闇夜と聞くと、黒や紺、それから星月の色が思い浮かぶ。だけど闇夜に紅色というのもいいと息を吐くのは、明らかに惚れた欲目だった。晴れた空の下では大花のような大包平の赤髪は、夜を吸ってより深い色になった臙脂が、鈍く輝いている。手燭の火が彼の輪郭に添える金の線も、彼の刃を思い起こさせた。
 暗がりで見る大包平の色々。それが昼の熱を吐ききった夜風と共に肺に入り込むと、また出会いたいと思っていた狂おしさがやってくる。

「寝ないのか」

 一瞬、濡れた臙脂色と目が合った、と思ったがそれは自惚れで、大包平が見ていたのは文机の、散らかった書類だった。
 文机にかかりながら、畳へと伸びる大包平の影の広いこと。心の箍が外れていれば、すぐに床の影に飛び込んで自分自身をすっぽり埋めてしまいたいくらいだ。
 平面なのに厚みが見えるようだ。私のとは随分違う影の形に心慰められながら、普通を装って返事をする。

「これだけ終わらせたら寝るよ」
「明日でいいだろう」
「明日ではよくないから、今頑張ってるんだよ」

 それだけ言っても大包平が納得してくれないので、私は仕方なく彼女の名前を出した。

「ほら、えい子と出かける日なの」

 えい子とは、私の唯一の友人である。元は審神者を目指していた女の子だ。優しすぎる性格が不適格と、政府からも評価を下され、本人もそれを認めた結果、えい子は審神者になることは諦めた。代わりに今は政府の所属となって働いている。
 えい子というのは偽名だ。刀剣男士と接触することや、政府の役職の機密性を守るため。様々なことを加味した結果で偽名を勧めたら、本人が「A子とでも呼んで」というので、刀剣男士たちにも馴染めるように、えい子、と呼んでいる。
 私が審神者でありながら唯一普通に接することのできる、同年代の同性。本丸への理解も持ってくれている、とても貴重な存在だ。けれども審神者ではない、優しいただの人間に心癒されたのは皮肉にも私だけでは無かったようだ。えい子の名を出した瞬間に、大包平の表情が微かに変わる。隠し事のできない性格に似合わない、感情をそれとなく抑えつけた表情に。

「お前、明日はどこへ行くんだ?」
「うーん、どこだろうね。私たち、結構行き当たりばったりだから」
「そんな事はないだろう」

 えい子の話になると、こうして大包平は分かりやすく好奇心を見せてくる。どこに行くのか、誰に会うのか、何をしに行くのか、いつ帰るのか。そんなことを細々、聞いてくるのだ。普段の大包平と私ではここまで喋る事が無いのに、えい子ばかりは違うのだ。大包平は、えい子相手には関心を抱き、私にしきりに話しかけてくる様子は、胸の引っ掛かりをどうにか解こうとしているように見える。そう、大包平にとって彼女もまた、特別な存在らしい。
 私が答えをはぐらかしていると大包平はみるみる苛立って、躍起になってくる。そんなにえい子が気になるのかとウンザリしたのと、嫉妬したのとで、私はこの一言で話を切り上げる。

「秘密」

 まだ何か言いたげな大包平の追従を塞ぐように言う。

「女同士の秘密だよ。じゃあね、おやすみ」

 本当はどすどすと苛立ち混じりの足音を立てて部屋に帰りたいのに、皆が寝てる時間だからとこらえる大包平を、鶯丸なら声を上げて笑っていたことだろう。私は笑えない。大包平の恋心を見せつけられるこのやりとりは、序の口だと分かっているからだ。






 昨晩遅くまで仕事を片付けていた分、朝の私はのそりと目覚める。疲れは少し体に残っているが、なんてことはない。数時間後にはえい子が、本丸まで私を迎えに来てくれるからだ。
 半日だけでも現代に帰れる。しかも三ヶ月ぶりだ。期待に胸を膨らませながら身支度を進める。襖の外も賑やかだ。私が出かける予定を入れると、本丸もどこか休日気分になる。

「おはよー」
「おはよう、清光」

 私の部屋に顔を出したのは、鍛錬を終えた後の加州清光だ。挨拶を交わしながらも清光は慣れた手つきで、今日着るワンピースに皺がないかを目を通してくれている。私が外行きの服を着るときは、必ず清光が第三者視点で私を見てくれるのだ。

「顔洗ってきた?」
「うん。保湿はいつもの三倍」
「いいねぇ」

 大包平の恋心には、主としても一人の女としても困ったものだけど、えい子と出かけるのは私にとっては特別なご褒美だ。可愛い可愛い刀剣男士たちに囲まれる生活に文句はないのだけど、何せここは現世とは程遠い。本丸では時に檄を飛ばし、時に何時間もかけて刀剣の手入れをする私だが、中身はただの女なのだ。町に出かけて、目新しいものに触れたい。噂の商品を手に取ってみたい。そのためのとびきりのお洒落だって、何にも変え難い娯楽だ。特に女友達と出かけられるというのが特にいい。気兼ねなく、好きな服を着て、好きな化粧をまとえるからだ。
 数日前から決めていたワンピースに袖を通す。主という立場からか、普段の私は淡い色の着物は着ない。機能性重視で、柄物もほとんど持っていない。その反動であるかのように、出かける私は少し緩い服を着る。簡単に捲り上がるほど袖口が広いものや、膝をくすぐる丈のスカートなんかもよく選ぶ。いつもは邪魔臭く感じてしまいそうなアクセサリーも、これ、というのをひとつ選んでつける。
 一束も溢れないよう結い上げてる髪も、今日は下ろして、唇に乗せるのは、どうにか顔の印象が柔らぐようにと選んだ色だ。
 後ろ髪をかきあげると、何も言わずに背中の留め具を止めてくれるのが清光だ。

「うわぁ、帯のない服、久しぶり。なんだか落ち着かないわ」
「いーじゃん。今日の天気にもぴったりだ」
「メイクは? どうかな?」
「ばっちりじゃん。アイシャドウの色、変えてよかったね。前よりぐっと印象が明るくなってるって」
「あ、ありがとう。清光はほんと褒め上手なんだから」

 大袈裟に褒められてる気はするが、清光はお世辞を言うタイプではない。どこか外してしまっている時はササっと手直しをしてくれる。何も手を加えられないということは合格点をもらえたようだ。身支度は完了した。嬉しい反面、これから待ち受けている光景を想像し、行かなくてはならない次のステップを思うとため息が出た。
 鏡の中、準備は整ったはずの私が浮かない顔をしている。理由を知っている清光も、つられてため息をついた。

「今日も美人だね。でも肝心の笑顔が足りてないよ?」
「多分、難関を抜けられたら平気なんだけどね」
「じゃあさっさと行こうぜ。えい子さんも主を待ってるよ」
「……うん」

 鏡の前で迷っていても、状況は変わらない。ただ強気な主の仮面を被って、本丸の出入り口で待つえい子の手を取れば良いのだ。そしたら楽しい女同士の街歩きが待ってる。私はもう一度、深くため息を吐いてから、立ち上がった。

 玄関口を出ると、やはり想像していた通りの風景が私を待っていた。私を迎えにきたえい子。それに、熱心に話しかける大包平だ。
 私たちが遊びに出かける日、大包平は必ず一番にえい子を迎えに行き、そして束の間の逢瀬を過ごすのだ。いつからか、私には当たり前になってしまった光景だ。えい子には迎えはいらないといつも言っているのだけど、政府関係者と審神者という立場上、これは崩せないらしい。なので今日も私は、うっかり愛してしまった刀が他の女性と寄り添う姿に対面している、というわけだ。

 そろそろ二人の姿に慣れてくれてもいいのに、今日も胸は真新しい傷でも受けたかのように痛んだ。
 大包平が、いの一番に自分の顔を見にくる。その顔はどんなに甘いのだろうか。えい子と大包平。二人が並ぶ体格の差異にも羨ましさを覚えながら、私は声を張った。

「お待たせー!」
「あ、。おはよう」

 大包平と話し込んでいたえい子が、ぱっと花開くような笑顔を見せてくれる。さっきまでは溜息を痛いくらいに飲み込み、うらめしく二人を見ていたくせに、嫌みのない笑顔には私も絆されて、笑顔で駆け寄った。

、これ可愛い! 新しい靴?」
「あ、ありがとう。これは実家に眠ってた靴。古くはあるんだけど、案外今履いても可愛いかなって」
「うん、うん! それにリップはこの前買ったやつだよね?」
「そう。気づいてくれてありがとう! えい子も、今日の服すごく似合ってる。やっぱりこういうシフォンブラウスが着こなせるの、えい子らしくて羨ましい!」

 女子のノリで盛り上がる私たち。大包平は、まだえい子の横で固まったように立ち尽くしてる。

「えい子。いつもごめんねー、うちの大包平が。お相手ありがとう」
「いいのいいの」
「大包平はもういいかな?」
「あ、ああ」

 あくまでも自然に大包平の顔を覗き込むが、大包平が見るのは私ではない。えい子のつむじだ。やっぱりあなたはえい子なんだね。半ば思考停止してることは、貼り付けた笑顔で隠し切る。
 私がいるならする話もないと言うように、大包平は数歩、本丸の方へと戻ってしまった。彼は私が来てからは黙り込んでいて、気をつけてだとか、そんな送り出しの言葉もない。背後に立つ大包平を振り返る事も、彼に行ってきますを言うのも少し勇気がいる。そんな私を優しく促してくれるのがえい子だ。

「行こうか」
「……うん!」

 えい子に促されて、私たちは振り返らずに、本丸の外、現代へと向かったのだった。






 えい子が、嫌な女の子だったらよかったのに。そんなあまり意味のないもしも話が、時々勝手に走り出す。彼女が嫌な女の子であって欲しい理由はたった一つで、私が決して手に入れることのできないものを持つ彼女を、嫌いになりたいからだ。
 けれど今日も私は彼女と過ごす休日を満喫し、えい子を嫌いになるどころかますますこの友人の存在に感謝をする始末であった。

「はー、疲れたー!」
「お疲れ様」

 ふたりして、カフェの椅子になだれ込むようにして座った。帰る前の水分補給にと、アイスティーを注文する。ここでの休憩が、今日最後のえい子との時間になりそうだ。

「えい子、足は大丈夫?」
「うん、平気。思わずたくさん歩いちゃった、でも楽しかった」
「そうだね。私、現代は久しぶりだからはしゃいじゃって、えい子に色々付き合わせちゃってごめんね」
「ううん。わたしも行こう行こうと思って行けてなかったところ、のおかげでまわれてるよ。ありがとう」
「ありがとうだなんて、そんな……」

 えい子の返しにはやっぱり、優しさが溢れている。私がごめんね、と投げかけたボールを、彼女は自然と”ありがとう”で返すのだ。やっぱりこういう人柄に付喪神でも惹かれてしまうんだろうなぁ、と私はまた大包平を思い出した。

、大包平さんのこと考えてる?」
「……ああ、うん、まあね。大包平はえい子のことが気に入ってるみたいだけど、正直わかるなぁって考えてた」

 図星を突かれ、一瞬間を作ってしまった。でも隠すようなことでもないかと、思い、考えていたことを打ち明けた。
 目の前に座る彼女が、大包平の心を奪ってしまったことに嫉妬はしている。だけど、私は刀が人間を好きになることを禁じたいわけではないのだ。

「大包平さんがわたしを? そんなことないよ!」
「でもよくふたりで喋ってるじゃない。大包平の興味が広がるのは、いいことだと私は思ってるよ。えい子は、大包平のことどう思ってるの?」

 えい子の大きな瞳が、わかりやすく困りだす。ややあって、えい子はようやく言葉を選び取った。

「見た目に反して、過保護だよね、大包平さん」
「か、過保護?」
「うん」

 大包平が過保護。全くそのイメージがなかった私は、目を丸くした。驚きながらも、私は本丸で見て来た大包平の記憶をひっくり返す。過保護なところ、あっただろうか。いや、正直ない。私に対しても、他の刀剣男士に対しても、過保護と呼ばれるような行動を私は思い出すことができない。
 ああでも、昨晩も早く寝ろとか言って口うるさかった覚えはある。でも過保護と言われるほどしつこかったわけでもない。やはり彼に、過保護のイメージは見つけられない。
 なのにえい子はそう表現する、ということは。たどり着いた答えを、私は乾いた笑いと共に口に出す。

「……えい子には、そういうところを見せてるんだ?」
「うん、そうなのかも」

 あっけらかんと肯定されてしまった。はあ、と大きなため息が出てしまう。二人の仲は思った以上に順風満帆なようだ。

「まったく大包平は。毎度毎度、どんな話をしてるんだか」
の話だよ」
「……、え」
「大包平さんとしてる話は、の話ばかり」

 そうなんだ。空笑いで相槌を打ったそのあと。私は自分がどんな話をしていたか、あまり覚えていない。ただただせり上がってくる確信を押さえつけるのに必死になったからだ。
 大包平が、気になる女性に話しかけるための話題の種にされている。えい子に近づくための手段に利用されている。そんな私は、もしかしたら、かわいそうなんじゃないだろうか。だめだ、認めたら、いろんなものが音を立ててガラガラと崩れ去ってしまう。本能的な危機感はすでに叫び出して、私の耳をどうにか塞ごうとしているみたいだけれど、すでに手遅れだった。







 私とえい子は事前に決めた時刻通りに本丸のある時空へと戻った。審神者であることや本丸のこと、特殊な事情を隠さずにいられるのもえい子が私の唯一での友人である理由のひとつだ。えい子は、歴史を守る付喪神たちのために、私が必ず本丸に帰らなければいけないことを深く承知してくれている。何も知らない市民には言えない歴史遡行軍のこともえい子となら知識を共有できるからこそ、私とえい子は良い友人関係を作ることができた。
 けれど、大包平とえい子も、同じだとは思わなかった。私とえい子が、審神者という特殊な役目で通じ合うように、共通の話題である私を通じて、二人は恋心を育てているのだ。
 えい子に敵わないことはわかっていた。誰かに愛される魅力や、人をほっとさせる雰囲気、えい子が自然に持ち合わせているそれらは、私がどう転んでも手に入れられない。それでも都合良く話題にされている私は、思った以上に惨めな踊りを今まで見せていたらしい。

「おかえりなさい、主」
「無事の帰還をお待ちしておりました」

 本丸の入り口では、何人かが私の帰りを待っていてくれた。私が無事に帰ってきたことを喜ぶ、慕ってくれている純粋な眼差し。自分の惨めさを思い知った私には、痛いほど突き刺さる。

「ただいま、みんな。変わりない? 急ぎの報告はある? なければ、私は先に済ませておきたいことがあるのだけど」

 楽しい一日だったはずだ。無事に帰れたことにも安堵しているはずだ。なのに、私の頭を覆い尽くすのはやはり大包平だ。
 主と刀として触れ合えた大包平、決して手の届かない大包平。大包平の仕草や表情、それからえい子と私に向ける様々な態度の差が、代わる代わる私を揺さぶって、おかしくなりそうなのだ。
 このままでは到底、皆が慕ってくれる良き審神者には戻れない。急ぎの報告はないことを、刀たちに重々確かめてから、私は夕暮れの本丸に戻り、大包平を探した。

 探していた影は、茜色に染まった廊下で見つけることができた。

「大包平!」

 呼び止めた大包平は道着姿だった。自主鍛錬を一日中していたのか。そう思われるほど、大包平は首元に濃い汗をまとっている。

「帰っていたのか」
「大包平。今、ここで、話がある」
「話? すまない、今鍛錬を終えたばかりでこんな姿だが、いいか?」

 返事はしなかった。爆発寸前の私には、大包平が正装である戦闘服を纏っていないことなどどうでもよかった。ただただ秘めて来た想いが、どす黒い嫉妬に上塗りされて溢れるのみだ。
 大包平に詰め寄るなんて、刀と主の適切な距離をいつも探してる普段の私ならば絶対にしない。私は相当頭にきているようだ。
 それに視界が赤に染まっているのは夕陽のせいかと思ったが、違うようだ。抑えようと思っていたのにまったく意味のなかった語気が、大包平を厳しく口撃する。

「どんな理由があっても、えい子との会話に私を持ち出すのは、違うんじゃない?」

 大包平が何か言いかけた、私の名を呼ぼうとしていたのをわかっていて、私は続けた。

「二人でこそこそしちゃって。あなたがそんな、陰湿な性質だとは思わなかった」
「………」
「それに、私にえい子のことを聞かれるのも、ずっと気分が悪かった」

 えい子のこと、やはり図星だったのだろう。大包平は固まっているが、喉仏はゆっくりと上下し、首筋にはまた新しい汗が伝っている。

「……私の立場では、貴方に人間を好きになるなとは、言えない。刀剣男士には、いつだって人間を愛していて欲しい」

 審神者として、人を好きになるなとは間違っても言えない。彼らが長い時を経て持つ、人に対する様々な感情は尊いものだと思うからだ。

「だけど、そこに私が巻き込まれるのは、不快以外の何物でもない」
「……すまない」

 我ながら口にしていて馬鹿馬鹿しかった。まるで自分は部外者だという言い草は、あまりに白々しい。彼をなんとも思っていなければ、こんな風に怒りに身をやつすこともない。大包平が暗く俯いているのだって、私が嫉妬心に貴方を巻き込んでいるからだ。
 どうして私でないの、どうしてあの子だったの、何がいけなかったの、どうすれば私がその立場になれたの。駄々っ子のような問いが浮かんでは消えて、どんどん私を醜くさせる。

「すまない、好きになってしまって」
「………」

 えい子から、私が都合の良い存在として扱われていることを聞いてから、ずっと炎のような怒りが渦巻いていた。だけど大包平がそうぽつりと漏らした瞬間だけは、胸の痛みが全てを越えた。氷の刃が刺さったような胸の痛みが、怒りさえ消し去ってしまう。

「許されない想いだと、わかっていた。だから、なるべく迷惑をかけぬようにと思っていたんだがな」
「どこが、迷惑をかけないように、よ。すでに大迷惑……」
「そうだな。俺は本当に滑稽だ、バカだったな」

 バカだった。そう大包平は降伏するかのように溢すと、何も言わなくなってしまった。

「……っ貴方が、本当に大包平なら、もっと堂々としなさいよ……!」

 何か手に持っていたら、私は即座に大包平に向けて投げつけていただろう。でもその衝動は大包平が腹立たしいからではない。自信に満ちた彼に情けない表情をさせた、自分への苛立ちだ。そんな理由で、さらなる私の怒りを受け止めさせられるのは、あまりに彼に失礼だ。だから私は逃げ出した。
 大包平に対して、堂々としなさいなどと言いつけたくせに、私は自分の部屋へと逃げたのだ。





 逃げることは卑怯な行いだと後ろ指を指されがちだが、今回の場合は理にかなっていた。
 あれ以上理不尽に大包平を責めずに済んだし、燻っていた気持ちをある程度吐き出したことによって、私は冷静さをようやく取り戻すことができたからだ。
 私が醜い言いがかりをつけた日から、一晩が経った。我に返った、とは言えないけれど、どろどろとした嫉妬心を飼い慣らそうと思えるくらいには頭を冷やすことができている。

 すまない、好きになってしまって。そうえい子への気持ちを認める大包平に直面したことも、良かったのかもしれない。彼の歪んだ表情と言葉を思い出すたびに痛みが溢れかえって、暴れそうになる私の気持ちを制してくれているからだ。
 どうして私は好きになってもらえなかったのだろう。そう惨めに燻る気持ちは消えてはいない。けれど今は怒りよりも悲しさが私の心身を奪っていく。おかげで、私は表面上は審神者として働くことができていた。

 本丸の主としての日常をこなす傍らで悩み続けているのは、大包平にどう謝ったらいいだろうということだ。ひどい言葉をたくさん言ったことを謝りたい。それから貴方の恋を否定したいわけじゃないのだとそれとなく伝えたい。
 どんな風に話したらいいだろう、それとももう今までみたいに話すことさえできなかったらどうしよう。考えるのはそんなことばかりだ。

 意外なことに、その機会は向こうからやってきた。寝支度を始めようとしていた頃を見計らって、大包平の方から私を訪ねてきたのだ。

「いいか?」
「……うん」

 私も貴方と話がしたかった。一握の緊張を押し殺して、私は大包平を部屋に招き入れた。
 私の真正面に、浮かない顔の大包平は跪坐した。跪坐と言っても姿勢の良い単純な正座なのに、大包平の手足の長さ、太さともにバランスが良いのがしびれるほど伝わって来る。同時に、こんな場面でも彼に見惚れそうになる自分に呆れてしまった。
 先日の騒動は、他の刀たちもそれとなく知っているらしい。私と大包平が向き合う部屋どころか廊下には、誰の気配もなく、静まり返っている。

「どうしたの?」

 口火を切ったのは私からだった。向こうから来てくれたのだから、まずは要件を聞こうと思ったのだ。

「先日は、本当にすまなかった」
「ううん、謝るのは私の方。あんな急に、ごめんなさい。すごく感情的で、我ながら恥ずかしかった」
「いいんだ。それほど、腹に据えかねていたということだろう」

 私はもう一度首を横に振った。とにかく、自分を責めているだろう大包平を止めたいだけの、浅ましい否定だった。

「お前にもう迷惑はかけないと誓う。けれど最後に、ひとつだけ聞かせてくれ」
「うん……、いいよ」

 大包平は、茜色の廊下で見せた悲痛な表情を引きずったままだった。
 何を聞かれるのだろう。心当たりは全くなかったが、軽く引き受けられるのも、頭が冷えているおかげだった。

「やはり、現世に男がいるのか?」
「え、っと?」
「いるんだろう?」

 質問は予想外の方向から飛んで来て一瞬戸惑ってしまった。でももう一度冷静さを取り戻して、考え直す。
 えい子に現世の恋人がいるかどうかを大包平は聞きたい、と。つまり大包平が最後に聞きたいこととは、えい子の男性関係についてのようだ。えい子と出かけることを知ると今までの大包平は、せっつくように質問を重ねて来た。全て遠回しなものだったけれど、彼はこれを一番確かめたかったのかもしれない、と思った。
 隠すこともないので、私は素直に自分の知っていることを話す。

「知らない。えい子から恋人の話は、聞いたことがないけど。実際にいるかいないかは、分からない」
「は……?」

 もっと言うと、えい子が大包平をどう思ってるかも私は知らない。でもいずれ、えい子も人と刀が恋に落ちる可能性があると知れば、大包平を好きになる気がした。惚れた贔屓目は存分にあるかもしれないが、大包平に敵う男は現世にそうはいないからだ。
 えい子と大包平の思いが通じあったら、それは私にとっては悲しいことだが、審神者としては喜ばしいことだろう。二人なら有限の時の中で、精一杯幸せになれそうだ。自分の髪の毛をいじくりながら、私は逃避気味にそんな想像を繰り広げた。

 けれど大包平の「違う」という言葉が私を空想の未来から引き戻す。

「違う、って何が?」
「彼女の話じゃない。お前だ」
「え、私?」

 そうだ、と大包平は大きく頷いて私を見据える。

「ずっと俺は、知りたかった。という人間が、独り身なのか、それとも現世に許嫁や婚約者や伴侶がいるのかいないのか。俺が貰い受けることは、可能なのか、それが道義に反することはないのか、知りたかった」

 いじっていた髪の毛の先が、はらりと私の指先から逃げて行く。それを追えないほどに私は驚き、ぽかんと呆けて口を開けていた。

「お前も彼女も、いつもはぐらかす。だからますます怪しく思えた。相手のことを庇って隠しているんじゃないか、とな」

 やはり、いるんだろう。大包平はそう笑った。見目の良い顔に浮かんでいるのは嘲笑に限りなく似ているが、そう呼ぶには苦しげだ。
 改めて、私じゃなくえい子ではないのかと聞きたくなった。だけど問うまでもなく、大包平はまっすぐに私に向き直っている。

「もしかして……、そんなことをえい子にずっと聞いて、探ってたの?」
「ああ。彼女が一番、現世でのお前を知っているだろう? いつもハッキリとした答えはくれなかったがな。いや、答えは貰わない方がいいのかもな」
「なん、で?」
「お前に良い相手がいないと分かれば、俺は当然期待するさ。ならば俺がその立場に立てないか、とな。……それをわかっていて、あの彼女もはぐらかしていたのかもしれないな。俺が、我を失わないように、な」
「……大包平は。どう思ってるの。私が、恋をしてると思う?」

 意外なことに大包平ははっきりと頷いた。

「現世に帰って行くお前は、この本丸では決して見せない化粧を纏う。刀たちの間では質素ですらあるのに、現世のためならば思い切り着飾る。毎度毎度気も利かせて、季節によって、装いも変える」
「ちゃんと、見てくれてたんだ……」
「ああ」

 興味も持たれていないと思っていた。私の個人的なお洒落に目もくれず、大包平はえい子にばかり話しかけている。そう思っていたのが、今ここでひっくり返ろうとしている。大包平が何か物を言うたびに私はどんどん考えられなくなっているのに、それに気づかないで大包平は告白を畳み掛ける。

「現世に帰る日のためには、この大包平の忠告も無視して、いくらかの努力も苦労も払うだろう? だから、そんな代償も惜しくないほどに愛する男がいる。そう思えてならなかった」
「………」
「現世へと帰るお前はいつも不可思議なくらい美しい。それが俺の知らない誰かのためだと思うと、気が狂いそうだったぞ。……? どうしたんだ?」
「顔、見て分からない?」
「照れているのか?」

 頷いた。頷くので、精一杯だった。

「う、美しい、って。貴方にそんなこと、初めて言われた」
「俺にはもう失うものはないからな。それくらい言わせてもらうさ」
「あ、あまり見ないで」
「なぜだ」

 見られたくないのは、恥ずかしがっている自分が滑稽でかっこ悪いからに決まっている。それを大包平に見られるとますます緊張が高まっていく。顔が熱くて、舌も上擦る。柄にもなく目尻に涙まで滲んでいる。だけどそのかっこ悪いはずの私を大包平はまるごと包み込むような柔らかさを宿して見つめてくるのだ。
 大包平の意中の相手は、えい子ではなく私だった。もはや否定できないほど十分に言葉にしてもらった。それでも止まることなく、今度は言葉の外でも、大包平はまっすぐに感情をぶつけてくる。大包平の態度が流暢に私への気持ちを語っている。私は、今までこの情熱に気づかずにいた自分こそが信じられなくなっていた。

「……バカだね、私たち」
「なっ! バカと言うな! バカと言う方がバカなんだぞ」
「うん、私もバカだし、大包平もバカだよ」

 嫉妬心は私の思考や言動を何度となく狂わせた。けれど私の一番の失態は、大包平に宿った熱の矛先を、見誤っていたことだろう。大包平の瞳は動じることなく、こんな私でも構わないと囁いている。

「大包平、ごめんね」
「謝るな。俺が惨めになる」
「違う、大包平に謝りたいことはいっぱいあるけれど、私はずっと勘違いをしてて。大包平はえい子のことが好きなのだと思って……」
「だろうな。じゃないと先ほどの発言にはならん」
「そう、だから、ごめん。私はずっと大包平の気持ちには気づけてなかった。大包平のことがす、好きっていう、自分の気持ちで精一杯で」

 ようやく外に出すことができたこの気持ちは、ちゃんと伝わってくれているだろうか。それを知りたくて、私は大包平の呼吸一つも見逃さぬよう見つめ返した。

「貴方が恋することを否定できなかったのは、私も貴方に一番の恋をしていたからだよ」


 

 誤解が解けたあと、しばらく私たちは何も話すことができなくなってしまった。二人して腰まで沼に入ってしまったようなぎこちない時間が流れる中、私たちは多くの感情を共有していた。急にやってきた照れ臭さ、ここからどうしたらいいのか何も分からない戸惑い、今まではなんだったのだろうという呆れ。それでも拭えぬ嬉しさを。

「とりあえず、両思いということだし……」

 期待を視線に込めて送り、そっと体を前のめりにして大包平に近づく。せっかく誤解が解けたのだから、少しくらい抱きしめ合ったりしてもいいんじゃない。そう下心を抱いていたところ、大包平が触れてきたのは手だった。自分よりもひとまわり大きな手が被さり、美しい骨の通った指があくまで優しく握り込んでくる。
 意識し合って体を触れ合わせた緊張が心臓を鳴らしている。大切なもののように繋がれた手。抱きしめられたいなんてはしたなく思っていたことは恥ずかしいが、それを上書きするのはくすぐったさだ。見た目は文句のつけようがない美丈夫が少年のように触れてきたという落差が、くすぐったい。

「今思うと、意味のない質問だった」
「うん?」

 お互い照れていて、畳の目を数えながらの会話をする。

「お前にどんな相手がいようと、この大包平の前では関係ないからな」
「……自信の持ち方、間違ってるよ」

 諌めるような言い方をしたが、悪い気分はしない。大包平が無敵を自称する姿は好きだ。彼が私以外の誰かを好きになってもいいなんて思えるほどに、私は彼らしさに満ちた大包平が好きだった。
 その大好きな魂を持った男が吹っ切れたように言い切る。

「ああ、俺は間違っているさ」