不思議な頼みごとをするなとは思った。ポケモントレーナーのプロであるカブさんが、きずぐすりの類を差し入れて欲しいだなんて。
 カブさんは言わずと知れたプロのポケモントレーナーだ。きずぐすりなどを使う量も普通のトレーナーより格段に多い。その分買いだめも生半可じゃない量をしていたはずだ。届いたメッセージに最初は首を傾げたが、そういうこともあるのだろうと自分で自分を納得させる。
 なぜならいつも頼ってばかりのカブさんが、今は私を頼ってくれているからだ。そう思うと細かいことは気にならない。にんまり笑いが隠せないまま、返事を打つ。

“分かりました、ちょうど手も空いてるのですぐ行きます”

 おっとっと、待てよ自分。そこまでメッセージを書いたが、一度消して書き直す。

“わかった、すぐ行くから待ってて”

 メッセージが無事にトークルームに反映されたのを見て、私はくすぐったく、むず痒い気持ちになった。この距離の近い口調の方が今までよりずっとしっくりくる。そう変化した自分に気づいたからだ。

 カブさんは私の恋人だ。お付き合いはもうすぐで二年。私たちの年は少し、というかまぁまぁ離れている。それでも私はカブさんのことが世界で一番好きで、一緒にいる時間が二番目に好きだ。溢れてきてやまない愛情と同時に、私はカブさんに果てしない尊敬の念も抱いている。そのために付き合ってから今まで、なかなか敬語やですます口調が抜けなかった。
 近頃、ようやく慣れてきたところだった。それが今無理なく気安いメッセージが書けたことが、まるで世界的発明をしてしまったみたいに嬉しい。私はほとんどスキップに近い、軽い足取りでポケモンセンター内のショップを目指した。

 カブさんの指定通りきずぐすりを買い込み、エンジンシティの巨大昇降機に乗れば、すぐこの街一番の名所・エンジンスタジアムが見えてくる。
 時には大勢の観客、時にはジムチャレンジに望む若きトレーナーでごった返すこのエンジンスタジアムだが、今日はしんと静まり返っている。
 理由はカブさんから聞いていた。この時期ジムは数日間に渡って、全体のメンテナンスを行うのだそうだ。観客席の保守点検、大型ライトの取り替え、セキュリティやらチケット販売やらのシステムメンテナンス、などなどなど。
 この時期のカブさんはジムリーダーとして山ほどの書類へのサインしっぱなしなのだという。先日のカブさんも遅くに私の家に来たと思えば、目と腕の疲労に唸っていた。心配になって私は蒸しタオルを作ってあげたんだっけ。

 蒸しタオルで目を休めながらカブさんが言っていたことを不意に思い出す。

『この時期はね、バトルとは別の大変さがあるんだけど、スタジアムのグリーンが一番綺麗になる季節なんだ』

 ハードなバトルが少しお休みになるこの時期に、日頃よりたくさんのくさタイプのポケモンたちに手伝ってもらって青い芝の手入れを行うんだよ。そう教えてくれたカブさんは目に美しいグリーンを思い浮かべたのだろう。微笑んだ表情と、彼の掠れた声が、私に芝の上を走る風を想像させた。

 カブさんから聞いていた通り、裏口は開いていてすんなりジムの中に入ることができた。
 入り口の小さな明かり以外は落とされていて、中はかなり薄暗い。出入り口から入り込む自然光が廊下をかすかに照らしている。

「カブさーん……?」

 踏み入れた私の足音と、カブさんを呼ぶ声が響き渡るも返事をする人はいない。いつも来るときはうねる熱風のような熱狂に包まれているジムが今日は静かだ。
 多分どこかの部屋では業者さんなんかが仕事をしているのだろう。それにしても静かだ。誰もいないと思わせる、眠っているかのようなジム。ちょっとどきどきするな。淡い緊張を握りしめながら私はエンジンジムをさまよった。



 不意に大好きな声で呼ばれる。ジムに入る直前にカブさんにメッセージを入れていたおかげか、カブさんが迎えに来てくれたのだろう。私は廊下の先で、逆光になったカブさんのシルエットを見つけた。

「こっちだよ!」

 どうやらカブさんの立つ場所は外に続いているようだ。ずっと薄暗い廊下を進んで来て、その目で見る外の光は眩しかったけれど、私は呼ばれるがままに廊下を進む。
 眩しい世界にたどり着くと一面に広がった新緑の芝。その上にカブさんはいた。

「わぁ……! 気持ちいい……!」

 そんな言葉が自然と私から出て来た。光をたっぷりと取り込む鮮やかな緑の色。水やりのあとなのか、すっきりと冷たい風がグリーンの上を滑ってきて、私を吹き上げる。透き通るようで瑞々しい草の香りが胸いっぱいに広がった。
 今日もトレーニングを欠かさなかったのだろう。カブさんはウェアをフル装備で着ていて、ポケモンたちもボールから姿を現している。カブさんは私に歩み寄らず、立ったままだ。きっと私にカブさんの元へ来てほしいのだろう。
 手入れしたばかりというこの芝を、私の靴が踏んでしまっていいのだろうか。恐る恐る足を踏み出すとその柔らかさに息を飲んだ。落ち着かない心地がするも、私を待ってくれているカブさんの魔力には抗えない。これが惚れた弱みだなぁと思いながら、私はスタジアムのほとんど真ん中へとたどり着いた。

「綺麗だろう? 座ってみなさい」
「う、うん」

 カブさんがその場にどっしり座る。習って私も腰を下ろすと、指先が今度はじかに美しい黄緑に触れた。
 ポケモンたちの力を借りた手入れのおかげだろう。芝は柔らかく、一本一本の表面はすべすべで、少し冷たい。スタジアムに入ってから私を包んでいた草の香りが、ぐんと強く私を包んで、もっと吸い込みたいと思うあまり息がつまるほどだ。
 少し寒いな、と思ったら、背中側にカブさんのウインディが座り込んだ。

「ウインディ、ありがとう」

 守るように寄り添って、あたたかさと安心感をくれるウインディの首元を撫でてあげると、ウインディは気持ち良さそうに目を細めた。
 カブさんの方は、マルヤクデが体が冷えすぎないように気遣っているようで、彼の模様がじんわりと光って熱を生んでいた。

「あ、これ、頼まれたもの。カブさんのことだから多め多めに買っておいたよ」
「ああ、ありがとう。助かるよ。ご苦労様、少し休みなさい」
「うん」

 周りをぐるりと取り囲む、誰もいない席。吹き抜けのスタジアムから見る空も広く大きく、なかなかの開放感がある。あたりの気持ち良さもそうだが、一番私に効いているのは隣に座るカブさんの深い深い呼吸だ。カブさんの肺が膨らむ音、ふう……と吐き出すとしぼんでいく音に、静けさの満ちた安らぎの中に導かれていく。

「……ここはいつもなら一瞬の気も抜けない勝負の場だけれど、この時期ばかりは落ち着くだろう?」

 カブさんの言葉にはっ、とする。そうだ。ここはカブさんがいつも戦っている場所で、カブさんはこんな景色の中にポケモンたちと立っているのだ。
 観客席からでも、画面の向こうからでもなく、カブさんがいつも見ている景色を見られた。贅沢だなぁ。恋人だからといって変な贔屓はいらないけど、この時間だけは許してほしいと思ってしまった。

「どうだい?」
「カブさんがこの季節が好きだって言ってた意味、すごくわかる」

 だって、贅沢で、幸せだもの。いまこの時間が。
 風の気持ち良さと、ウインディが与えてくれるあたたかさ。それにカブさんの安らいだ顔。静かなまどろみで溶けそうな心地だってする。

「そう、ぼくはこの季節が好きだ。ここから皆が様々なスタートを切るからね。新しいスタートもあれば、再スタートもある。でもそれぞれが、それぞれ、次の目的地に向かって歩き始める。一歩を重ねて挑戦を始めるんだ。それを見送るのがぼくの役目でもあり、同時にぼくの心にも火をつけてくれる」

 横のカブさんに視線を吸い込まれれば、安らいだ表情の中でも燃え続けている闘志がゆらり、見えた気がした。

「でも、今年はぼくもスタートを切ろうと思っていてね」
「いいと思う。カブさんは何を?」

 横に座るカブさんを首の動きだけで見やると、カブさんは柔らかく、でも静かな声で笑った。

「きみと、始めたいことがあるんだ」

 私と、始めたいこと。カブさんのその一言で私は息を詰める。
 さっきまで気持ち良すぎて、ウインディの毛並みに埋もれていっそ寝てしまいたいだなんて思っていたのに、私の意識は予感に叩き起こされた。
 寝そうになっている場合じゃない。カブさんの言葉の先に何が続くかわからないはずなのに、私はカブさんの真剣な表情に神経を戦慄かせた。

「結婚しよう」

 思わず背筋が伸びた私の眼前にカブさんの手のひら。いや、小さな箱が差し出される。カブさんのたくましい指がその小さな箱の蓋をうやうやしくつまみ、開ける。そこにはスタジアムの空を吸って輝くリングが乗せられていた。

「ぼくはきみの人生が欲しい」
「カブさ、ん……」
「答えは急がなくてもいい。でも、ぼくときみの二人でこれからを生きられるように、そしてきみがいつでも笑っていられるように、ぼくは全力を尽くしたいと思う。いいかい?」

 あまりの衝撃に驚いて固まっている私に、カブさんは短い苦笑を漏らした。

「困らせて、しまったかい?」

 その言葉に首を横に振らなきゃいけないのに、圧倒的な量の情報と感情が私をしびれさせている。
 だけど。このまま私が固まっていてはいけない。カブさんの決意に私も応えねばならない。

「い、いきます」
「………」
「これからはずっと、カブさんと二人で歩む。私も、そんな人生をスタートさせたい、です……」

 だからください。そう言わんばかりに左手を、指の先から滑らすように差し出すと、カブさんはそっと受け止めてくれた。
 私の手に添えられる、彼の手が熱く脈打っている。呼応するように私の心臓も熱く、煮えたぎるように打ち鳴っていた。台座から外された指輪が、カブさんによって私の薬指にはめられる。どうしよう、おかしくなってしまいそうなほどに嬉しい。いやすでにおかしくなっているから、嬉しいはずなのにぐちゃぐちゃに泣きそうになっている。
 大好きな人から、離れられなくなる。その契約の瞬間だ。人生で指折りの最高の一瞬を、しっかりと目に焼き付けておきたいのに、私の視界はぼやけて、カブさんの指、芝の青さ、リングの輝き、そしてその奥から私たちを見つめるポケモンたちの色が鮮やかに混ざり合っていた。
 こらえきれず涙がこぼれそうになる私をカブさんが抱き寄せる。

「ありがとう。……愛してるよ」

 私もありったけのありがとうと愛してるよを、カブさんに送りたいと思った。その時だった。

「「「カブさん、さん! おめでとうー!!」」」

 今日のジムは無人だと思っていたのに。スタジアムの入り口から、ジムトレーナーさん、ジムの職員さん、見かけたことのあるスタッフの皆さん、それから彼らのポケモンたち。大勢駆け込んできて私たちを取り囲んだ。
 
「せーの!」

 ぱん、ぱんっ、と掛け声とともに紙吹雪とクラッカーが打ち鳴らされ、私たちに降り注いだ。
 すごい、きれい。胸いっぱいで、そう呟くので精一杯だ。お祝いの拍手に包まれたまま、私を抱きしめたままのひとを見ると、目を白黒させている。

「きみたち、あ、ありがとう。驚いたな……!」

 どうやらこれは本人も知らなかったようだ。ジムの人たちから送られた純粋なサプライズらしい。
 私は全く気づいていなかったけど、ここでカブさんに携わる人たちには、今日プロポーズすることも筒抜けだったのだろう。破顔するこの人が可愛くて仕方がない。
 出そうになっていた涙をそのまま頬を伝わせながら、私は笑った。

「ふふ。カブさん、愛されてますね」

 私たちに花束を渡したいひと、記念写真を取りたがっているひと、クラッカーから出たリボンを巻き取っているひと、ポケモンと一緒に空にハートの炎を描こうとしてるひとに、弾けるような拍手を送り続けてくれるひと、もらい泣きしてるひと。みんながカブさんを祝っている。
 ゴールじゃない、スタート地点に集まった人々。こんなにたくさんの人に愛されてるカブさんが、私はもっと大好きになっていく。

「でもカブさんを一番愛してるのは私ですよ!」

 歓声と紙吹雪の中、私はありったけの愛を込めたキスをカブさんに送ったのだった。





(「カブさんにプロポーズされるお話が読みたいです」とのリクエスト、ありがとうございました!)