ホウエンらしさの詰め込まれた、暖かく湿った空気。それを海からの風がぶわりと吹き上げていく。
 うん、今日は天気も最高だ。以前から、うちの会社ことデボンコーポレーションの立地は最高だと思っていた。カナズミシティという栄えた街の中でありながら海にも近く、いいとこ取りをしている。社ビルの外に出ればその特権がありありと感じられた。
 日差しに当たり続けるのは辛いので、社屋沿いに歩いて日陰になっているところを探す。良さげな場所を見つけると、私は腰掛けて傘をすぐ脇に置いた。ノートパソコンを開き、私はさあ仕事を始めるぞと腕まくりをしてキーを叩き始める。

 社屋の外で仕事を始め、小一時間が経過。陽が高くなって気温も上がり、私もじんわりと汗をかいてきた。風を感じながらの仕事はなかなか新鮮でいいかもしれないと思いつつ、暑さにやられる前に、少しくらいは屋内に戻ろうかと迷い始めていたところを、涼しげな男の声で呼ばれる。

さん」

 視界の端に入り込んだ足のかたちで、私は声の主が誰かがわかってしまった。目線を上げていくとやはりダイゴさん、その人が微笑んでいる。
 ツワブキダイゴさん。デボンコーポレーションで、いやホウエン地方という単位でも色々とすごくて、彼を表す称号はありすぎるほどある。個人的な感想を述べるなら、スーツをまとった時の全身のかっこよさが私の中でダントツで一番の男の人だ。
 社外の、風の強いところで会うと、彼の髪が吹かれるたびにきらめいて、その綺麗さに視線を思わず引き寄せられてしまう。ますます色々とすごい人だなぁと思いながら私は会釈した。

「副社長じゃないですか。今日は社の方にいらしてたんですね」
さん。前も言ったけど同い年なんだから、気にしないでほしいな」
「あ、すみません、今は思いっきり仕事モードだったので、思わず」

 今呼んだ通り、私にとって彼は上司だ。しかも重役なので、いくら同い年でも立場はわきまえた方がいいと私は思っている。だけど以前ダイゴさんから「ボクがいいって言ってるんだから」などと口説き落とされて、お名前を呼ばせてもらっている。時々こうして心の声が出て副社長と呼んでしまうけれど、今日も律儀に訂正されてしまった。

「それにしても珍しいね、今日はこんなところでひとり仕事かい?」
「ちょっと事情がありまして、許可をもらってここで作業をさせてもらってます」
「事情?」
「はい、話すとちょっと長いんですけど……」

 副社長の時間を、個人的な事情を説明するのに使っていいものか、正直迷う。だけどダイゴさんは顎に指をかけ、すでに聞く体制になっている。しかも瞳には好奇心の光。恐縮しながらも私は話し始めた。

「実は私の甥っ子が両親に無断でホエルコをゲットしてしまったみたいで」
「ホエルコかい?」
「はい。ボール投げたら入ってくれちゃったみたいで。親の方はホエルコをやせいに戻したいらしいんですけど、甥っ子くんがどうしても聞き入れてくれないらしくて、私が一時預かりをしてるんです。そのホエルコがですね……」

 私の説明は途中で遮られた。私とダイゴさんの間に割り込んだのは、青くて丸い巨体だった。
 自分の話をされて、嬉しかったのだろうか。私のバッグにしまってあったモンスターボールから件のホエルコが飛び出して、自分を主張するようにはねた。
 私はホエルコを見て青ざめる。ポケモンの扱いはお手の物のダイゴさんは興味ありげに「へえ」と声に出したけれど、私の方はそれどころではなかった。

「危ないっ!」

 警告を口走ると同時に、私はすぐ横に立てかけてあった傘をダイゴさんに向けた。ワンタッチで開く傘はどうにか間に合って、その布をバンッと広げる。と同時にホエルコは目の上の穴から潮水を吹き出した。
 噴水なんて、可愛いものじゃない。ポケモンのエネルギーをまざまざと感じさせる水しぶきが高く上がって、そして私たちに降りかかる。

 半径1メートルのここだけ、まるで土砂降りがごとく水が降り注ぐ。ただししょっぱい雨だ。潮水は頭から服の中まで、ずぶずぶと私を濡らしていった。
 ホエルコの噴射が止まったのを見てから、私は傘の下の被害状況を確認する。

「ダイゴさん、大丈夫ですか!?」

 少し水は跳ねてしまったが、傘によってダイゴさんの90パーセントは守れた、はずだ。私の方はずぶ濡れだけど、何よりも気になるのはダイゴさんが無事かどうかだ。

「ボクは大丈夫だけ、ど……っ」
「ああでも裾とか濡れちゃってますね、本当にすみません! こうやってすぐ飛び出して、人間に水をかけてくるものだから、外で仕事をさせてもらっていたんです」

 甥っ子くんの一家からホエルコを預かった一番の理由はこの、ホエルコの水かけ癖だった。幼い甥っ子はホエルコをまだコントロールすることが一切できず、ボールから勝手に飛び出しては人間とその周辺を潮水でびしょびしょにしてしまうのだ。
 ダイゴさんは呆然と固まっている。無理もないだろう。
 一方のホエルコは私が濡れると仲間になったようで嬉しいらしく、その丸い体をぴょこぴょこ跳ねさせている。

「可愛くはあるんですけどね。しかも今はホエルコでも、今後ホエルオーになることを考えると姉の一家も困ってるみたいで……」

 ホエルコといえば進化したらあのホエルオーになるポケモンだ。気性はおおらかだけど、ポケモンの中でも目を引く体の大きさ。正直、一般家庭で向かい入れるにはハードルがかなり高いポケモンである。

「かわらずのいしを持たせながら暮らすにしても、まずは話し合う時間が欲しいってことで私が預かっているんです。でもホエルコが私の言うことを聞いてくれるようになっても、甥っ子くんがちゃんと信頼関係を結ばないと意味ないと思うんですけどね」

 ほんと、どうなることやら。肩を落として可愛らしいホエルコを見てると、固まっていたダイゴさんが突然息を吹き返したように動き出した。と思ったら、ジャケットを急ぎ脱いで、私にかけようとしてきたのだ。私はそんなダイゴさんを制止する。

「あ、いいんです、もうここ数日水をかけられっぱなしでなれっこですし」
「ここ数日だって?」
「こうして外にいるとすぐ乾くので、気にせず放っておいてくれて大丈夫です!」

 土日もこの子にしてやられ、散々ずぶ濡れになった。だけどその度にホウエンの暖かな日差しと風が私を乾かしてくれて、おかげで体調を崩さずに済んでいる。
 100パーセントではないけれど、ダイゴさんはとりあえず守れたし、また外で仕事を続けてれば大丈夫だろう。そう踏んでいた私に、いやに真剣な顔、というか眉根のよったダイゴさんの顔がぐいと近づいてくる。

さん……」
「は、はい?」
「放ってなんかおけないよ。自分がどんな格好になっているかわかってるのかい?」
「え?」

 ダイゴさんは何の話をしているのだろうか、と首を傾げていると、ダイゴさんは小さな声で「きみの服が」とだけ言った。
 私は下を向いて、なるほどダイゴさんが顔をしかめてるわけを理解した。シャツが透けていて、肌の色やその中の下着までがくっきりと浮かび上がっている。
 そうか、土日の間は自前の色の濃いTシャツでホエルコといたから気づかなかった。けど、今日は出勤日。いつもの仕事用の白いワイシャツが濡れるとその下までこうして見えてしまうわけだ。そういえば今日きた下着、こんな色だったなぁなんて思っていると、ダイゴさんの強引な手が、彼のジャケットを私にかぶせ、前まできっちり閉めさせた。
 す、すごい。この素材、すごい軽くて着心地がいい、なんて感動しているとダイゴさんは苦々しげに顔をしかめている。彼の綺麗な顔立ちにしては渋い表情だ。

「見てしまってごめん、でも気づいて欲しくて」
「いえいえっ! こちらこそ、貧相なもの見せてしまってむしろごめんなさいですよ!」

 ダイゴさんは男性として謝ってくれている。けれど、私のなんか見ても特に嬉しくないだろうに、わざわざ謝らせてしまい、こっちの方が申し訳ないくらいだ。そのくらいの気持ちだったのだけど、ダイゴさんの瞳は、苦さを増した色で私を射抜いていた。

さんは多分ニブい人なんだろうなと思ってたから、ゆっくりと関係を進めていくつもりだったけど……。普段こんなに無防備なら、呑気にはしてられないね」
「は、はぁ、……」

 ダイゴさんの言葉の意味をとりかねていると、別の違和感が私の意識をかっさらっていく。
 え、あれ。ダイゴさん、いつもよりちょっと顔が、赤いような? 勘違いだろうか。でもダイゴさんの上半身は濡れていないはずなのに、いつもより目元が潤んで揺れている、ような。
 私の知る副社長とはまた違う表情を浮かべたダイゴさん。それに当てられて、私までどぎまぎしてしまう。急に押し黙った私の視線を読み取って、ダイゴさんは熱のこもったため息を吐いた。

「ボクも男だからね。好きな人の本当は見られないものを見てしまったら、思わず喜びもするし、自己嫌悪もするよ」

 え、好きな人? 今そう聞こえた。ダイゴさん自身は好きを言うことにあまり戸惑いがない人なので、そこまで珍しい発言ではない。だけど、この状況、真剣さを帯びた顔で言われると話は別だ。
 着せてもらった彼のジャケットも相まって、なんだか私は勘違いを起こしてしまいそうだった。

 ダイゴさんの言動に意識を奪われていた私は、ボールから出っ放しだったホエルコの様子に全く気づくことができなかった。
 ホエルコは私たちの様子には御構い無しにもう一度、水を目の上から思い切り噴射。高く上がった水は今度は私ばかりじゃなくダイゴさんのことも頭から濡らしてしまった。

 雨のような水が地面へ落ちきって、水の勢いに下を向いていたダイゴさんが顔をあげる。その仕草は全て私にはスローモーションに見えた。

「……、……」

 思わず息を飲んだ。シャツに透けたダイゴさんの素肌、その白さ。肌の色は顔の色と地続きなはずなのに、普段見られない場所だからか痛いくらいに心臓を掴まれる。
 水を得たダイゴさんの髪は艶やかに光って、彼の肌に張り付く。頬を伝う水まで陽の光を反射して、装飾品に散りばめられる宝石のようだ。水も滴るなんとやら、とは最近聞かないけれど今この瞬間、名言だと確信してしまった。
 おそらく隠せないくらい顔が熱くなるのを感じながら、私は感嘆した。

「な、なるほど……」
「これでボクの言う意味が分かっただろ?」
「一瞬喜んでしまった自分の不埒さが、恥ずかしいですね」
「それは、ボクもだよ」

 再度、顔に伝う水を振り払う仕草に垣間見えたダイゴさんの表情。それは今まで見たことのない、苛立ちをこらえたような顔で、グッときてしまった。
 このひとは私がどれだけたくさんの賞賛を注ぎきっても、悠々と受け止めきってしまう。そんな素敵なひとであることはわかっていた。だから好きにならないよう気をつけていたのにな。もう戻れない今までに別れを告げながら、私はどきどきと胸を高鳴らせなからしばし彼に見入ったのだった。




(「ダイゴさんとラッキースケベ」とのお題ありがとうございました!)