たとえ父親でもスーツを着ていればなんだかかっこよく見えた。幼い日のことを思い出しても、私を抱き上げる父の顔は時の流れに退色してぼやけてしまっている。なのにスーツの黒っぽくてパリッと堅そうな質感だけは目に焼き付いているのだから、物心ついた時から男性の着るスーツは私に特別な関心を呼び起こすものだった。言葉を持たない頃から芽吹いた無機物への幼い憧れ。それは思春期を越えれば立派なフェチとなり、友人に気になる人がいると話せば第一声で「相手はサラリーマン?」といじられるほどにはこじらせた。
 こじらせている自覚はあまりなかった。確かに一目でときめいて好きかもしれない、と思い始める対象は男性は年上の、ネクタイを結んだ男性が多かった。だけどちゃんと中身でも人を好きになって来たつもりだ。スーツを着ているから好きになったわけではない。
 スーツは単に好きになるきっかけに過ぎないのだ。そう深く自負していた。だから、まさか高校で馬鹿騒ぎを共にしたいけ好かない同級生に打ち砕かれることになるなんて、私は思っていなかったのだ。

 きっかけは今もやりとりが続いている元同級生からきた、同窓会もどきへのお誘いだった。

『流れで元音駒生が何人も集まることになったからもおいでよ。というかもう来るって言っちゃった』

 同校ならではのノリに溢れたその通知。私が気づいたのは、疲れ果てた残業明けだった。
 新卒後、なんとか漕ぎ着けた就職。社会の荒波に揉まれ、疲れた体を引きずり根性論で出勤する日々。なのに疲れのせいで細かなミスを連発。上司からの厳しさと哀れみに溢れた小言をいただいたのは一度や二度じゃない。スーツフェチを発揮する暇もあったもんじゃない。
 端的に言うと私は癒しを求めていた。しょっぱすぎる現実をちょっと忘れたかった。ひと時でいいから、最高に楽しかった高校時代の同級生たちの顔を見たい。だからメンバー確認もそこそこに、私は懐かしむには早すぎるその同窓会もどきに行くことにしたのだった。


 二次会も見据えた土曜日の夜。同窓会もどきの会場は大学生もたむろするような安居酒屋だった。学生時代はファストフードやファミレスにたむろしていた面々が、問答無用のお通しアリのお店に集まるのは互いに大人になった証のような気がした。
 数年会っていない顔もあるとはいえ、高校の三年間を濃く過ごした間柄だ。多分、話し始めたらあの頃みたいなやりとりが自然にどこからか飛び出してくるのだろう。期待を胸に飛び込んだ今日の場は緊張とは無縁だと思っていた。
 けれど今、私は顔を上げられなくなっている。

「ほら、レモンサワー来たぞ」
「……りがと」

 面倒見の良さは相変わらず。私の一発目をどうやら記憶していたバレー部元主将が店員からパスされたグラスを私の目の前に軽々置く。蚊の羽音みたいな謝礼しか出てこなかったのは、黒尾がスーツを着ているからだ。
 そう。黒尾が、スーツを着ている。
 同級生だ。スーツを着てるなんて当たり前だ。なんなら私だって仕事中はスーツを着ている。なのに席に案内された私の目に、スーツ姿の黒尾が飛び込んできたあの一瞬で、私は彼のつま先の先しか見られなくなっている。首の角度は常に下方へ鋭角。着席した今は料理ばかりを凝視している。

 信じられない信じたくない信じられない信じたくない。胸中で念仏のように唱える。
 相手は高校の時には特になんとも思わなかった黒尾だ。高校時代のヤツを思い出せばへらへらしたニヤケ顔が一番に出てくるし、さっき顔を合わせた黒尾の笑い方も変わっていなかった。なのに今はブレザーとは似て非なる襟元に包まれた魅惑の隙間を持つ大人の首元、からのアンニュイな笑みが私の中で明滅している。
 ネクタイをしめた黒尾はあの頃に無かった大人らしさをまとっていた。どうやってもとれねえとぼやいていた寝癖もそういう彼なりのスタイリングなのかな?とギリ思えるくらいには様になっている。けれどそれは男子高校生から社会人になるにあたり順当な成長であり、予想外ではあまり無い。なのに。

 ちらりと目線を上げる。斜め向かいの席で喋ってるはずの黒尾となぜか目が合い、光の速さで首をあらぬ方向へと振ってしまっている。挙動不審とわかっていてもやってしまうのだから、やはりこの胸の不整脈は勘違いじゃないようだ。
 信じられない信じたくないの念仏を唱えないと平静を保てないあたり、手遅れなことに感づきつつも私は自分に言い聞かせ続ける。いくらスーツだからって、黒尾にときめくなんてありえない!

「クロは今日も仕事か?」

 騒々しい店内。斜め向かいの会話に、耳が反応してしまう。そう、私もそれが聞きたかった。
 今日は土曜日だ。周囲も私も皆、私服姿である。なのに、なんでお前だけはスーツとかいういらない属性を引き連れて現れたのか。疑問だったのだ。

「まあな。ちょっと仕事上会いたい人が出てくんのが今日でさ、否応無しに休日出勤よ。いやぁ社会人はツラいねえ」

 なるほど、まぁ働いてればそういうこともあるよね。納得、だけど同時に泣きたい。黒尾が今日の休日出勤を決めていなければ、私は癒しを求めた同窓会もどきでこんな苦しい思いをせずに済んだ。
 休日に仕事すんな! 休めよ黒尾……! まともそうで全くまともでない叫びを私はレモンサワーの炭酸とともに食い締めた。

「あのー、サン?」

 目の前の机を、指先でコンコンと叩かれる。黒尾の指先だ。バレーボールのために爪を丁寧に短く切る習慣は変わっていないみたいだ。
 手元を目で辿って後悔した。彼の手首を覆う二重の布地と、やっぱり隙間にどきりとする。

「やけに静かじゃねえの。もうおネムなんですかー?」

 今度は目を反らすことはできないだろう。大丈夫、相手はスーツを着ているとは言えたかが黒尾だ。覚悟して、自分の中にあの日女子高生だった自分を召喚して、目を上げる。

「なんでそういう言い方になるかなぁ? わたしは別に普通なんだけど」
「お、起きてた」
「まぁ大人になって私も落ち着きを持つようになったってことでしょ」

 ちょうど黒尾が飲み物を飲んだタイミングだったので、見事にぶはっ、と吹き出された。私が顔を隠さずにしかめると余計に笑い出すから思わずため息が出た。やっぱり黒尾じゃん。けっこうマジレスだったのに。

「黒尾げらげら笑いすぎ」
「いやそうだろ。お前が落ち着きって。俺、ほど猪突猛進を体現してるやつ、知らないし」
「はぁ!? どこが猪突猛進よ!?」
「ほらー、アレだよ、アレ」

 お腹を抱え、のけぞりながら黒尾が言う。

「タイプの年上見つけたら即行だっただろ」
「は、え!? 年上好きって……私が?」
「当たり前だろ。俺らの間じゃ有名じゃん?」

 驚いて、言葉を失った。黒尾と距離の近い同級生として過ごして数年、高校を卒業して早くも5、6年。私は今日になって、黒尾や周りがそういう目で私を見ていたことを知ったのだ。
 まあ年上好きと思われてもおかしくないのかもしれない。高校時代の私が憧れを抱いていたのは先生や、外部の講師。やはりどちらもスーツを着ていた姿が刺さり、未熟な恋のきっかけとなった。あの頃は身近でスーツを着ている人といえば年上しかいなかったので、そういった勘違いにつながったのだろう。
 ふと、高校の時の思い出が蘇る。恋した人のスーツ姿がかっこよくて、私はこっそり待ち受けにしていた。授業の合間にそれを見てニヤけていたのが、周りにバレるたびにいじられまくった。笑っている集団の中には、確かに黒尾もいたな。私の待ち受け画面を覗き込み、棒読みで「へー……」と言ってた黒尾の反応もセットで思い出された。1ミリも興味なさそうな死んだ魚の目みたいだったのでよく覚えている。

「年上相手だとちょろくなるの、まだ続けてんの?」
「いや、年上がタイプってわけじゃないんだけど……」

 皮肉にも黒尾のせいで、そこは違うとはっきり言える。私は年上の男性が好きなのではない、スーツを着た男性にめっぽう弱いのだ。悔しいことに黒尾のニヤニヤ顔なんかに苦しくなるこのアホ心臓がそれを証明してくれている。

「でも年上はもうそろそろやめておきな」
「なんで黒尾がそんなこと気にしてんのよ」
「なんでって……。俺らの年代からさらに年上ってなるともうだいぶ上にならねぇ?」
「だ、か、ら、年上は別に趣味じゃないって」
「でも付き合ってたの年上ばっかだっただろ」
「それはそうなんだけどさ」

 むしろスーツに釣られて年上男性と数回付き合ったことで、私は彼らの良いところも悪いところも知っている。
 良いところはやっぱり余裕があるところ。私がバカなことをしても笑って、可愛いなんて一言で見逃してくれる。悪いところは、私のバカに同じ目線に立って付き合ってくれないところ。相手が可愛がってくれているのは伝わってくるものの、ちょっとしたことではしゃいでる子供っぽい自分が恥ずかしくて、耐えられなくなって、次第に関係が硬直していく。
 そうやって私は今まで憧れてきた男性に別れを告げたり、「俺といても楽しくなさそう」と振られたりしてきた。割とお決まりのパターンだったりする。

「まぁ、やめられるものだったらやめられてると言うか、もっとこう、頭良く誰かを好きになりたいとは、思うよね……」

 そうだ。スーツ姿にときめいて高校時代の友達を急に意識しだすとか、バカの所業だ。10代でいられなくなった私たちは、面倒なことに恋愛の先に結婚という選択も重たくのしかかるようになってきた。
 もし結婚なんぞしてしまったら、その後の人生のアレコレをその人と乗り越えなければならなくなるのな。それを踏まえて頭も使って恋する人を選ばなければならないのかもしれない。もっと優しさとか、かしこさとか、モラルをちゃんと持ってるかとか。一緒に暮らしていけそうかとかを考えなければいけないのだろう、多分。
 なのにスーツ姿がスパイク決めてきたせいで冷静でいられないなんて。自分で自分に呆れてしまう。

「それは分かるな」
「それってどれ」
「賢く誰かを好きになれたらいいのに、やめられない〜ってやつ」
「……待って。黒尾の恋愛話、初めて聞いたかも」
「お? 興味あんの?」

 学校内でグラビアが巻頭カラーのマンガ雑誌を回し読みしていた姿を見かけたことがある。そういえば好きな女の子のタイプも聞いたことある。だから異性に興味はありつつも、高校の時は部活一辺倒のバレーボール馬鹿で、浮ついた様子は結局見ずに終わった。
 居酒屋のざわつきをBGMに、黒尾の恋愛に対する私の関心がじわじわ立ち上がってくる。やめられないってどれくらい? いつから、何年くらい? そして誰に? 疑問が私の目の前を駆け巡る。
 だけど食いついてしまったことを秒で後悔した。

 就職先を聞いた時、黒尾のバレーボール馬鹿は一生物だというのが分かった。彼のバレーボールは大人になる前の時間を注いだ青春で終わっていないのだ。
 一生物だからこそ、長い人生を歩み切るために、恋愛とだって両立させたりするわけだ。なるほどね。胸中で響いたその呟きは思ったよりひややかだ。

 大丈夫、これは私のスーツフェチに刺さっただけの浮ついたときめきだ。だから降って湧いたような、軽率な恋心だ。何度も失敗してきたのと同じ、友人に笑われる類の恋なのだ。
 なのにそれが破れてるにしては派手に胸が軋む。

「うーん、やっぱ聞きたくない、かも」

 言葉を放ち、直後に私は焦った。思ったよりマジな雰囲気が漏れ出てしまっていたからだ。

「……は?」
「あ、気にしないで。部活ばっかだった黒尾からそんな話出ると思わなくて、びっくりしただけ」

 すぐさまなんとも思ってなさげのニュアンスを醸し出してフォローの言葉を吐いたが、間に合っていたかはわからない。

「今日は黒尾に色々イメージ裏切られるなぁ」
「イメージ裏切ったのはお前の方だろ……」
「は?」

 意味わからん、と軽口を投げたが、黒尾はそれを拾って返してはくれなかった。

 思ったより喋れてない同窓会もどき。1人だけスーツ姿の肩に問いかける。
 お前も一体どんなイメージを私に抱いていたんだ。

 私はいつも通りだ。
 成長はあるだろうけれど、変わっていない部分も山ほどある。高校時代とその同級生が大好きで、その時にもらった経験や思い出を活かしながらなんとか今を生きている。
 そしてスーツがきっかけで、タネ蒔きされて、いつのまにか小さく咲いていた恋に水をあげ始めている。




(多分1話だけ続きます)