新しく何かを始められるなら、なんでもよかったんだと思う。タイミングとか気分とか、何かがちょっとでも違ければ、私は別のことに時間とお金を注いでいたんだろう。だけど、なんとなく私が選んだのは自分磨きを始める、ということだった。

 きっかけは幼馴染のダンデが10年ぶりに負けたことだった。ポケモンバトルにおいては言葉通りの負け知らずだったダンデが、劇的な試合展開の末に敗北した。しかも相手は歴戦のジムリーダーなどではなく、ジムチャレンジ上がりのルーキー中のルーキーと呼ばれるトレーナー。ダンデは、ガラルの新しい未来を祝福し、スタジアムから去るまでを完璧なチャンピオンであった。多くの祝福の中で悲しさも入り混じった出来事のはずだ、負けた本人が一番悔しいはずだ。だけどその後の道は、ローズ委員長の後を担うという、また彼らしい一歩を強く踏みしめたものだった。
 そしてもう一人の幼馴染のソニアも、晴れやかな顔で次の道へと歩き出した。今まで自称マグノリア博士の助手を名乗りマイペースに過ごしていた彼女は打って変わって、走り出したように忙しくしている。
 そんな二人の姿に背中を押され、私も何か、なんでもいいから前に進もうと思ったのだ。
 二人に比べれば小さすぎる選択かもしれない。けれど冴えない自分が小さなコンプレックスだった私は、おしゃれになり、メイクも上手になり、自分に自信を持ちたいと思ったのである。

 その決意をダンデとソニアの二人に打ち明けるのも、また一つの大きな壁だった。
 相応の緊張はあったけれど、同性であるからかソニアには比較的、早く伝えることができた。

「いいじゃん! やってみなよ!」

 ソニアは諸手を挙げて私の気持ちを後押ししてくれた。私の相談に快く乗ってくれるようになった。
 ダンデに伝えるのには、かなり苦労した。彼が担うガラルの未来を導く仕事に比べれば、小さすぎる願いだかなのか、口にする前はとにかくどきどきした。言わなきゃ、伝えたい、と身構えている間はダンデが口にしていた雑談も全く内容が入ってこないくらいだった。いつまでもどきどきは続きそうで、多分話の腰を折っているのだろうと思いつつも私は彼に向け、切り出した。

「あの、実はね! ……っ私、も、ダンデみたいに、変わっていけたらいいと思うんだ。ちょっとずつになっちゃうかもしれないけど……」

 恐る恐る伺ったダンデは、目を見開いて驚いていた。けれど、ふ、とこれ以上ないってくらい優しく目を細めて、もう一人の幼馴染は言ってくれた。

「ああ、待ってる」




 平々凡々な私だけど、本当に周りの人間には恵まれていると思う。ダンデのことは言わずもがな。彼と幼馴染だと知られると何度も周りに羨ましがられていて、誇らしい気持ちになれる。
 ソニアは自分も忙しくしているくせに私の相談にめんどくさがらず乗ってくれる。「遠慮しないでよ!」という明るい言葉に救われながらも、研究の邪魔にならないようほどほどに意見を聞かせてもらっている。
 それにホップも。顔を合わせるたびに私の小さな変化に気づいて、はつらつとした声と笑顔で褒めてくれるのだ。その褒め言葉を正面から受け止める勇気も次第に出てきて、私は願った通り少しずつ変われている、のだと思う。

 幼馴染たちの言葉は私を勇気づけてはくれるものの、ちょっぴり身内贔屓なんだろうな、という気持ちが拭えなかった。だけどようやく、私は少し変われたのかもしれない、と思える出来事が起きた。

「荷物、重そうですね。お手伝いさせてください」

 ガラルで一番の都市、シュートシティ。その人通りの多い街中で私は呆然としてしまった。だって声をかけて来た相手は見知らぬ男性だったから。
 初めは事態が飲み込めず、私は自分の記憶を疑った。

「すみません。どこかでお会いしたことありましたっけ……」
「いいえ?」

 私が忘れてしまっているだけで実は顔見知り、の路線で行った見たが違うようだ。そうこうしてるうちに彼はやや強引に私の荷物を引き受けようとしてくる。

「あの、大丈夫です、悪いですよ! 重いですし!」
「ええ、あなたの手には重たそうなのでお手伝いしたいんですよ」
「私こう見えて力ありますし、すぐそこの駅までなので大したことじゃないです!」
「だったら僕にとっても尚更、大したことじゃありませんから」
「あの! もしかして私がおばあちゃんに見えてますか……!?」

 ソニアの助言に従って、私の化粧は控えめだ。『は私みたいにするより、元から美人でした感を伸ばしていけば絶対良い感じになると思う!』と言われ、その意味は今だに飲み込めていないものの、ソニアの言う通りに基本のスキンケアを抑えて無理のないメイクとなっている。一応自分で鏡を覗き込んで、髪を染めずともちょっぴり華やかさが増した、と思っていたのだけど。
 でもそれが都会の男性には効かず、年配に見えたとか。だからおばあちゃんの荷物を持ってあげようとした、そうとしか思えない。確信を持って彼に聞いたのだけど、私を待っていたのはカウンターパンチであった。

「いいえ、とても素敵な女性に見えています」
「すっ……!」

 素敵な女性。耳慣れないけれど、輝いて聞こえる響き。大人扱いまでされているということに、指先がじん、と痺れた。

「面白いひとですね。どちらに行かれるんです?」
「え、駅に……」

 笑われたことで大人しくなってしまった私から、彼は荷物を引き受けて歩き出す。ようやく私は事態を飲み込む。
 ソニアがちょっと意地悪な笑顔で言っていた。

『今のなら、人の多いところに行ったらすぐ声かけられちゃうよ』

 彼女の言葉が、現実になったのだ。

 私は震えた。都会ってこわい。もちろん彼に下心があるのだろう。そうじゃなければ見知らぬ女性の荷物持ちなんてしない。
 だけどこんな風に大切そうな扱いされたのは初めて、慣れない事態に緊張が脈を早めていく。最初はカッカと暑くなる頭で目が回りそうになって必死に歩く。

 もともと駅までの距離は長くなく、気づけば目的地についていた。ありがとうございましたと何度も何度もお礼を伝えれば、最後彼は名刺を差し出した。表には彼の名前と勤め先、それに肩書き。裏面には電話番号。
 ははあ、なるほど、なるほどね? 名刺を睨みつけ一人納得していると、大きな何かが肩を包んでそのまま引き寄せられる。


「ダンデ」

 声で誰かはわかったけれど、地元ではあまり見ることのない仕事着のダンデがそこに立っていた。というかダンデの引き寄せてくる力が強い。痛くはないのにちょっと身じろぎしても逃れられないくらい、私はしっかりと的確に、ダンデに押さえつけられている。そのおかげで頬が思いっきりダンデの胸あたりに当たっているし、ダンデの白いシャボタイに鼻がくすぐられそうになるくらい近くて喋りづらい。

「こんなところで会うなんて偶然だね、どうしたの?」
「今日この辺りに来てるって聞いたから探していたんだぜ? それで、こちらは?」

 仕事の合間でお疲れなのだろうか。問いかけたダンデは笑っているのに、その笑顔からはぴりりと辛いものを感じる。そのせいだろうか、今ここにいるのは超有名人ダンデだっていうのに、あの男性は「じゃあこの辺で」と忙しそうに去って行ってしまった。

「もうあのひと、行っちゃったよ?」

 そう言うと、ダンデは腕から力を抜いてくれた。ようやく離れることができ、ダンデの顔を見上げると、彼は私を咎めるような目をしていた。

「全く……。次来るときはオレにちゃんと連絡をくれ」
「なんで?」
「キミが悪いやつに、簡単に捕まるからだ」
「悪い人ではなかったと思うけど……」

 私は彼が去って行ってしまった方向を見た。シュートシティの喧騒にまぎれ、あの人影はもうない。

「悪い人じゃないってどうしてわかるんだ」
「だってあの人、営業で私に声かけてたんだもの」
「うん?」
「だってほら、名刺もらった! 裏に電話番号まである!」

 初対面なのに声をかけてきた男性。私も最初は下心があるものと思った。行き先が人の多い駅などではなかったら、私もなんとか振り切って逃げていた。
 けれど名刺をもらってわかった。下心は下心でも、お金にまつわる下心だったわけだ。
 彼はビジネスチャンスを掴みたくて、私なんぞに声をかけ、「素敵な女性に見える」なんてお世辞まで言ったのだ。涙ぐましい努力である。

「都会のサラリーマンは大変だね、顧客獲得のために見知らぬ人の荷物持つなんてね」
「……天然由来100パーセント」
「うん?」
「ソニアのセリフだがな」

 額に手を当てながらダンデが重いため息を吐く。その表情にわずかな疲れを見つけ、私は肩を落とした。

 私は昔っからソニアにもダンデにも、心配かけてばっかりだ。賢い二人に比べたら私は考えたりずでにぶいところがある。二人から直接「目が離せない」と言われたことだってあった。
 周りの手助けもあって、ちょっとは変われたような気はしている。だけどひとつ直したら、またひとつ、変えたい自分が見つかってしまった。自分へのやるせなさはひとまず横に置いておこう。自分のことよりも先に、やらなきゃいけないことがある

「ダンデ、心配かけてごめんなさい」
「ほんとだぜ。オレはいつもキミに振り回されてる」
「ありがとう。私のこと、守ってくれたんだよね」

 見知らぬ彼が悪い人かもしれないと思って、駆けつけてくれたのだ。強引なくらい抱き寄せられたのも、変な人との関わりを持たなくていいよう守ろうとしたからだ。結局ダンデの勘違いではあったけれど、私を思いやっての行動には感謝しかない。



 名前を呼ばれ、振り返りかけた顔がなぜか横を向かされる。顎に指を添えたダンデによって。
 鮮やかな一瞬だった。近づいてくるダンデ。肌と肌が擦れる音がいやに大きく聞こえるのに、周りの雑踏が遠のいていく。不思議な感覚の集中に気を取られているうちに、頬にくすぐったくダンデの唇がくっついて、離れてった。

 ぱちん、と思わず自分の頬をおさえた。自分の手のひらが覆ったその下に、確かにダンデの唇が落ちた。
 自分で叩いたくらいでは、柔らかなものが着いて離れていった感覚は紛れてくれない。

「っそれはやりすぎ……!」

 男の人を追っ払うために抱き寄せられたのはまだ、わかる。だけどたとえ頬にでもキスはやりすぎだ。
 しかもダンデのキスの仕方も、
 本当の恋人にやるような真剣さだった。思い出すだけでどぎまぎさせられてしまう。
 なのに目の前のダンデはひょうひょうとして、むしろ私の反応を楽しんでいるようも見える。

「どうしてだ?」
「どうしてって……!」
「伝えたはずだ。オレはとはただの幼馴染から変わってきたいって」
「……へ?」

 思考がぴたり、と停止した。何について考えたら一切わからなくなるような、本当の停止だ。
 数秒してからようやく疑問が湧いてくる。ダンデが何を伝えたって? それっていつのこと? というか、幼馴染から変わるって、何に?

「もちろん、キミの言った通り”ちょっとずつ”でいいが、だからといってあまり自由にさせてやるつもりもないぜ」

 ちょっとずつ、のワードでようやく記憶がつながる。私が”変わりたい”という気持ちを打ち明けた時だ。確かに何かダンデが言っているのには気づいていたけれど、記憶には一切刻まれていない。

「え、あの時!? そんなこと言ってたの!?」

 額に手を当てながら重いため息を吐く。ダンデ、本日二度目の仕草だ。
 じゃあさっき片腕で抱きしめられたのも、頬に落ちてきたものも、本気の気持ちがこもっていた、ということになる。

「うっそお……」

 ここはシュートシティの駅構内。たっぷりの人が、私たちを見ている。そんなことも忘れて、私は赤面した。





(「告白はしていないがハグやキスをしてくるダンデに戸惑いつつも最後はハッピーエンド」とのリクエスト、ありがとうございました)