※「ネズが記憶喪失になるお話」というリクエストでした。「記憶が戻ってハピエンより戻らない方が好み」との表記もあったので、戻りません
※戻らないがゆえに、愛し合ってるけどシリアスというか悲恋ムードになってしまいました。お気をつけください
『人間、なくてはならないものなんて、そうそうありはしないんですよ』
ネズが繰り返しぼやく物事はいくつかあった。謎かけみたいなそのセリフも、彼がふとした時に吐き出す呟きのひとつだった。恋人である私が横で聞いていることをネズもわかりつつも、嘆くように、または自らに言い聞かせるように言うので、あまり説教臭いと思ったことはなかった。ネズの指先から、目線から、背中から喉から染み出す、彼の表現全てに言えることだった。ネズは結局、自分に一番厳しい。彼が歌う、むき出しの暗い陰鬱な詞が一番最初に傷つけるのは彼自身だ。だから暗くっても案外聴けてしまうのだと思う。
人間、失っちゃいけないものなんて、そうそう無い。自分の発言を裏付けるかのように、ネズは今、いくつかの記憶を失いながらも、ごく普通に生きている。
ネズがいわゆる記憶喪失になったのは、もう半年も前だ。ふと気づけば結構な時間が経っている。
記憶喪失のきっかけは、複合的な要因が重なって、と聞いている。彼の抱え込んでいたストレス。それによってひどくなった彼の聴覚過敏。元々耳が良すぎるくらいなのに、さらに症状が重くなった当時のネズは見るからにげっそりしていた。そんな中、ポケモンバトルのトレーニングで、ポケモンのわざがネズのすぐ近くをかすめ、ネズが激しく転倒。脳震盪を起こして、病院に搬送された。半日くらい朦朧として、意識がはっきりした頃には彼はいくつかの記憶を失っていた。
『マリィ、あの方は誰です?』
ネズが病院に搬送されたことを知らされ、駆けつけた私に向けられた言葉は今も耳鳴りのように残っている。
どんなに疲れていても、例えどんなに昂ぶっていても、瞳の奥にあたたかな光を絶やさなかったネズが、他人を見る目で私を見た。あの瞬間は昨日のことのようにも思い出せるのに、世界のはじまりよりもずっと遠い日のことにも思えた。
全く反応ができなかった私を、マリィちゃんが病室から強引に引っ張り出してくれた。そして彼女はネズの状況を教えてくれた。年下なのに、家族がああなって彼女も辛いはずなのに、さらに重たい役目を背負わせてしまったことを今でも申し訳なく思っている。
けれど情けないことに私は酷く動揺していた。それにネズ本人に忘れられてしまえば、恋人という繋がりは頼りなきもので、病室で私は部外者でしかなかった。病院にいても何もできることはなく、その日は帰らせてもらった。状況が飲み込めなさすぎて、私は泣くに泣けなかった。ネズが一番辛い中、彼を責めることもできない。
とにかく今のネズに負担やストレスはかけるべきではない。そう思い至った翌日、私からも改めて、はじめましてを彼に告げたのだった。
マリィちゃん経由だが、医者の見解を聞くとどうやら記憶自体が失われたわけではないらしい。どこかにある、だけど上手に取り出すことができない。簡単に言うと、ネズの脳内は”収納の中身を全部ひっくりかえしてしまって、どこに何があるかわからない状態”という話だ。そしてネズが脳への衝撃と共にどこかへやってしまったいくつかの記憶。その中に、不運にも私も入っていたようだ。
実際ネズが無くした記憶はいくつかある。いくつかのポケモンの種族名、自分の家の裏に何があるのか、好きだったはずの紅茶の香り、フォークの握り方、しょっぱいという味覚。共通点はまるでなく、ネズがありかを忘れてしまった記憶たちは、無差別としか言いようがなかった。
マリィちゃんから聞いて思わず笑ってしまったのは、缶詰の開け方をすっかり忘れ去ってしまったという話だ。缶を目の前に途方にくれたネズを想像すると、彼に似合わない可愛さで、今も思い出し笑いをしてしまう。
それでもネズは、ネズという人格を損なわなかった。多少の不便やトンチンカンな行動はあるものの、ジムリーダーをひとまず続けられている。歌を求められた時は、覚えている歌だけ歌えば彼の不調を疑う人は少なかった。
彼のバトルの才能、表現者としての才能は、私を含め多少の記憶を失ったくらいではビクともしなかったのだ。
その日、私はネズと駅で待ち合わせだった。
「どうも、さん」
約束の時間より少し遅く現れたネズに、よそよそしく名前を呼ばれる。会釈までされてしまった。以前のネズなら、私を端的に呼びつけて「なんでもありません」と言いのけていたのに。だけど、仕方がない。私も距離感を持って彼に接する。
「どうも。ネズさん、体調は大丈夫ですか?」
「ええ、おかげさまで」
そんな社交辞令のやり取りの後に訪れる沈黙。無理もない。私とネズの今の関係は非常に特殊だ。
病室でネズの記憶喪失を悟って、私は自分から恋人と名乗ることはしなかった。彼に違和感を抱かせないよう初対面として接し、マリィちゃんの良い友人だと偽って自己紹介した。とりあえずネズに今以上の負担をかけたくなかったのだ。
だけど2ヶ月ほどでネズにバレてしまった。私とネズとは長い付き合いで、なんだかんだ共通の友人もいて、彼らから問われたとのことだった。
まさか恋人ののことは忘れてないよなと、悪い冗談のつもりで言われたことが、冗談で済まなかったのだ。仕方ないので私は”恋人だったひと”、もしくは”家族以外のネズをよく知るひと”として、ネズとの関係をまた作り直しているところだ。
とりあえず空はいつ降り出してもおかしくない曇りだし、寒さをしのげる場所を求めれば、私たちは寂れたコーヒーショップにたどり着いた。向かい合わせで座り、オーダーを済ませてすぐ、ネズは首元のアクセサリーをいじり出していた。
首元のアクセサリーをいじる癖はそのままだったけれど、それが忘れられなかった記憶なのか、それとも失われても体に染み付いて再現されてるのか、わからなかった。聞けるような間柄でももうなくなってしまった。
「今日はどうしたんですか?」
それぞれの紅茶とコーヒーがテーブルに運ばれて来たのを見計らって、私から切り出した。私自身、本題を早く聞きたい気持ちもあった。
なぜなら、恋人だったことがわかって以来、ネズから初めて呼び出されたからだ。二人きりで会うのも、かなり久しぶりとなる。恋人だったことを知られてからは、いつでも呼んで、いつでも駆けつけると何度も言い含めていた。だけど結局、今日までネズは連絡をくれなかったのだ。
「どんな話なんです? 世間話、雑談、何かお悩み相談とか、それとも愚痴とか?」
ネズの何か言いにくそうな雰囲気に気づいてしまった。彼が話し出す糸口を見つけてあげたくなり、私は軽い口調であれこれ候補を挙げる。
「他には良いニュースや、悪いニュース……当てはまるものありました?」
「ありませんね。もっと大事な話をしたくてですね」
「は、はい」
大事な話。さらりと言われ、にわかに緊張する。やはり気楽なデートもどき、とは行かないらしい。
流れで切り出すことはできなかったらしく、ネズはまた黙ってしまった。今度は私も口を出せなかった。大事な話とネズ自身が言ったのだ。彼が言葉を選び終わるのを私は待った。
「人間、なくてはならないものなんて、そうそうありはしない」
思わず息を飲んだ。不意に、馴染んだ声で、何度か聞いたフレーズが耳に滑り込んだからだ。聴覚のデジャ・ビュもやはり私に不思議な酩酊感をもたらす。
なめらかな発音だった。記憶喪失という一大事を抱えているはずなのに、以前と変わったところの見つけられないほどの。
「今のはおれの持論です。いくら無くしたくないと思っても、無いといけないものなんて、そうは存在しないとおれは思ってるんですよ。それにいくら大事なものでも、実際どうしようもない事情で失われてしまうことはある。その時にあれしちゃいけない、これしちゃいけないって頑固に思ってると、砕けて、潰れちまいますよ」
「まあわかる気がします」
「実際、大抵のものはなくても生きていけるんです」
嬉しくないし、認めたくないが、今のネズがそれを言うと説得力がある。ネズの場合は経験がランダムに抜け落ちたのだ。そんな体験せずとも重大さが分かる喪失を経ても、ネズはジムリーダーという大仕事すら続けられている。
ずず、と紅茶をすすりながらネズは見据える。話に悠々とついて来て、思案しながら話を聞く私を。
「……その様子だと、何回か聞かせたことがあるみたいですね」
「聞かせたっていうより、聞こえてしまった、みたいな感じです。ネズさん、結構ふたりでいる時はぼやくことが多かったから」
「それはすみませんでしたね」
「いえ。リラックスしてくれてるのかなと思えて、私は嬉しかったですよ。そういうの聞くのが、密かに特別感があって楽しかった」
そういえばネズのふとしたぼやきが、荒削りな詩のようで好きだったこと、ネズ本人に言ったことはなかった。どうやら本人も二人きりになると独り言が増えることに気づいていないようだった。本人も無意識の部分をわざわざ指摘して、彼の独り言が消えてしまうのがいやだったのだ。
関係は失われている。なのに今だからこそ告げられるものがあるとは思わなかった。滑稽だな。私の口元で、紅茶が波打った。
「おれはあなたのこと、すっかり忘れました。本当に、すっかり……。だけどマリィがあなたに向ける目や、おれの室内に積み重なったものを見れば、相当な関係だったことはわかります。マリィの話だと付き合った年月も相当長かった。だからさんが恋人だと知った時も、腑に落ちた感覚でしたよ」
私は言葉もなく、相槌を返すので精一杯だった。首は縦に振っていたけれど、嬉しいとも悲しいとも感情の分別はついていなくて、ただ聞いている、とネズに必死になって伝えるばかりだった。
「おれの性格を思えばおそらく、……」
ネズはその先のことは言わなかった。けれど、多分、結婚のことだ。言葉を濁さなくても良いのに。だけど何度か結婚を意識した発言をしていたことも彼は忘れているのだ。私はなるべく最小限になるよう気をつけながらも、唇を噛んでしまう。
「でも、おれみたいなやつが、一人の異性と何年も付き合って来たなんて。失礼だけど嘘っぽく感じてしまう。ありえないし、信じられない」
「そんな」
思わず立ち上がりかかった私を、ネズさんがなだめる。感情の高ぶりで目頭にじんわりと滲むものを感じている私に対して、ネズさんはいたって落ち着き払っていた。
「わかってますよ。嘘じゃないことくらい。だけどおれにとっては、さんみたいな恋人がいたってこと、奇跡とか、夢物語みたいに思えるんですよね。こういう言葉は好きじゃねえですけど」
「奇跡なんて言うほど、突拍子も無い関係でもなかったですよ、私たち。奇跡は奇跡かもしれませんけど、もっと普通で、なんていうんだろう、こう、自然で」
「そうですか」
「はい……」
ネズとしか作れなかった距離感、ネズじゃないと引き出されなかった私、ネズがいれば導かれた答え。確かにあった。確かに感じていたのに、尊さが故に全てが上手く言葉にならない。
「さんに今日はお別れを言いに来ました」
「………」
「やっぱり、さんの記憶が無いおれは、もはや”おれ”じゃないですよ。あなたに愛されていたおれは、いないんです」
そんなことない、という反証は無かった。むしろ今しがた、私も一緒に時間を過ごしていたネズと目の前のネズの差異を突きつけられたばかりだ。
恋人同士だった時の理由も必要としない信頼や、言葉のいらない親密さ。そう、言葉なんてなくともふとお互い感じ取ることができるものがあったのに、今のネズにはその不文律を感じ取ることはできないのだ。
奇跡のような関係はあったのだと、ネズに過去を説明したかった。だけど私はうまく伝えることができなかった。言葉にならなかったんじゃない。私がこのネズにはきっと伝わらない、感じ取ってくれないと思ってしまったのだ。
私も私で、ネズを諦めているのだ。
緩やかな絶望で、口を重たくしていく私をよそに、ネズは饒舌だった。
「さんは見るからに優しそうで、実際優しくて。でさ、おれには愛情と同情の見分けがつかないままだしね。おれ、そんな風にあなたのこと、見てるんですよ。そういうの、おれならふざけるなって言いたくなるね。だから後ろめたさなんて覚えないでさ、いなくなった人間のことなんて忘れてくださいよ。ああ、おれに同情はしないで大丈夫ですよ。だって、失う悲しさすら感じられないんで……」
冬の湖底よりさらに冴え切った、冷笑だった。だけどいつだって瞳の奥にあたたかな光を絶やさなかったネズがそこにいて、言葉がのどのギリギリまでせり上がった。私が愛していたあなたは、ここにいるのに。愛してくれたこと、気を許した瞬間を見せてくれるところ、好きだった。でもそれが失われても、私の気持ちが失われるわけないのに。
「……そんなことない、私は気にしないって、言わない方がいいですか」
あの日のネズはもうどこにもいない。そんなことは分かっている。だからと言って、私にとっては別れる理由にはならない。
だけど、彼の表現全てに言えることだった。ネズは結局、自分に一番厳しい。そんなんだから、たくさんのポケモントレーナーだとか、ちょっと顔が甘いだけのポップスターじゃ彼に太刀打ちできない。ただの人間な私なんか、言うまでも無い。ここで無償の理解者を失って、一番辛いのは誰だろう。答えは彼も分かっている。
ネズさんは頷いた。
「おれの覚悟のために、ぜひ」
一人で帰れますか、とネズが私の退店を促したが、私は「送って行って欲しい」とわがままを言った。せめてもの反抗だった。いやですよ、と一蹴されるかと思ったけれどネズは肩を落としつつも並んで店を出てくれた。
店の外はやはりいつ降り出してもおかしく無い曇り。でも鼻を突き抜けていく鋭い冷気を思えば、降るのは雨じゃなく雪かもしれないと思った。
降雪直前の冷たい風は、理不尽に折れそうな身によく沁みる。横に立つネズをちらりと見ると、「駅までで良いですか」とつれないことを言う。
「仕方ないですね。良いですよ駅までで。勘弁してあげます」
「……どーも」
「そういえばマリィちゃんには? どっちが説明します?」
「おれから言っておきます」
「じゃあ頼みます」
渇いた事務的な連絡に涙も出ない。でも今の軽口の叩き方はちょっとだけ、懐かしさを呼び起こしてくれた。
ネズは、悲しみを分かち合ってくれる人だった。だけど縋りたくても、もう縋れない元恋人は、寒さが響いてるのかすらわからないほど凍った表情をしている。
「……今だから言えますけど」
「はい」
「私、ネズさんが無くしちゃいけないものなんて無いって言うたびに、いじわるして見たかったんですよね。ずっと言ってやりたかったです。それって”私がいなくなっても平気ってこと?”って」
「………」
「ま。なんとなく、答えはわかってたんですけどね」
ネズがなんて言うかは、見え透いていた。もしかしたらその場はネズも優しい嘘を言ってくれたかもしれない。だけど私自身が答えに気づいていた。私は別に、無くしたら生きていけないほどの存在じゃ無いってこと。だからずっと横でまどろむ彼には聞けなかった。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。驚きもあった。だけど久しぶりすぎて、ネズの抱擁を私は上手に受け止めることができなかった。
私を縛る腕はぎゅうぎゅうと、上へと私を引き上げる。ネズ自身に近づけるように強引だ。慰めの抱擁かと思いきや、腕に込められた手は強い。飽きることなく体をくっつけていた時もあった。それとはまるでほど遠い。強すぎて息も詰まるし、私とネズの骨が服越しにゴリゴリと擦り合わさって痛い。
違う、違うんだよ、ネズ。私が身を捩って、少しだけ体を傾ける。そして縛られていた腕を引き抜いて、彼の背中に回す。そうすればお互いの体の凹凸が、気にならない場所にすっと収まって、覚えのある心地よさが脳内に広がる。私たちの抱擁はこうだと、身体が囁くようだった。
だけど甘い気分にはならなかった。ほらね、と彼の喉が鳴る。
「こんなことひとつさえ、上手くできない……」
彼の表現全てに言えることだった。私の気持ちが失われずここにあるとしても、結局自分に一番厳しいネズは、自罰的に顔を歪めるのだ。