれど、覗く目のかたちは変わっていない。ただ、まぶたに乗せられたアイシャドウはネズくんに性別なんてどうでもよくなってしまうような色気を与えていた。
スーパーのカゴの中には野菜などや乳製品などが入っている。どうやらネズくんは、食材の買い出しにきているようだ。マリィちゃんを大事に思って、家の事は一通りなんだかんだやっている。ネズくんはそんなところまであの頃のままだった。
大人になったネズくんに今までにないくらい近づき、私というやつはどうやら喜んでいるらしい。無数のかけらとなった今も私の恋心はまだ息をしているようで、それが私を挙動不審にさせた。
「あー、えっ、う……!」
そんな声にならない声を出して、ネズくんから目を反らせないまま私は右往左往してしまい、もう私から他人のフリはできなくなっていた。だから私はネズくんがそっと無視してくれるのを待つのみだ。
だけど意外なことにネズくんの方から私に近づき、話しかけてくれた。
「、ですよね?」
「はっ、はい!」
玄関で盗み聞いた時とは全く違う、優しさまで覚えてしまいそうな声色で、ネズくんが私の名前を呼ぶ。
マリィちゃんの前では一言でわかってしまうほどの嫌悪感を私に抱いていたはずだ。なのに、そのネズくんから話しかけられている。私は混乱の入り混じった、妙な緊張を覚えていた。
ネズくんの方は驚いた様子もない。久しぶりとか、元気でしたか、とか定番のセリフはひとつも言わず、ネズくんは続けた。
「聞いてたんですよね?」
「え……」
具体的に言われずとも思い当たるのはひとつ。聞いていた、とはマリィちゃんとのやりとりのことだろう。
「耳慣れない足音が聞こえたんでおまえだと思いまして」
「あ、足音でわかったの!?」
「はい、まあ」
「さすが。でも確かに……。ネズくんって、すっごく耳が良かったよね」
よく覚えている、ネズくんの耳の良さ。たくさんの音の聞き分けや、遠くの音を拾うのもお手の物。しかもひとつひとつの音にネズくんは誰よりも感情を抱いて、受け止めていた。あの頃からネズくんには音楽の才能があったのだ。
「そんなこと、なんで覚えてやがるんです?」
「覚えてるよ、ネズくんのことは。……ネズくんも、私のこと覚えていてくれて嬉しかったな」
何日もネズくんの言葉を思い出しては落ち込み、沈み切った先で、バカな私はちょっと思ってしまったのだ。嫌われてたなんて悲しすぎる。だけど覚えていてくれただけ、嬉しいかもしれない、なんて。
まさか嘘つき呼ばわりされるとは思ってはいなかったけど、ネズくんは私を、私の言動を忘れずにいてくれたのだ。往生際の悪い私の甘い期待を砕くように、ネズくんは温度のない声で言った。
「おれは覚えていてくれて嬉しいなんて言ってませんが」
「う……、ごめん……」
「………」
再会を喜びあって思い出話にふけるなんて、夢のまた夢。私とネズくんの間にあるのは重たい沈黙ばかりだ。おそらく、私から身を引くべきなんだろうな、と思った。
私このスーパーでまだ買いたいものはあった。だけどネズくんに嫌悪感を抱かせてしまうことに比べたら、全ての物事は今日じゃなくていい。ここは早々に会計を済ませてしまおう、今ならレジも空いているからすぐに退店できるはずだ。まるでやせいのポケモンから逃げるときのように私は退路を確認し、一歩後ずさった時だった。
「なんで帰ってきたんです?」
えっ、と声が出た。やっぱりネズくんとの間に距離は感じる。私は内心嬉しさを噛み締めているのに対し、ネズくんの方は感情の起伏が見えない。
だけど、また話しかけてもらえた。まだ話し続けても大丈夫だというこの事態は、予想外ながらも私は嬉しさが隠しきれない。
「これだけは聞こうと思ってまして。なぜ今頃?」
「ええっと。理由は色々あるかな。この町が私は好きだったし、私の故郷はここだと思ってるし。あと、ガラルに残ってる親戚も何人かいるし。……ネズくんに、会いたいと思ってたし」
「はあ」
最後にそっと足した私の想いは、やっぱりネズくんには響いていない。顔色ひとつ変えてもらえない。
だけどここは譲れない。同じスパイクタウンにいても、こうやって話すのは今日が最後かもしれない。そう思ったら、私は不思議と大胆になれた。
「すごく会いたかったんだから」
「………」
「ネズくんのこと、忘れられなかった」
ネズくんのために帰ってきたとは言えない。それは十数年ぶりに会った相手に背負わせるのは重すぎるし、困らせるのは目に見えている。だけど会いたいと何度も真剣に願った、その気持ちは本物だ。
ネズくんは深いため息を吐ききったあと、どこか諦めたように言った。
「……少し、話しますか。会計が終わったらですけどね」
「えっ? あっ……!」
ネズくんに言われて気がついた。小さなスーパーの中で、何人かが私たちを見ている。半分はこの忙しい時に立ち尽くしている私への迷惑そうな目線だ。
私とネズくん、両方の買い物カゴのなかでミルクなんかがぬるくなっている。私たちはすぐさま会計を済ませ、そそくさとお店を後にした。
二人して膨らんだバッグを持ちながら夕暮れのスパイクタウンを歩く。足は止めないまま、ネズくんは話の続きを口にした。
「……おれも。を忘れたことはねえですよ」
「ほ、ほんとに!?」
「おれがジムリーダーになったら、おれだけを応援すると言ってくれました」
「なっ……!」
「おれの歌を一番近くでずっと聴き続けたいとも言ってやがりましたね」
まさかそんな、照れてしまうような思い出を掘り起こされるとは思わなかった。急に体が熱くなってくる。
「なのにさ、あっけなくスパイクタウンどころかガラルからも出て行って、手紙の一つも貰えなかったですよね」
「それは……」
「しかもおまえの行き先は、いけすかないカロス地方で、それでもおれはここにいるしかなくて。会いに行きたいと思いましたけど、カロスは遠いですし、どの街にいるかも知らねえですし」
私がスパイクタウンから引っ越さなければならなかったのは完全に家庭の事情だ。仕方がないことだった。だけどそれがネズくんに多少なりとも悲しい思いをさせてしまった。そのことに私は胸を痛めていたというのに。
「まあカロスは綺麗なところと聞きますからね。そこでおれのことなんかすっかり忘れて、ふざけた都会のカロス野郎に口説かれて楽しくやってるんだろうなと」
「は?」
思い出話が急に別の何かに変わっている。カロスの野郎に口説かれた? 一体どこから出てきたかもわからない話をネズくんは暗い面持ちで語っている。
「え? え……?」
「も人がいいからころっと丸め込まれて、そいつの部屋に連れ込まれたりなんかして、まぁ一発や二発はね」
「ちょちょっと待ってよ、ネズくん! そ、それってさあ!」
「全部おれの妄想ですよ」
「だよね!?」
「でも想像するしか手が無いのでね」
ネズくんは自己嫌悪を滲ませながら肩をすくめた。
「口説かれてなんかは事実無根だけど……。そうだね、私も同じだった。ネズくんどんな大人になってるんだろうって、想像するしかなかったな……」
「こんな大人になっちまいましたよ」
ネズくんはそう寂しく言って私から顔を背ける。私は逆に向けてもらった耳に宛てて、今、自分が感じとっているネズくんを声にした。
「ネズくん、メイクも衣装もばっちり決まってて、すごくかっこよくなった。ポケモンバトルも音楽の才能も全部、開花させて活躍してて、ほんとにすごいよね」
「も」
「え?」
「綺麗になりました」
ネズくんから、まさかのカウンターを決められてしまった。今、綺麗って言われた? 本当に? あまりに突然すぎて私の頭はほとんど理解できていない。けれど私は意地で、動揺を隠しきる。
「あ、はは。前はちんちくりんだったからね」
「そのちんちくりんが、おれは好きでした」
横目で見やるネズくんの瞳の色が、そういう色の刃物になって、本当に私の胸に刺さったと思った。だってそれを証明するみたいに、心臓に痛みが走っている。
「ネズくん」
「はい?」
「好きでした、って、過去形なの……?」
その”好きでした”を、私はどう受け取ったらいいのだろう。期待しても、自制心でその自惚れを捨てようとしても、どうやっても心臓の痛みは激しく、胸は苦しくなっていく。
自分の足に、上手く力が入らなくない。上手く歩けているのかもわからない。だけど平然と歩き続けるネズくんに、私は必死でついていく。
「いや。ただ、相当ダラダラしすぎたんでね。今日で終わりにするのもいいかと思いまして」
「っ、だめ!」
思わず、ネズくんの手を掴んでいた。幼い頃、何度もじゃれあっていた手とは全然違う私より大きなった手。骨ばった長い指を握りしめる。
「私を残して、勝手に終わらないで……!」
多分、端から見たらものすごくみっともない懇願だった。だけど、今はかっこつけてなんかいられない。
ネズくんの存在のせいで私はガラルを離れても、何年経ってもここに囚われ続けてしまった。その責任をネズくんに問うつもりはない。だけど過去じゃなく、今の私たちの間に何か残されているのなら。簡単に手放したりなんかしてやらない。
突然触れてしまったからだろうか。ネズくんは目を丸めて驚いている。
その次に、ネズくんがどんな反応をするのかがひたすら怖かった。目を釣り上げて怒るかも。冷たく拒絶を受けるかも。困った顔をさせてしまうかも。どれも私の胸をちくちくとつまみあげてくる。だけど、どの想像も予想を外した。
「はは……、そうだったのか」
ネズくんの顔が崩れて、泣いてるようにも見える。そんな笑顔に、私は照らされていた。
「ものすごい遠回りですね、全く……。こんなことってあるんですね」
「え?」
「つまりおれたち、お互いが好き合っていて、ずっと忘れられなかったと。違いましたか?」
「ち、違くないよ! 少なくとも、私の部分は違くない! けど、ネズくんもそうだったの……?」
「おまえはさっきまで何を聞いてたんですか」
確かに聞いていた。私のこと忘れずにいてくれたこと、カロスで楽しくやってることを想像して寂しかったり苛立ったりしてくれたこと。それにちんちくりんが好きだったの言葉。
「本気に、していいの……?」
ネズくんは目線を斜め下に逃がしたけれど、その表情は明らかに照れている。ネズくんが私を好きでいてくれたなんて、まだ実感はない。だけどこの状況が嘘や夢でないことが、ネズくんが微細に表情を見せるたびにじわじわと伝わってくる。
「。ここでキスしていいですか?」
「え? いきなり……?」
「嫌ですか?」
長年の片思いだ。ネズくんとキスする妄想なんて、したことあるに決まっている。だけどそれを本人の前で肯定するのにはさすがに勇気がいる。というかさっきネズくんの気持ちを知ったばかりなのに、展開が早すぎる。
私が固まっているとネズくんがつらつらと語り出す。
「狭い街なんで、ここでしたら週末には全員に知れわたります。わかりませんかね、独占欲ってやつですよ。おれ、もう一度会えたら、ってずっと後悔してたんですよね。おまえをとられる妄想で何度も気持ちが泣きそうになったりしてさ」
彼の声がすらすら紡ぐのは、言い訳のようで違った。私を押し切る言葉だ。
「嫌ではないでしょう?」
恥ずかしさの限りで視界がぐるぐる回りそうな中、私は頷いた。一回はっきり頷くなんて器用なことはできなくて、ぐわんぐわん頭を揺らしてるみたいになってしまったが。
次第にネズくんが近づいてくる。私は意志を宿したネズくんの眼光に、操られてしまったかのように見入った。
だけどそのままキス、とはならなかった。もう鼻先が頬につくくらい近いのに、息が触れる距離でネズくんは止まってしまう。
ここで待つなんて。ネズくんのなんとずるいことか。最後の最後、ネズくんは私の意思を待っているのだ。
ネズくんはもしかして見透かしているんだろうか。遠い過去のことじゃなく、今の私に何か残されているというのなら、私が恥をこらえ意地を見せてくることを。たとえそれが彼の意地悪さに徹底的にやられしまうとしても、ネズくん相手なら望むところだ。そっと手を持ち上げて私がネズくんのジャケットの端を掴むと、今度こそ彼は噛み付くようなキスをしてくれた。
(「ネズさんがジムリーダーに就任した直後に別地方へ引っ越してしまった片想いのお隣さんが、いつの間にか帰ってきていたのにビックリしつつも告白。実は両片想いだったことが発覚し、無事にくっつく甘い話。」とのことでした。リクエストありがとうございました)