※シリーズものです
ドアを開ける前から、なんとなくの勘が働いて、今日会いに来たマーレインは眠っているような気がした。
ここはホクラニ天文台。進行している研究や開発は様々あるが、やはり夜通しの観測もこの天文台の大事な役割だ。なので夜勤を控えた面々が所内で寝てるというのはそう珍しいことではない。
念のためドアが開いてすぐの挨拶を控えて中を覗けば、やはり部屋は薄暗く、パソコンも本人もスリープモード。ソファからはかすかな寝息と、ひょろ長いマーレインの足がはみ出ている。彼の外されたメガネがローテーブルの上で同じく体を休めていた。
マーレインは仮眠中。今夜は仕事があるらしい。まあ急に来た私の方が悪い。マーレインに返すつもりだった本とそのお礼の差し入れ。これを渡すために今日は来たのだが、再度抱え直し、私は回れ右で事務所に戻った。
「あ、さん」
事務所に戻ると、さっきも挨拶をした研究員さんがわざわざ立って応対してくれる。マーレインの客人ということで丁寧に扱ってくれているのだろう。この辺り、マーレインが所内でも慕われているのが分かる。
「所長には会えましたか?」
「いえ。彼、仮眠中でした」
「そうでしたか! 所長、寝てたんですね……。それは失礼しました」
「いやいや! 私も急に来ちゃいましたから。というわけで、何かお手伝いありますか?」
マーレインの友人として、そしてマーレインと同じ研究室出身として天文台の顔なじみになってきた私は度々、天文台のお仕事を手伝う。と言っても大事な研究には責任が持てないので携わらない。私が手を出すのは誰にでもこなせるような雑務だ。
「あの、じゃあ天文台のパンフレットを折ってもらってもいいでしょうか?」
「お安い御用です」
「助かりますよ!」
研究員さんの顔がぱぁっと華やぐ。私はその心境に共感した。
わかる。私が研究員だった頃もこういう雑務に手を取られがちで、自分の研究時間を確保するためにはいかに雑事を手っ取り早くやっつけるかは大事にな要素だった。やりたいことがあるのにできない、というのは誰にとってもストレスだ。だからこそ、そこに現れる助っ人への感謝もひとしおなのだ。
空いているテーブルにドンと載せられる、印刷したてのホクラニ天文台パンフレット。これを三つ折りにすれば良いらしい。束は分厚いけど、私のやる気も十分だ。
きっかけはマーレインであったが、天文台には何度もお邪魔になっていて、今は顔見知りばかりだ。天文台自体も様々な研究がのびのびと続けられていて素敵な場所だ。今はみんなにこやかに私を受けいれてくれる。けれど、ここで何もしないで通い続ければ、いずれ迷惑がられてしまう心配がある。
目当てのマーレインは夢の中で、実際私は暇している。今後とも度々来させてもらうためにも、これくらいのお手伝いはしたい気持ちがあった。
それに、私はどちらかというと、こういう役回りになりがちなのだ。幼い頃から家庭内でも奔放な家族の後始末に回らせられたりした。学生の頃はなぜだか周りに濃ゆいメンツが集まって、気づけばその調整やサポートをしていることが多々あった。濃ゆいメンツというのは言うまでもなく、ククイにバーネット、マーレイン。そのあたりだ。
わざの研究をするククイの記録係を手伝ったりなんて、その最たるものだ。手伝いは誰でもできたはずなのに、なぜか気付けば、彼のノートが渡されていた。ククイを手伝うことになったきっかけは今でもあまり思い出せない。でも、ククイを手伝い、ビーチに通っていたおかげで、私はマーレインに出会えた。
華やかなスポットライトの当たる役回りとは言い難い。だけど、この役回りなりの幸せもきちんと存在している。
彼がアローラを代表するポケモン博士になったことは友人として誇らしいし、彼を通してマーレインという人物と関わりが持てたのだから、ククイにはその点感謝しているのだ。
物思いにふけりながら無心でパンフレットを三つ折りにしていると、事務所に新たな人物が現れた。
丸っこい影は私を見つけるなり挨拶をしてくれる。
「あ、さん。こんにちは」
「マーマネくん。こんにちは」
「なるほど。マーさん寝てるんですね」
「そゆこと」
さすがマーレインが見込む天才少年だ。マーマネくんはこちらが説明するまでもなく状況を読み解いてくれた。
「さんが来てるってことは……、じゃあこの前借りていった本、読み終わったんですね」
「うん。面白かった。本を返したかったのと、作中で引用されてた書籍がマーレイン持ってるんじゃないかなと思って、一応聞きに来たんだ」
「ああ、マーさんなら大抵は揃えてると思いますよ。……すぐに見つかるか、わからないけど」
「あはは、確かに。マーマネくんの言う通りだ」
マーレインの書棚を一言で表すとぐちゃぐちゃだ。普段は大人ぶっているくせに、彼の頭脳と童心を一緒に詰め込まれた彼の持ち物は、どこに何があるのかが本人にしか分からない。それは私とマーマネくんにとっては共通認識のようだ。
マーマネくんと私は、よくこうしてマーレインの話題で盛り上がる。性別と年代とが違っても、好きなものが一緒なのだから、会話に困ることはあまりない。
「あ、今日のお菓子もあるよ」
「うわあ、楽しみです!」
「マーマネくんのその良い反応があるからつい買っちゃうんだよね。みんなで食べるとより美味しいし」
世間話をしながらも手は止めない。脇にどんどん積み上がっていく、完成品のパンフレット。
マーマネくんに横から、さん、器用ですねと褒められる。そうさ器用貧乏とは私のこと。こういう雑務も慣れっこさ。ちょっぴり泣けてくる気もするが、でもそれが私の人生なのだ。
「何してるんだい」
ずっと動き続けていた手が、現れたその声でピクリと止まった。起きて来たマーレインに、研究員たちが口々に挨拶をする。私も振り返って「おはよう」と声をかけると、起き抜けのマーレインは事務所の明るさに顔をしかめていた。寝起きのマーレインはちょっと悪い顔をしていて、それだけで私の気分は良くなってしまった。
「来てたんだね。起こしてよ」
「起こすわけないよ、夜勤あるから職場で寝てるんでしょ。お疲れ様」
「お疲れ様はきみの方だろ。自分の仕事もあるのに、ここに来ても仕事かい。きみにとってはいいことなしだね」
「……あったよ?」
「え?」
マーレインの寝起きも見られたし、変な寝癖ついてるところも嫌いじゃない。自分のこととは全く気づかないマーレインが眉をしかめる。またもレアな表情が見られてしまった。惚れた弱みのある私にはご褒美である。
「良いことがあった、ってなんだい? 誰かに何か言われたのかい?」
「内容のことなら秘密」
「じゃあ何かもらったとか?」
「これは正真正銘のボランティアだよ」
足がはみ出してしまうソファで寝たのだから当たり前なのだが、あまり眠りの質は良くなかったようだ。マーレインは私の向かいに椅子を持って来て座るも、まだ顔をしかめたまま。脂肪のない顔のせいもあって、彼が少し顔をしかめるとくしゃくしゃになる。あくまでいつもの柔らかな物腰に比べればの話だが、今日のマーレインは刺々しい雰囲気をまとっている。
「きみはそうだ、昔から……」
「なんのこと?」
「がそうやって許すから、人に都合よく扱われるんだよ」
「ええ? そんなことあった、っけ……?」
確かに私はお手伝い体質ではある。けれど、周りに都合よく扱われた覚えはあまりない。自分のうだつの上がらなさに落ち込んだことは多々あるものの、周囲の人間には恵まれたようで自分への扱いに落ち込んだことはない、はずだ。
「あ、もしかしてククイのこと言ってる? あれはまた特別というか、巻き込まれたというか」
「………」
「確かに当時のククイからはお金はもらっていないね。でも楽しかったし、あれはあれでいいことあったと、いうか……」
それから後ろは言葉を濁さざるを得ない。私にとっての”いいこと”とは間違いなく、向かいに座る男のことなのだから。
遠くからふと、柔らかく笑ってる姿を、丸まった背中を眺めることのあったマーレイン。でも直接話すことはなかった。話しかけに行くこともなかった。その時はまだ自分の気持ちに気づいていなかったからだ。
恋心を自覚したのは知り合った後。ククイ抜きでも話すようになったあたりだった。眩しい才能たちに比べればなんとも凡な私だけれど、だからこそマーレインに出会えた、マーレインを好きになれたのだと思うと、やはり自分の立ち位置は悪いばかりじゃないと思ってしまう。
黙り込んでいたマーレインが、向かいの席から立ち上がる。おそらく目覚ましのコーヒーを淹れに行ったのだろう。
その背中を見送りながら思うのは、マーレインは意外と目ざとい人物ということだ。彼は誰もが見ていない影に人知れず視線を向ける。そして口に出していないだけでその実ほぼ全てを把握していしまうような、そういうところがある。
物事をよく見るマーレインは、意外と私のことも見てくれているんだよな。私が気づいていないだけで、彼の視点だけで見えている何かがあるのかもしれない。そう考えて、なんだか浮き足立ってしまうのが悲しき私の性である。
「まぁ、気にしないでよ。す、好きな人の役に立てるなら、都合よく扱われるのもいいもんでしょ」
好きな人々の手伝いになれるのは嬉しいことだ。そう伝えたいだけだったのに声が上擦ってしまったのもまた、マーレインがこの場にいるせいだ。真剣な意味合いを含んでいなくても、好きな人相手に好きの言葉を紛れ込ませるのはなんだかあざとい感じがする。私の自意識過剰かもしれないが、変な緊張が滲んでしまった。
ガン、と何か物音が、私たちの会話に割って入った。物音のした方を見ると、マーレインが戸棚に顔をぶつけている。というよりほとんどめり込ませているように見える。
「マーさん!?」
「だ、大丈夫!?」
マーマネくんも他の研究員も一様に驚いている。寝起きだからボーっとしてるなとは思ったけど、何やってるんだマーレインは。
思わず立ち上がってマーレインの様子を見ようと顔を覗き込もうとした。それがふい、と逸らされる。
今まで柔らかな、握りやすい球で交わしていたキャッチボールが、途切れたと思った。向けられたのはマーレインの耳の後ろ。私がこれ以上近づかないように、手のひらをかざされる。それは明らかな拒絶を表していた。
「……ごめん、寝足りないみたいだ」
私と反対方向を向いたマーレインはそのまま事務所を出て行ってしまった。
すとん、と脱力するように席に戻った私に、マーマネくんがそっと声をかけてくれる。
「さん……」
「マーマネくん、私、出しゃばりすぎちゃったみたいだね……。なんか、迷惑かけたみたい。ごめんなさい……」
マーマネくんは優しく首を振ってくれる。だけど気遣いでしかないとわかっている。
遠回しに手を出さないでほしいと言われていたのだ。それをいい気になって、わかったような顔をしていたせいで気付けなかった。図々しい真似を、してしまった。マーレインの不機嫌そうな表情は、寝起きのせいだけじゃなかったというわけだ。
それから私は、パンフレットをきりのいいところまで折るとすぐさま荷物を持って退散した。
マーレインに返すはずだった本はマーマネくんに託した。もともとお礼を綴った短い手紙を添えてある。直接返したいというのは私がマーレインに会いたいだけのエゴだったのだ。
帰りのバスで、私は座席の底に沈んでしまいそうなほどうなだれた。
まず、出しゃばりな自分がマーレインやホクラニ天文台の人々に迷惑をかけたことに落ち込んだ。
加えて辛いのは胸の痛みだ。私は距離感と自分が外部の人間であることを見誤り、線を越えてしまったのだろう。だからマーレインが顔をしかめたまでだ。悪いのは私だ。
だけど、久しぶりに示された拒絶は鮮やかに私を切りつけていく。
辛いなぁ。突きつけられた現実を噛み締める。
何が片想いでいい、だ。マーレインの優しさに甘えて、私は遠ざけられる痛みをすっかり忘れていた。だから片想いで十分なんてたわごとが言えたのだ。この胸を太い針で何度も刺され、そして引き抜かれていくような痛みが、まざまざと思い出されていた。
自分の過ちは一晩中私を苦しめた。もうしばらくマーレインに会いに行けないなと思うくらいに。だけど意外にも、次の日マーレインの方から私に会いにきた。
昼休みになると同時に、受付から来客があるとの知らせが入ったのだ。聞いて降りると服装も表情も何から何までいつも通りのマーレインが立っていて「お昼ご飯一緒に食べよう」と誘ってくれた。
「……いいよ」
私はすんなりと了承していた。気まずさはある。罪悪感もまだ拭えない。だけどマーレインからのせっかくの誘いを断るのも惜しくなって、私は昼休憩を彼と過ごすべく会社を抜け出した。
近くのエスニック系食堂まで隣り合って歩く。マーレインはいつもよりふらふらしていて、もしかしなくても夜勤明けだ。昨日は顔を思いっきりぶつけていた彼だ。今日もどこかに頭や手足をぶつけやしないか、心配になる。時々本当にあぶなくて、思わず手を引っ張りたくなるものの、それに歯止めをかけるのは先日の顔を背けたマーレインだった。
だって昨日のことだ。まだ24時間も経っていないあの拒絶は消えずに残っていて、図々しかった私に慎みというものを教授してくれる。
昼時の食堂は案の定、昼休憩にエネルギーをかっこむ仕事人たちで混んでいる。私たちは狭い通路を抜けてカウンター席に隣り合って座った。
このお店にしたのはここの麺類なら、夜勤明けのマーレインでも胃の負担が少ないと踏んだからだ。店の雰囲気、客層からしてあまり好きな人を連れ込むような風情ではない。けれどまあ学生の、互いにお金がない時からの付き合いなのだ。今更安いお店に行くことに、恥じらいはない。
「Aセット、ひとつお願いします。ライスはサラダに変えてください」
「ぼくもそれを」
「マーレインもサラダでいいの?」
「うん」
二人して麺類が主役のランチセットを頼むと、私たちの間にはすぐさま沈黙が訪れてしまった。
いつもは黙っていても気まずさは感じない。だけどそれも昨日の今日では難しい。
マーレイン自身も夜勤明けということで表情もぼうっとしている。疲れた体でそのまま私のところに来てくれた意図はわからない。だけど疲労したマーレインを見ているだけで、なんだか申し訳なくなってくる。
「……マーくんがね、昨日のぼくの言い方だと誤解を招くと教えてくれてね」
「そう」
私は曖昧な相槌を打った。
「が来ることは構わないんだ。手伝ってくれることについては申し訳ないくらいだよ」
「ううん、これから控えるよ」
「本当に。迷惑だと思ったことはないんだよ、一度も」
「うん。ありがとう。でも……」
マーレインとのやりとりに何か誤解があってなくても、自分の行為があまりよろしくなかったことには変わりない。
昨晩、私はひとり悶えながら反省会を行なっていた。優しいマーレインはあまり責め立てないかもしれないが、やはり私は出しゃばり過ぎた。たとえパンフレットを折るだけであっても、曖昧な立場で手を出すべきではなかったのだ。
「身の程を弁えるって言うと大げさかもしれないけど、気をつけたいと思ってる。ごめん」
「えーと。だからその、そうじゃないんだよ……。ぼくがいいたいのは、あの時、ぼくがなんであんな態度をとってしまったかってことなんだけど、その……」
何かを必死に言おうとしているマーレインは妙に歯切れが悪い。私ももう子供ではない。いちいち慰められずとも、自分の面倒は見られる程度には大人だ。はっきり言われなくとも大抵のことを察する能力だってある。だから無理に言葉にせずともいいのだ。そう彼をなだめようかと思った。と同時に、マーレインはそれを口にした。
「ぼくは、の好きな人の話には、興味がないからさ」
息が止まるかと思った。自分の心臓が止まってしまったのかも。そう思える衝撃が、そのセリフにはあった。
本当にはっきり言われたくなかった。興味がない、なんて。言葉にされるとどうも耳に残って、過ぎ去ったはずなのに何度も何度も響き渡って私を打ちのめす。
私は今日の仕事が一切手につかなくなる予感を覚えながらそうだよね、と笑っていた。
「だからまたいつでも好きな時に天文台に来てよ」
「うん」
「みんなも歓迎してるよ」
「ありがとう」
どうにか言葉を返すも、マーレインと会話できている自信は皆無だった。喋れてはいるけれどそれがまともな会話なのかの判断もつかない。それほど私は動揺していた。ひょっとしたら顔になんらかの表情が出ていたかもしれないけれど、自覚する余裕も持てないでいた。すると目の前に運ばれてくる、湯気の立つAセットふたつ。マーレインがわざわざ取ってくれたお箸を受け取って、私は呆然としながらも流れに従ってとりあえず食べ始めた。食欲なんか吹き飛んでいて、胃に入れたそばから吐き出してしまいそうな気もしたが、全てを押さえ込むように私は昼食を摂った。
昨日、私は、彼が顔を背けたことに大げさに傷ついてしまった。だけどこうしているとまた捉え方が変わってくる。アレは、拒絶ではなかったのかもしれない、と。
私が勝手にはみ出てしまったラインを、マーレインが無意識に教えてくれただけ。そして知らぬ間に抱いていた期待で、自傷行為をしてしまっただけ。今のやりとりも、私が間違えていなければよかっただけの話なのだ。彼との距離を単なる友人とちゃんと弁えていれば、多分この胸も痛むことはなかった。
麺をずーずー啜りながら、私は「助かった」と思った。一生懸命食べている間はマーレインと会話しなくとも不自然ではないからだ。マーレインの方も、寝不足も合間っていつもよりは静かに食事を続けている。その静けさの中で私は何度も何度も過去を掘り返した。身の程をわきまえていた過去を。
片想いでいいなんて、ほんと、私は気取っていた。自分に酔っていたと言ってもいい。私は戻るべきだ、元のポジションに。昨日今日のようにあんまり辛いことが続くと、私はマーレインに会いに行けなくなる。気軽の本の貸し借りもできなくなってしまう。そのことの方がよっぽど嫌だ。まだ、そう思える。
だから、戻らなきゃ。そのためには、全ての期待を捨て去らねばならない。不可能とは思わない。だって今まではできていたはずなのだから。
そう、時にこうやって感情がなくなっていく。それもまた片想いだったと、愚鈍な私は痛みを与えられてようやく思い出すのであった。