習慣的につけてしまったテレビのニュース番組から、昨日のバトルのハイライトが流れ出した。
聞く側を熱くさせる音楽と一緒に、ポケモンたちの活躍がテンポよく映し出されていく。フライゴンの見事な飛行から繰り出される大技・じしん。ジュラルドンのアイアンヘッドも迫力満点だ。クライッマックスとばかりに唸るキョダイマックスリザードン、グラグラとマグマのように滾る腹から吹き出す灼熱の炎。
そしてカットインするのはチャンピオン・ダンデとその対戦者のキバナの表情である。
目を離せないまでも、私はテレビの音量を最小まで下げた。それから部屋のベッドを見て、安堵する。よかった、キバナは目覚めていないようだ。部屋にかすかな寝息が漂う。あの特徴的な頭、それからシーツの端からはみ出た足はぴくりとも動かない。
映像だけは流しながら、私はモーニングルーティーンをこなす。洗顔、歯磨き、昨日やりっぱなしにしたものの片付け、水をコップ一杯飲んだあとのコーヒー。それから洗濯機に洗うものを突っ込む。今日はいつもより多い。キバナがうちでシャワーを浴びたからだ。あの大きな体を拭くために、うちで一番大きなバスタオルを出してあげなければならない。
いつからか元恋人のキバナは、大きな試合でぼろ負けすると私の部屋に来るようになった。目的はシンプルで、ふて寝だ。彼は次の予定までひたすら寝るために、我が家の戸を叩くのだ。
バトルを終えたキバナは張り詰めた緊張感が緩んで、彼自身どうしようもなくなるのだろう。最初は財布すら持たずに、モンスターボールとスマホロトムだけで飛び込んで来たが、最近は自分が爆睡モードに入るとわかっているらしく簡単な着替えも持って来るようになってきた。
もう恋人ではないことへの遠慮は、キバナにはあるようだった。
キバナにはバトルがある。私にも目指したいものがある。お互い惹かれる気持ちは認めつつも、二人で出した結論が”今は恋愛してる場合じゃない”、だった。だからそれぞれの事情を飲み込んでせっかく別れたのに、舞い戻って来たキバナには最初、めまいがしたものだ。
けれど全てを出し切って、それでも勝利へとたどり着けなかった彼を追い返すことはできなかった。何よりも、一度は愛した人間なのだ。こちらも見せるものは大体見せたあとなので、部屋にずかずか入ってくるキバナにさほど恥じらいを感じなかったのも本音だ。
もうひとつ私が彼を受け入れてしまう理由としては、彼の手荷物がある。彼がわが家のドアを叩くたび、スポーツバッグに雑に詰め込まれた荷物を見るのは、嫌ではなかった。閉まりきってないチャックから、彼の着替えがぐしゃぐしゃになっているのを見つけると、胸が震える。彼が例え相手があのダンデでも、負ける準備などしてなかったのが分かるからだ。
私の家に来る準備は事前にはしない。だって彼はいつだって勝つため、フィールドへ向かっているのだ。
ずごごごご、と洗濯機が水抜きを始め、すすぎ用の水が再び注がれる音が流れ出す。
ベッドの中の膨らみはまだ、あたたかな寝息を立てている。上下するシーツの膨らみに私はただ視線を送る。窓の外、そよぐ木の枝を見る時と、同じ気分だった。
「……、おはよう」
私が目覚めの挨拶をしたのはキバナではない。さすがにボールの中にいるのが飽きたのか、キバナのバッグから出てきたヌメルゴンへ向けたものだ。
きちんと回復は済んでいるようで、昨日の激闘にも関わらず元気そうな様子だ。ヌメルゴンは体をうん、と伸ばしたあと、勝手知ったる様子でベランダの目指したので私も立ち上がる。
「待ってて、今開けるから」
鍵を開けてあげると、部屋にぶわり、と暖かな風が流れ込む。気立ての良いヌメルゴンは私にお礼のような短いなきごえをくれると、ベランダへと出ていった。私が目を細めていると、いつの間にか後からついてきたフライゴンも私を追い抜いていく。
午前中、我が家のベランダにできる日陰が、ヌメルゴンのお気に入りだ。フライゴンはその逆で、風の通る乾いた日向が好みらしい。陽光の中で体を丸めて、羽を休めだした。
それぞれ好きな場所に陣取った二匹の様子に、見ている私の気持ちも安らぐ。あとでコータスやサダイジャなんかもボールから出てくるかもしれない。それなら風が通る方が良いだろうと思い、窓は開け放したままにした。室内に戻ると、今度はジュラルドンもボールから出ていた。わが家で一番涼しい玄関口に陣取っている。ベランダを解放しているのでより風が通って、気持ちが良さそうに目をつぶっている。キバナがこの家にいる時は、めいっぱい休む日である、というのが彼のポケモンたちの身にも染み付いているらしい。
「あ、おはよ」
「ん……」
遅い朝の挨拶。今度のは、キバナに向けたものだった。
うっすら開いたシアンブルーが私を見ている。キバナは無言のまま、目覚めて一番にスマホロトムを呼び出した。時刻を確認して、それからまたシーツを被り直したところを見ると、まだまだ寝ている時間はあるらしい。
だけど二度寝に入ろうとしたキバナを叩き起こすような音が部屋に響いた。ゴウンゴウンとドラム缶を内側から叩くような音に、モーター音まで混じっている。すすぎも終えた洗濯機が脱水を始めた音だ。
「うるせ……」
「ごめんごめん。でもあなたの服やら使ったタオルやらを洗ってるんだから許してほしいかな。それに今日は良い天気だし」
またも、ぶわり、と開け放したベランダから暖かな風が入り込む。さらりと乾いてるのに暖かくて、髪を撫でるように柔らかい。眠気を誘うような気持ち良さだと思っていたら、あくびが出てしまった。ほらね、と言う代わりに私はキバナに微笑を送った。
恋人関係を解消してから、私とキバナは互いに交わす言葉が少なくなった。以前は会うたびによくいろんなことを喋っていた気がする。自分を知って欲しくて、相手を知りたくて、矢継ぎ早に言葉を選びとっていた。そして二人して、率直な心からの反応を返しあっていた、と思う。過去のことだから確かめようがないけれど、思い出す限りは、そうだった。
キバナのことは今も好意的に思っている。キバナも力を使い切ったすっからかんの自分を見せても良いというくらいには、私に心を許しているようだ。だけど今や、キバナへの好奇心を出すことはできなくなってしまった。
それに。今下手に口を開きたくない。チャンピオンとのバトルのこととか、気をつけていてもポロリと口からだしてしまいそうだ。眉をしかめたり、目を釣り上げる彼は見たくない。
寝起きのキバナは喉が渇いていないだろうか。未だ封を開けてないペットボトルが冷蔵庫にあるはずだ。とってきて、いつでも飲めるよう置いておいてあげようか。
キッチンに向かおうと思ったのだけど、私より早く、キバナが動いた。
「ん」
キバナがシーツの隙間を作って、目で訴えかけてくる。青い目は、「入れよ」と言っている。私がさっきあくびをしたせいだろう。慌てて目尻に滲んでた生理的な涙を拭った。
「いやいや、いいよ。洗濯物も干さなきゃいけないし」
「ん」
「気にしないでって、寝たら私の1日が終わっちゃう」
寝起きのくせに頑として譲らないキバナ。徐々に眉尻が釣り上がってきた。
危険を察知した私は慌ててキバナから距離をとろうとしたけれど、それは無駄なあがきに終わってしまった。寝たままのくせに、キバナの手が届いてしまった。なんてリーチが長いんだろう。腰に絡みついてそのままベッドに座らせられる。
触って来る手や腕はシーツの中でずっと温まっていたのだろう。「えー」とか言いながらも、その暖かさに流されていく。
引っ張られて横になってしまうと、もう敗北したようなものだった。様々な悪い誘惑に負けた全身から、力みがシーツへと溶け出していく。
「せま……」
「仕方ねえだろ」
「でか……」
「それも仕方ねえ」
流れ込んで来る安心感はいいお天気のおかげじゃない、触れ合うキバナの身体から伝わってくるものだ。頭の少し上でキバナがつぶやく。
「あー、また寝そう」
それは私もだ。まぶたが重くなってきた。
ああ。洗濯機がピーピーと音を立てている。全行程が終わったのだろう。洗い立てのタオルや肌着や、シャツや靴下。早く干さなければいけない、ここで寝たらもう一度洗濯機を最初から回さなくちゃいけなくなる。
もう一度なんて、めんどくさい。そう思うのに、まぶたは自然と降りていく。
全くもう。キバナはこちらの事情を無視してばかり。キバナには、今度うちに洗濯洗剤やバスタオルを納品してもらおうか。むしろ乾燥機付き洗濯機の購入をヘルプしてもらおうか? ふとそんな案が思い立ったが、私はすぐに却下した。
キバナはいつだって、負ける準備はしていない。どんなトレーナーが相手でも。だから私も、キバナが負けてうちに来る準備なんてしてやらない。
彼を待ってはいけない、来て欲しいなんて思うのは彼への裏切りみたいなものだ。私だってキバナが勝つことを信じている。これまでも、これからも。
目を閉じて、シーツの下でお互いの熱を溜め込む。あーあ、やっぱり、と細く息を吐く。キバナとはもう、同じベッドに入っても何も起こらない。そういう関係なのだ。
こくりと飲み下した塊が喉を、胃を、心臓をひっかきながら体の底へと落ちていく。つーんとつま先へ落ちていく痛み。それを飲み込んでから、私の意識も眠りへと落ちていった。
小雨に降られる夢を見て、私は目を覚ました。外はもう夕方になっていた。寝不足気味だったのだろうか。思ったより深く寝入ってしまったらしく、長時間寝たという感覚はなかった。家のあちこちで休んでいたポケモンたちはボールの中に戻ったようで、リビングでキバナだけが機嫌良さそうにしていた。お昼前よりも緩やかな風が優しくシーツから滑り出た体をとろりと撫でる。
私の1日が溶けてしまった。だけどキバナが笑っているから。まあいいやと笑って私は洗濯機のスイッチを入れ直したのだった。
ロトムは最高の角度を探して、キバナの周りを浮遊していた。
それを後押しするかのように、他のポケモンたちが熱心な視線をロトムに送る。特にヌメルゴンは好奇心に目を輝かせて、ロトムがいつ、キバナの寝顔に向けてシャッターを切るかを見守っていた。
元はロトムの発案だった。
一度からの別れを飲み込んで、出て行ったくせに、自分から求めてこの部屋に戻った。なのに本人を目の前にすると急に奥手になるキバナに、見せてやりたいと思ったのだ。自分がどれだけ溶けた顔で寝入っているのかを。
特に今日は、ベッドの中に彼女を引きずり込んで両腕に抱きしめている。ここ最近で一番の幸せそうな顔をしている。その写真をキバナ本人に見せて、どれだけ彼女が必要なのかを自覚させたい。それがポケモンたちの言葉なき願いだった。
あいにくと、キバナの顔はシーツと彼女のつむじに半分埋まってる。それでも最高に表情が伝わる角度と距離を探って、ロトムがキバナに近づいたときだった。
ロトムは飛び上がった。ともしたらスマホの中から飛び出てしまいそうなほどに驚いた。寝顔を狙っていたキバナが、うっすらと目を開けていたからだ。
キバナはかろうじて人差し指を一本、立てると「しーっ」と息を吐いて、ポケモンたちを静めた。ぐっすりと眠っていると思いきや、キバナポケモンたちの密かな盛り上がりには気づいていたようだ。
ポケモンたちの思いや願いにも、どことなく察しがついていたようだ。わかっている。そう言うかのようにキバナは、ポケモンたちに笑いかけ、ため息を吐いた。
それからキバナは、彼女を起こさないよう慎重に首を伸ばすと、こめかみに一度キスをした。
ポケモンたちはキバナに何も言えなくなってしまった。伝えたいことにあふれていて、でも彼女の見ている夢を決しておびやかさない、あまりに小さなキスだった。自分たちが無神経に背中を押すこともできないことを知ると、ポケモンたちはそれぞお気に入りの場所に戻るしかなくなってしまった。消化のできない、でも発露もできない何かを抱えながら。そして寝床に戻ってポケモンたちも身にしみて知った。今は眠りでしか受け止めきれない現実もあるのだ、と。
(「元気のないキバナさんのお話が読みたいです!」とのことでした。リクエストありがとうございました)