トレーナーズスクールから一歩出ると、アローラの晴天がわたしをじりじりと焼いた。今日の授業全てを終えたばかりだ。ほんのりと疲れたわたしではその眩しさに敵うはずがなくて、よろめいてしまう。
テキストを入れたカバンが急に重たく感じられ、お腹もぐうと鳴る。ああ、今日もポケモンのことをいろいろ勉強して、わたしの体はお昼のサンドイッチも消化しきってしまったらしい。水筒の中身もほとんど空だ。
これから家に帰るなんてだるいなぁ、どうしようかなぁ。肩を落としていると、スクールの校門にいつもは見かけない人を見つけた。彼は柔らかそうな手のひらを、ゆったりと私に手を振る。
「ー」
「ハウ!」
さっきまでは一歩踏み出すのも辛いと感じていたのに、ハウを見つけた途端に私の体は駆け出していた。ああ、走ったら髪の毛が乱れてしまう。ただの幼馴染相手なら、こんなことは気にしないはずなのに、わたしはハウの目ばかりは気になってしまう。ハウの元にたどり着いたわたしは、焦って前髪を手で直しながらハウに話しかけた。
「どうしたの? 珍しいね、スクールに用事?」
「ん? そろそろも学校が終わる時間かなって思ってさー」
「え、わ、わたし?」
「そうー!」
「、今日予定あるのー?」
私がぶんぶんと首を横に振ると、ハウはさらりと続きをいう。
「じゃあおれの家に遊びにおいでよー!」
「いいの……?」
「うんー!」
ハウが、授業終わりのわたしを待っててくれた。それだけで内心飛び上がりそうだ。しかもハウの家にお呼ばれされている。室内ならゲームかなんかで一緒に遊ぶんだろうか。なんにしても、ハウと一緒なだけで嬉しいと舞い上がっていたわたし。
なのにハウから、いつもの笑顔で爆弾を落とされる。
「今日うち誰もいないしー」
え。
今日うち誰もいない。さっきのハウの言葉が、まだわたしの中でぐわんぐわん響き渡っている。頭が回らないままなのに近づくのはハウの家。ただし家族はみんな出かけている。
ちなみに、一度わたしの家に帰って、うちのお母さんにちゃんと許可をとった。ハウから「と遊ぶねー」というシンプルな申し出で。間違っているところはないのに、誰もいない家でふたりで遊ぶことをお母さんは一切知らない。そんなお母さんから笑顔で送り出されて、わたしはなんだか悪い事しているような気持ちになっていた。
「ね、今日ってさ、他に誰か来るの……?」
「ううん、だけー」
恐る恐る、だけど変に意識しているのがバレないように聞いたら、やっぱりさらりと返されてしまった。
じゃあやっぱり、ハウと二人きりじゃない。ぐんと体が熱くなる。まだまだ照りつけて来る太陽なんて目じゃないくらいだ。
「あ、もちろんちゃんとおれの家にも言ってあるからねー」
「そ、そっか……」
わたしとハウはただの幼馴染だ。だから放課後を二人で遊んで過ごすのは、珍しい事ではない。今まで何度でもあったことだ、わたしがトレーナーズスクールに入る前ならば。
「ただいまー」
「お邪魔します……」
家には誰もいないはずなのに、二人して律儀に挨拶しながら入らせてもらう。しんと静まり返った家は、暗くて涼しい。太陽に照りつけられ歩いてきたわたしたち。眠っていたかようなひんやりとした家の空気に、ほっと一息ついた。
「外、暑かったねー。なんか飲もうよー。も飲むでしょー?」
「うん、もらっていい?」
「もちろんだよー。じゃあ出すから、座っててー」
「ありがとう」
リビングのソファに座らせてもらう。ハウの家で遊ぶ時はだいたいこのリビングで遊ぶ。だけど今日はいらっしゃい、と声をかけてくれるハウの家族は誰もいない。唯一聞こえて来るのは、キッチンの方からハウが冷蔵庫を開けて、中で冷やされたビンたちが揺れる音だ。やっぱり静かなリビングに、今更ながらどぎまぎしてしまう。
お茶に氷も入れてくれたグラスをふたつ持って、ハウが戻ってきた。冷たくておいしーよ、というハウの言葉通りに、体が求めていた冷たさと水分は、感動するくらい美味しい。ぐいぐい飲んでしまった。
「あのさー、ちょっとだけ時間くれる?」
「え? いいけど……。ハウ、実は忙しかったりする? 大丈夫?」
ハウが忙しいのに家にお邪魔しているのは気がひける。急いで自分のカバンをつかんで立ち上がりかけた。だけどハウが肩をやわく押して、またわたしをソファに座らせる。
「だいじょーぶ。だけどにちょっと待ってて欲しいんだー」
「そう?」
「うん。はテレビ見ててもいいしー、他にはえーっと……」
「じゃ、じゃあ! わたし、宿題してていいかな? なんか今日スクールでやったこと、もう一回やらないと忘れそうな事ばかりで……」
「もちろんだよー!」
待っててね、とハウは言うとリビングを出てってしまった。
本当にわたし、ここにいていいのかちょっぴり心配だ。家の奥からかすかに聞こえる物音で、ハウが何かに取り組んでいるのはわかる。
ハウ本人が待ってて、と言ったのだ。ちょっぴり居心地の悪さは感じるものの、わたしはカバンからテキストとノートを取り出した。
復習がしたいという気持ちは本当だった。スクールの授業で、全く知らないことが出てきたのは久しぶりだったのだ。
メレメレ島の子供たちは、別にトレーナーズスクールに通っても、通わなくてもいい。行きたいと本人が思うのなら、スクールに入学手続きをすればいいし、興味がなければ行かなくてもいい。ポケモンのことをどうやって知っていくか、決めるのは本人の自由なのだ。
わたしはこの通り、トレーナーズスクールに通って、ポケモンについての授業を受けている。ポケモンについての知識を先生に教えてもらえるのなら、そこで勉強をしたいと思って、両親に頼んで入学させてもらった。
じゃあスクールに通わない子供はどうするのかと言うと。ポケモンに直で触れ合って、他のトレーナーの助言を受けながらポケモンのことを学び、成長する。ハウなんかはまんま、そのタイプだ。
ハラさんに直接ポケモンのことを教わって、自分の目でポケモンを見に行って、自分の手で触れてポケモンをどんどん知っていく。教科書なんて見なくてもぐんぐん成長していける。
わたしも前まで、ハウとおんなじだった。彼と一緒に海岸、水の中、森や茂みを見て回って、メレメレ島に生きているポケモンたちを観察して、知っていった。
だけどハウはやっぱりポケモンについては才能がある。ポケモンのことを観察する目、ポケモンの気持ちを考える力。そんな能力の差を感じることが多くなって、わたしは時々ハウの話に、見ている世界についていけなくなっている自分に気づいたのだ。
例えば、ハウがこう言ったことがある。
『あのレディバ、進化しそうだねー』
ハウが指差したのは、ポケモン同士の戦いを終えて、空を飛び去っていく一匹のレディバだった。
ちょっと見ただけで、どうして分かるの。不思議で仕方なくてハウに理由を聞くと、ハウはなんでもないみたいに教えてくれた。
『だってあのレディバのパンチ、すごく速かったからー。たぶん、マッハパンチじゃないかなー?』
ハウはちゃんと理由を教えてくれた。だけど、わたしにはよくわからなくて、帰ってから家の本で確認してからようやくハウの言う通りだとわかった。マッハパンチはある程度育ったレディバが覚えるわざで、しかも覚える時期はレディバがレディアンに進化する少し前だということ。ハウの言うことは、ぴたりと当たっていたのだ。
レディバを見ただけで、ハウはそんなことまで見抜く。わたしには絶対にできないことだ。
そんなハウと自分の開いていく差がなんだか怖くなって、わたしはトレーナーズスクールに通おうと決心したのだった。学校に通って、ちゃんと勉強しないと、わたしはハウに置いてかれてしまう。そんな風に思っていた。
予想と違っていたのは、わたしは自分が思ってるよりポケモンについて詳しかった、ということだ。
ハウと一緒に島の中で遊びまわって、自然に知ったことは意外と多かったらしかい。まだ入学して一年も経っていないせいもあると思うけれど、授業も教科書も、知っていることと、知らなかったことが混ざり合っている。今の所、知っていることの方が多いくらいだ。
授業を受けながら、わたしは何度もハウのことを思い出していた。このポケモン、ハウと見たな、とか。このタイプ相性はハウが教えてくれた、とか。テストが簡単にクリアできてしまうのはラクちんで、面白かった。けども、むずがゆくも思った。当たり前をなぞる授業の内容、こんなんじゃハウに追いつけない。
そんな日々の中で、教室から空を見上げてハウのところに行っちゃいたいなと思った時、わたしはようやく気がついた。ああわたし、ハウが好きだったんだ、と。
「はい! お待たせー!」
復習している内容が頭に入っているような入ってないような。ぼんやりとしていたところに降ってきたのは、ハウの声だけじゃなかった。
「じゃじゃーん!」
「わっ」
目の前に、カタン、と白いお皿が置かれる。それに乗っているのは、焼き目の綺麗なパンケーキだ。
膨らんだ厚みのある生地から、ふわりと甘い香りが立つ。まだあったかいみたいで、パンケーキの上に乗ってるバターとシロップがとろりと溶け出している。
「すっごく美味しそう! もしかしてハウが焼いたの?」
「そうー。できたてだよー」
「すごい……!」
感動して、パンケーキをハウと交互に見る。エプロン姿のハウがいつも以上にはにかんだ。そのほっぺには、白っぽい焼く前の生地がついてしまっている。
「ハウ、わたしね、実はすごくお腹空いていた……」
本当はトレーナーズスクールを出た時から腹ペコで、何か食べたりしたいと思っていた。だけどハウが迎えに来てくれて、その緊張のせいですっかり忘れていたけど。
「やっぱりー? トレーナーズスクール終わりだったから、そうじゃないかと思ってたよー。あ、待っててフォークとかとってくるー」
「うん!」
急に思い出された空腹感は、目の前のパンケーキにさらにスパイスを加えてくれている。急いで机の上に広げていた宿題をカバンの中に戻すと、パンケーキのお皿がもう一枚運ばれて来る。ハウのお皿に乗っているパンケーキに比べ、わたしの方がかたちも焼き目も綺麗だ。それに気づいて、
それにクリームの盛られたボウルに、ジャムの瓶。どうやらトッピングはそれぞれが好きなように載せる方式らしい。
銀のキラリと光るナイフとフォークを渡されてすぐ、わたしとハウは柔らかいパンケーキにかぶりついた。
「どうー? おれのおもてなし!」
「すっごく美味しい……!」
お腹はかなり空いていたようだ。口の中に広がった味に、味覚が追いついていかない。パンケーキとシロップの甘味、それにバターのしょっぱさに、目まぐるしく感情が揺れ動く。もちろん体の方も揺れ動く、そんな美味しさだった。
美味しいね、ふわふわだね、このジャム載せるともっと美味しいよ、ほんとだ。そんなことを言い合いながら、わたしはハウの焼いてくれたパンケーキをぺろりと食べてしまった。
学校終わりからずっと続いていた腹ペコが、ハウのお手製パンケーキという豪華なおやつで満たされた。今はお茶もちょっとしか飲めないくらい満腹だ。ハウも満足そうにお腹をさすっている。
涼しい部屋で、お腹はいっぱいで、隣にはハウがいる。さっき喉を通っていったシロップみたいに、幸せにガツンと塊でぶつかられた気分だ。
「ハァー、元気出たー」
「え? ハウが元気出たの?」
「そうだよー。おれってとずっと一緒だったけど、最近は違うから。でも、こうやって一緒に美味しいもの食べて、それでの笑顔も見れたしー」
ハウがそういってくれることは、嬉しい。だけど同時に、ハウの言葉につつかれた胸がぎゅっと苦しくなる。
「なんか、ごめんね。わたしもハウと一緒にもっと遊びたいとは思ってるんだけど……」
わたし、何やってるんだろう。そう思った。ハウに置いて行かれたくなかった。先にどんどん進んでしまうハウを追いかけたかった。今のままじゃダメだとも思ってしまって、恐怖を前にして、何もせずにはいられなかった。だからトレーナーズスクールにも行こうと決めたのだ。だけど結果を見ると、わたしのハウと過ごす時間は以前よりずっと減ってしまった。
「多分さー、しょうがないことなんだよー。おれだっていつか島巡りに出るし、そしたらとは会いたいって思っても会えない日もあるだろーし」
「うん……」
覚悟はできてないけど、わたしも分かっている。いつかハウがリリィタウンから旅立ってしまうことを。わたしの方はまだ、自分がポケモントレーナーとして旅をするなんて想像できない。けれど、ハウは絶対に行ってしまう。
ちょっと前までは、わたしとハウはふたりで朝から夕方まで遊び倒して、同じ日々が続くことしか想像できなかった。だけど今、ゆっくりとわたしたちの道は別々に分かれつつある。わたしはトレーナーズスクールに通い、ハウはハラさんからより本格的にポケモンのことを学んでいるように。
「でもだからさ、今日こうやって一緒にいたかったんだと思うなー。おれの作ったパンケーキ食べて、おいしーって言ってくれたら……」
「ハウ?」
「………」
「どうしたの……?」
不意にぴったりと閉じられてしまった、ハウの唇。いつも見てる方の気持ちが柔らかくなるような笑顔を浮かべるハウが、今だけはふと真剣な表情をしていた。正直言うと、どきどきした。いつもと違う表情を見せるハウ。
どんな表情かうまく言えない。だけど、体の後ろ側がざわつく感覚はハウが先に行ってしまう、置いてかれてしまうと思った時に近かった。彼が少しだけ、大人になってしまったのを感じた。
「あ、! さっきが見てた教科書、おれにも見せてよー!」
「うん、それは別にいいけど……」
ハウは言いかけたことをそのまま飲み込んでしまったようだ。夕方になって、わたしが帰る時間になっても言葉の続きは教えてもらえなかった。
ハウが家まで送ってくれるというので、ふたりで今度は夕暮れの道を歩く。あんなに眩しかった太陽は、もうすぐ地平線に着地するところだ。和らいだ日差しの中、風の上を滑るキャモメたちもきっとおうちに帰るのだろう。
「の教科書、面白かったー」
「ハウにはこういうの必要ないと思ってたけど……」
「えー? おもしろかったよー? すげーまとまってて!」
「楽しんでくれたならよかったよ」
久しぶりだった。ハウと二人で遊んで過ごしたのは。最初はわたしが意識しすぎなのもあってどぎまぎしていたけれど、いつの間にか緊張を忘れて、とても楽しい時を過ごすことができた。
「今日はありがとう! ハウの手作りパンケーキ、最高に美味しかった!」
「へへー」
「わたしも、何かハウに喜んでもらえること探したいな……」
「おれはずっとずーっと、探してるけどねー」
さっきは、ふとハウが大人っぽく見えた。だけどニッ、とハウはハウらしく笑う。
「そうなの……?」
「うん。探して、探し回ってるうちに、届けたくなったんだー」
どこからか来た塊が、ぐっと喉に詰まる。わたしの口から出て行きたいのか、それとも胃の中に重たく落ちたいのか、どちらかわからないものが喉を、胸を締め付ける。
ハウとの差が開いていく中、このままでいることが怖くて、わたしはトレーナーズスクールに行くことを決めた。正直、思い描いていた未来と現実は違ってしまっている。ポケモンのことは前より知れた。けど、ハウと一緒にいる時間が減って、結局離れてしまった。
自覚はなくても、気持ちはずっとハウに向いていた。なのに、こうして気付けばハウとわたし、”それぞれ”に別れそうになっている。
トレーナーズスクールには通い続けたいと思う。ハウとのこととは別に、やっぱりわたしは学校の中でもポケモンの勉強した方がいいんじゃないかと自分で思うからだ。トレーナーズスクールなら、ハウほどの才能がないわたしでも、一通り全てを教えてもらえる。
だけど、ハウと離れてしまうことにはやっぱり嫌だ。
離れていくことが、大人になる道と重なって見えて、仕方がないことのように錯覚していた。だけど今日、ハウは自分から迎えに来て、届けてくれた。
「ハウに喜んでもらえること見つけたら、今度はわたしが届けてもいい? 」
「おー! 待ってるー! けど待てずにまたおれが行っちゃうかも?」
「それなんか、ハウっぽいなぁ。でもそしたら、その分も負けないくらい、届けるよ!」
ハウがこの街を、島を出て行ってしまっても、大人になるにつれて離れていくとしても。わたしはその流れに逆らって、ハウに近づき続けたい。今まではふんわりと青空に浮かべていたハウへの気持ちが、今は私の中でより強いシグナルを発してる。
甘い香りがたってた、ハウ手作りのふんわりパンケーキ。そんな可愛い食べ物が、わたしの気持ちをもっと強い感情に変えたなんてハウは気付かない。彼は頭の後ろに両手を重ね、大人っぽくも子どもっぽくもなく、ただハウらしく笑うのだった。
(「ハウがたくさんみたいです…😭🙏」とのリクエストありがとうございました! 1話ですが書かさせていただきました!)