四天王が伝説のシェフになったのか、それとも伝説のシェフだった男が四天王になったのか。
同郷のズミのこと、よくよく追っていたわけではないので、卵が先かポケモンが先かという問題と同じく、どちらが先だったのか私には分からない。ただいつの間にか彼は二つの道で大成していて、同じ人間とは思えないなぁと私は遠巻きに見ていた。
幼い頃からの顔見知りではあった。だが大人になるにつれ希薄な関係となったズミと、再び道が交わり始めたのは私が一人暮らしを始めたことがきっかけだった。
自分のポケモンと一緒に実家から遠すぎず近すぎない場所で一人暮らしを始めたのだが、偶然にもズミの行動範囲と重なっていたのだ。
あ、ズミじゃん。そう彼に気づいてからは、ぐんと街の景色の中にズミを見つけられるようになった。朝と夕、どこかに向かい、どこかへ帰るズミ。夕食を摂る店内から、時に自室の窓から、やはり顔見知りではなく一人の市民として、遠巻きに彼を見ていたのだった。
ズミと再び関わりを持ちたい、という気持ちはなかった。子供の頃は垣根なく接することができたが、今となればかたや一般の成人女性、かたや名高い料理人。かたや一匹のパートナーポケモンを育てるので手一杯、かたやバトルのフルメンバーを育て上げカロス地方トップクラスのバトルを魅せる四天王だ。大人になった今はあまりにもズミという人物は違う世界に生きているように思われたのだ。
それに近所のよしみで何度か行動を共にしたことで、ズミが親しみの持てる人物でないことも知っていた。彼は子供の頃から大人よりも鋭敏な感覚を持ち、常に違う世界を見ているようだった。私や同年代の子供が無邪気に喜ぶものに、ズミはあまり興味を示さないのだ。その感じ方の違いこそがズミの才能の証左なのだろう。けれど私にとっては、同じ景色を見ることはないという現実を子供に身に染み渡らせた記憶でもある。
だから結局彼に声をかけることになったのは、ズミへの関心ではなかった。
仕事がキリの良いところまで終わらず、すっかり帰るのが遅くなってしまった日のことであった。疲労を抱えたまま自分の部屋に帰る途中で、道端のベンチで座り込んだズミを見つけた。目をつぶったズミは項垂れていて、ピクリとも動かない。街灯のわずかな光に照らされた彼はまるで石像のようだった。ただ休んでいるというより、動けないという様子が伺えた。
料理人としてもポケモントレーナーとしても第一線で活躍していると聞いている。肩書きの華やかさと引き換えに想像を絶するハードな生活であると、私でも想像できる。
まあ男の人であるし、風邪ひかなければいいけど、などと心配しつつ一度は見送ろうとした。
だけど思わず足を止めた。動かないと思われたズミは、だらりと体勢を崩してベンチに横たわってしまったのだ。意識を失っていることは明確だった。
私とズミは顔見知りである。見知らぬ通行人が声をかけるよりハードルは低いはずだし、何よりもここで無関心を貫くのはあまりにも自分が冷たい人間になったようだ。
意を決して近づき、声をかけた。すっかり広くなった彼の肩を揺すりながら、意識を確認する。
「大丈夫ですか……?」
久しぶりにかけた声は、遠くなってしまった距離を示すように丁寧語になってしまった。
「気持ち悪いとか、ないですか。こんなところ寝るの、危ないですよ」
幾度か揺すっているとズミはうっすらと目を開けた。それからゆるゆると片手を上げる。どうやら手振りで気にしないでくれと伝えたいようだ。が、形を全く成していなくて、全然大丈夫そうに見えない。私の心配を余計に加速させると、そのままズミはまた夢の中に落ちていってしまった。
声をかけなければよかった。後悔が募る。近づいたことでズミの白い肌が青白いまで血色をなくしているのにも気づいてしまった。中途半端に関わったことで放っておくことはもう、できなくなってしまった。
後戻りできずに困り果てた私は、自室にズミを連れ帰ることになった。そんなバカみたいな判断ができたのは、私のパートナー・ゴロンダのおかげだ。幼い頃から妹のように可愛がって来たメスのゴロンダなのだが、これが大変優秀なのである。両親が一人暮らしを認めてくれたのも、ほとんどゴロンダのおかげだ。きもったまの物怖じしない性格で、何かあったら守ってくれるし、力仕事は大得意。時に励まし時に激励してくれる、私の心の支えでもある。そして今夜は長身のズミを軽々抱えてくれた。
「いいよ、ゴロンダ。ベッドに寝かせてあげて」
ゴロンダの腕の中でもズミは結局意識を取り戻さなかった。すうすうと似合わない寝息が聞こえてくるので、呼吸はあるようだ。上着を脱がせて、襟元のボタンもひとつ外してやる。軽く整え直した私のベッドに寝かせてあげると、さらに寝息が穏やかなものになった。硬いベンチではなくバネの効いたマットに横になることができ、体は安らいでいるのだろう。
「どうしたんだろうね、過労かな?」
ズミを見かける時は忙しそうに早足で、いつも疲れた顔をしていた。そもそも料理人自体がハードな職と聞くし、加えてポケモントレーナーとしても身を立てているのだ。家にたどり着く前に意識を失うほど、彼の疲労はピークに達していたのだろう。ゴロンダにも話を振ってみたが、ゴロンダは特に興味がなさそうだ。
その後、私がシャワーをしても、昨日の残り物をあっためて食べても、隣でクローゼットを開けても、ズミは目を覚まさなかった。予想はしていたので、私はおとなしくソファに新たな寝床を作った。
「ズミだし、多分大丈夫だと思うけど……。今夜はボールから出ていてくれる?」
ゴロンダの頷きにありがとうのハグを送って、部屋の明かりを消し、私も眠った。
朝起きたら、ベッドはもぬけの空だった。代わりにテーブルの上には朝食が用意されていた。幾何学的ですらある美しさのオムレツに丸パン。それと冗談みたいに均一なカットを施されたフルーツにヨーグルトがかかっている。というか冷蔵庫をあけたんかい。思わず、寝ぼけた頭でもういない相手に突っ込んでしまった。
まあズミの謝意なのだろう。横には手紙があって、そこにも短く感謝の言葉があった。他には手助けしたのが昔馴染みのであることへの驚きと、改めてお礼がしたい旨が綴ってあった。
お礼を期待して起こした行動ではなかった。なのでまたいずれ彼を見かけても、私は声をかけず、市民のまま大成した彼を遠巻きに見送るつもりだった。
なのでまさか1日と経たないうちに家の前に現れ、しかも上がり込まれるのは、完全に予想外だった。
もちろん初めは家の前だけで話を済ませるつもりだった。昨晩は応急処置的に家のベッドで寝かせただけで、上がってもらうような部屋でもない。
けれど私の警戒心を緩ませたのは、まず私にはゴロンダがいる、という安心感。加えてズミが手にしていた紙のボックスが、問題だった。
「どうぞ食べてください」
ズミが持参したボックスの中身が、お皿に再度盛り付けなおされて私の目の前に並べられる。彼がレストランで調理してきたまかないという話だった。
多忙なズミには負けるが、私だって本日も仕事をやり過ごし、疲れて帰って来た身だ。家で安く食べるつもりで何も食べずに直帰し、お腹と背中がくっつきそうに腹ペコなところだった。そこをプロの料理人が作った料理をチラつかされ、私は堕ちてしまった、というわけだ。
料理の感想は、言うまでもない。まかないなのでコースに並ぶような凝った料理ではないのが、逆に私に衝撃を与えた。シンプルな家庭料理に見えるのに、飛び上がりそうなほど美味しい。素人の私でも食材ごとにカットも加熱も完璧なバランスなのがわかる。なるほどこれが伝説か、と頷くばかりだった。
昨晩より少し顔色をよくしたズミが言う。
「昨晩は迷惑をかけました」
「いや私こそ。謝らないとな、って思ってた。驚いたよね、気づいたら知らない部屋で寝かされてるんだもん」
「もちろん驚きましたが、貴女のゴロンダには見覚えがあったので。それで合点がいきました」
なるほど。確かに私は幼い時からゴロンダと常に一緒に行動していたので、ズミも見覚えがあったのだろう。
「この辺りに引っ越していたんですね」
「うん。この辺りでたまに見かけるけど、ズミの家は近いの?」
「いえ、まだしばらく歩いたところです。なので昨夜は家までたどり着ける気がしなくて、ベンチに座ったら立てなくなってしまいまして。そのまま……」
「そっかぁ。急病とかじゃなさそうでよかった」
「本当に感謝してます」
「いやいや、気にしないで。忙しいんだろうけど、さすがに外で寝入るのは危ないと思うから気をつけてね」
美味しい料理が気分を和らげてくれるおかげだろうか。大人になったズミは以前より随分話しやすい。
料理に舌鼓を打ちながら、お互いの近況なんかを話して、悪くない時間が流れて、そして別れて。ごちそうさまと体を大事にしてね。その二つをしきりに伝えながら、夜道に消えていくズミを見送れば、私とズミ、再び混じり合った道はまた交わらないすれ違いに戻るのだと、思われた。
なのに。今日も同じ部屋でズミが寝ているではないか。
あの日と違うのは私がベッドで、ズミがソファで寝ていることだろうか。一人暮らしを始める際、憧れから購入したソファから長い足がはみ出ている。誰かを寝かせるために買ったわけじゃないのにと、最初の頃はソファに寄せていた憧れが壊されたようでショックが大きかったが、今や慣れてしまった。そう、慣れてしまうほどにズミは私の部屋の常連となっていた。
受け入れてしまう理由は初日とほぼ一緒だ。ゴロンダがいれば大丈夫だろうという安心感。それに私の部屋に帰ってくるズミは常に疲れ切った土気色の顔をしていた。放っておけば道端で倒れてしまうのではないだろうかという風貌の知人を、追い返すのには並々ならぬ勇気がいる。実際にズミは横になると死んだように眠る。疲れ果てた様を見ると、同情の気持ちも湧いて、ますます彼を突き放せなくなっていった。
テーブルにはすでにあのボックスが置いてある。
タチが悪いのは、最近のズミは夕食ばかりではなく朝食の分も持ち込むようになったことである。つまり、1日のうち2食がズミ手製の料理で彩られるようになっていったのだ。
朝、私が目覚めると彼はいつも髪を整え、真新しいシャツに身を包んでいる。というかお泊まりセットに着替えまで持ち込み済みかい。そう言ってやりたいといつも思うのだけど、私の口を塞ぐのが彼の用意した朝食だった。
私が顔を洗っているうちに、ズミは家を出て行く。テーブルにとびきり美味しい朝食を置いて。味だけは間違いなしなのでありがたく頂いてると、時には機械的に出て行った知人へと想いが飛んでいく。
今日も人の何倍も働いて、ボロボロになって、そして私の部屋に帰ってくるのだろう、と。
帰宅すると冷蔵庫にすでに夕食が保存してあったので、今夜のズミは非常に遅く帰ってくるのだろうと思っていた。予想通り0時をとうに過ぎて、私も寝ようとしていたころに、ズミは帰ってきた。流れ作業的にドアを開けると、目の下を黒くしたズミが立っていて、なだれ込むように室内に入ってきた。
やはり流れ作業的にズミがテーブルの上に紙のボックスを置く。それを見て、私は自分が気づかないうちに顔をしかめていたようだ。ズミが私に目を留め、問いかけてくる。
「……どうかしましたか」
「え?」
「何か言いたそうです」
「ああ、うん。ちょっとね」
「なんです」
疲れてるくせにしつこいズミに、私はまた眉をしかめた。でもいい機会だから、私は胸につっかえていたそれをズミに言うことにした。
「ズミの料理は美味しくて、いつも食べさせてもらって感謝はしてるの。だけど、舌が肥えて肥えて……、いいのかな、って」
「いいじゃないですか」
私は首を横に振った。美味しいものを食べられてハッピー。そんな単純な話じゃないのだ。
便利な寝床の対価として、食事の半分をズミに用意してもらうようになった。初めて口にした時は飛び上がりそうになった感動が今や日常の一部になりつつある。同時に、今までの食事に戻れなくなってきているのを私は感じていた。
生活の質は上がった。恐ろしいほどに。私は、知るべきでなかった楽園の果実の味を知ってしまったのだ。
購買のサンドイッチが食べられなくなるとかなら、まだよかった。最近では、自分で料理する気もなくなってきている。ズミの料理ほどのものを食べられないのなら、買わなくて良いかとまで考える時もある。
今までは自活できていた、1人で暮らせていた。だが美味という快楽に身を浸しているうちに、私はその術を失ってきているのだ。
「ズミ。あのさ」
はい、と静かな部屋にズミの相槌が響く。
「こんなにうちに入り浸るくらいだったら、もっと便利な場所に部屋でも借りたら。寝るためだけにうちに来てるんだったら、もっとプライベートな部屋の方が気も休まるでしょ。ワンルームとかならいくらでも見つかるって。お金だって、ズミならどうにでもなるでしょ」
最近はほとんど毎日私の部屋で寝泊まりしているのだ。四天王であり続けるため、彼の思う芸術を極めるために、ここらに拠点が必要なのはズミも痛感しているはずだ。ならば尚更、彼は自分のお金でどうにかするべきだと思うのだ。
ズミには自分の住環境を整える理由も、それを叶える行動力も財産もある。彼に不足は、足りないものは何も無いはずだ。
「さん」
遠回しに出てけ、と伝えたのだ。何かしらの反論はあると思っていた。聞くつもりはないので、私は黙って家の明かりを落とす。耳も顔も背けてると言うのに、ズミは構わずに勝手なおしゃべりを続ける。
「まず、ここは私にとって寝るためだけの場所ではありません」
「………」
「それに別の部屋が借りられても、そこにはさんはいないじゃないですか」
「……もう寝なよ。ズミさ、血迷ってるよ」
「血迷ってなんか」
「その顔色で言われたことは一切信じないから」
疲れた体をベッドに投げた。
妹のように可愛がって来たゴロンダが、寝ようとする私の目を問うように見つめてくる。
それも吹っ切るように目を瞑った矢先、ズミが言った。
「……朝食は何がいいですか?」
そう聞いてきたということは、今日のまかないに朝ごはんの分は無いらしい。つまり朝になったらいちから作ってくれるということだ。すでに冷蔵庫を開けられることにも慣れてしまった。むしろ冷蔵庫内の食材の全てはズミの持ち込みだ。私が買った分も今ではジュースや、おやつほどしかない。
「……ズミにまかせる」
その一言で、多分見抜かれたのだ。何が食べたいだろうと考えて、ズミが作ってくれるならなんでもいいやと思ったこと。もう出てけと言ったくせに、すでに私は決壊を抱えていること。
私が部屋を借りたらさんも引っ越してきてください。ズミはその柔らかな言葉で、眠りに落ちる私を見送ったのだった。