来なければいいと思っていた朝が来た。昨晩、眠りさえしなければ朝だって来ないんじゃないかと子供じみたことを考えていたくらいだった。結局いつの間にか意識は落ちていて、セイボリーさんとの夜はもったいなく過ぎ去ってしまった。そして真っ白い光や、大きな塵が床に落ちたあとの空気。窓の外の音たちもまだ生まれたてみたく弱々しい。皮肉みたいに綺麗な朝が私の家の中にも訪れていた。
皮肉でもないか。セイボリーさんにとっては旅立ちにふさわしい、美しい朝だ。
さまざまなしがらみを振り切って、セイボリーさんは今日、ヨロイ島に行ってしまう。
「おはようございます」
「おはよう、ございます……」
先に起きていたセイボリーさんはもう着替えを済ませていた。昨晩のシャボタイ付きの白いシャツ姿ではなく、セイボリーさんはトレーナーとしてのウェアを着込んでいた。手袋とシルクハットだけはまだ、玄関先の棚の上に残されているけれど、ソックスはぴったりと彼のふくらはぎに沿い、シャツはしっかりインされている。
寝癖ひとつ無いセイボリーさんのサラサラとした髪。その流れる先を追いかけてるうちにセンチメンタルな感情がわたしを染め始める。
恋人と、セイボリーさんとしばらく会えなくなる。そう思うだけで私は朝の全てに負けそうになる。私をどうにか成り立たせるのは仕方がない、という感情だ。セイボリーさんは行ってしまう。泣いても悲しくなってもどれだけ寂しくなっても仕方がない。
だから泣くことも悲しむことも寂しさを感じることもしないよう努めて、わたしは朝ご飯の準備のためキッチンに立ったのだった。
セイボリーさんは先にキッチンに立ってくれていて、昨晩洗って乾かしておいたカトラリーを次々と空中に浮かしていた。すぐ使わない食器は棚の中、ナイフやフォークなんかはテーブルの上へとセッティングしてくれる。
セイボリーさんは、意外に朝食をしっかり食べる。恐らく実家の方が朝食に関してはしっかり食べさせる方なのだ。セイボリーさんがあった方が良い、と考えるので、私も彼との朝食についてはそれに倣うことにした。
豆缶、キノコパック、やさいパックなどなどに助けられながら、伝統的な朝食のスタイルを取る。その間にも、魔法のようにカップやソーサーが空を飛び、朝食の準備は整えられていった。
テーブルの向かいに座ったセイボリーさんの表情は物憂げだ。斜め下に向けられてるまつげが瞳の半分以上を覆い隠してしまっている。
「……ヨロイ島でも、元気でいてくださいね」
紅茶が冷めるのを待ってサラダをつつきながら、私は平凡すぎる言葉をセイボリーさんにかけた。
「ワタクシ、何も約束できませんので」
「わかってます。仕方ないですよね、修行なんですから」
「期限もありません、エンドレスです」
わかってます、わかってますよ。そんな傲慢を、苛立ち交じりにぶつけてしまいそうになる。なんなら大事な出立の前夜から私の家に来てくれた理由も見当がついている。
この家ではセイボリーさんくらいしか使わないテーブルナプキン。彼は流れる動作で口元を拭ってから、多分昨夜ずっと言おうとしていたことをようやく口にした。
「まあ一度関係を清算いたしましょう」
「………」
「別れますか」
セイボリーさんにしてはエレガントさに欠ける言い回しで、ぶつかってきたそれ。無骨なのに私の骨を通り抜け、心臓の一点だけに鋭い痛みを差し込む。
「あの、セイボリーさんがマスター道場での修行に真剣に取り組みたいのはわかってます。けど……」
「大丈夫ですよ、安心なさいな。が望むならまた絶対的なパワーがワタクシたちを引き合わせてくれますよ」
わたしの弱い反論を封殺し、笑顔でセイボリーさんは私の決断を後押ししてくる。お顔は美しいのだけれど、それは崖から飛び降りろと背中を押すようなものだ。その方が楽になれるぞとの思いやり付きで、私は背中を蹴られている。
「正直、こうなるんじゃないかなって思っていました。セイボリーさんはそのつもりなんだって、なんか気づいてしまって。いつだろう、いつ来るんだろう、ってずっと怖かったです」
顔を合わせた時から覚悟していた。セイボリーさんはどこかのタイミングで別れ話をすると。
セイボリーさんも簡単には言い出せなかったのか、夜のうちには切り出されなかった。ならば朝が来てから、セイボリーさんがこの家を出て行く間に、伝えられるはずだ。予感にまみれたキッチンに二人で立っていた間、それがどんどん現実味を増していくことにも感づいていた。
セイボリーさんが別れ話を持ち出した理由もわかる。
きっと無期限に離れているうちに、私たちの関係は綻び始める。小さな割れ目を継ぎ足して、どうにか形を保とうとするのは楽しい作業ではないだろう。それならお互いに一度まっさらに戻って、楽になってしまおうとセイボリーさんは提案してくれているのだ。
彼の独りよがりな願いではなく、私のこともきっちりと頭数に入ってるのだから、なおさら痛いのだ。
「だけど……、あの、一緒にサラダを作ってる時なんですけど」
「サラダです?」
予想外だったのだろう、メガネを曇らせるセイボリーさんに私は頷く。
小一時間前の出来事だ。背後でセイボリーさんが食器が宙を舞わせるなか、私はサラダにするため様々な葉野菜をちぎり、あるいはフルーツをナイフでひとくちサイズに切っていた。刃物を扱っているというのに、頭の中は刻一刻と近くセイボリーさんとのお別れをどう受け止めるかでいっぱいだった。といっても、別れを受け入れたくないという気持ちから考えは一向に進まない。泣きたい気持ちで小粒の赤い実を半分に切っていた時だった。
私が切ったばかりの赤い実。その二片が私の手元からふわりと浮き出す。私の周りで何か物が浮くなら、それは全てセイボリーさんの力だ。だから驚きもせず、どちらかというとこれからきたる絶望に濁った視界で追ったのだった。
すると小さな実の半分は私のボウルに、もう半分はセイボリーさんのボウルに落ちていった。ちぎった野菜のクッションに2、3回はねて赤い実の破片は着地した。
私は思わずセイボリーさんを見た。彼も遠い何かを見ているようなぼうっとした表情を浮かべていて、私が胸を詰まらせてるのにも気づかない。おそらく、無意識だ。だけどセイボリーさんは私のお皿と彼のお皿にそれぞれ、分けてくれた。ひとつの赤い実を分かち合うように。
「そうでしたっけ?」
「はい。……大げさかもしれませんが、それを見た時に、私はなんだか嬉しかったんです。ずっと見ていなかった光を見つけたような気持ちになりました」
お皿を見れば、私もセイボリーさんもすでに食べ終えて、半分になった赤い実はもうそれぞれのお腹の中だ。
「果実ひとつを分けて食べた。それだけなのにちょっと頑張れそうな気分になりましたし、なんなら勇気ももらえました」
実際に、勇気はもらえた。口でも行動でもあまり敵うところのない恋人相手に、自分の気持ちをきちんと打ち明けよう。そして私たちの間に横たわる不安を跳ね返してみようと思えたのだ。
「こんなことで嬉しくなれるのは私にとってセイボリーさんだけです。やっぱり離れ離れでも、寂しくてもいいから、別々に生きていくんじゃなくて、分かち合っていたいと思いました」
「………」
「大丈夫です」
大丈夫。先ほどセイボリーさんが別れの決断のために囁いてくれた言葉をわたしはそのまま返した。
「……気持ちに変わりはないのですか?」
「はい」
「フン。後悔してもワタクシ、責任とりませんよ」
セイボリーさんは優しい。いまだに私が怖気付いて前言撤回してもいいように逃げ道を用意してくれている。
確かにようやく勇気を握れたのは小一時間前。それまで私もセイボリーさんの決断に打つ手を見つけられずにいて、泣きそうになっていた。だけどもはや、わたしの心は決まっている。
「待ってます」
恋人のままでも、そうじゃなくなっても、この先が辛いことには変わりない。それならば、セイボリーさんとの時間だと思える方がいいに決まっている。
「あ、あなたってひとは……。なんでこういう時だけ頑固なんです?」
「へへへ……」
「さすがのワタクシもみらいよちできませんでしたよ」
セイボリーさんは呆れてるような口ぶりだけれど、それは私のセリフだ。
初めに分かち合いをくれたのは無意識のセイボリーさんだ。あなたってひとは。こんな大事な日にも私を導いてくれるのだ。
(「セイボリー夢を是非お願いします!」とのことでした。リクエストありがとうございました)