恋とはなぜこうも後先考えずなのか。リョウくんからの些細な「おはよう!」の挨拶で自分でも信じられないくらいにときめいて、なのに同時進行でその背後に浮かぶビークインにぐっしょりと冷や汗をかく。

「お、おははは、おはよう……!」

 返す朝の挨拶がみっともなく震えるのはときめきゆえか、ビークインの羽音にびびってしまうからか。リョウくんの笑顔が眩しくて目に焼きつくまでガン見したいのに、全神経はビークインのアゴの形に戦慄してしまっている。

 ああ、やっぱり無理だ、むしポケモン。
 好きな人のポケモンが苦手なまま好きになるって、それはないだろう。
 でもその愚かな恋から逃げ出せないのがこの私、なのだ。



 私のむしタイプ嫌いは、それこそ一目見た瞬間から始まっている。
 独特の眼や手足の形。他のポケモンには絶対ないそれらが、理屈抜きで怖くって、私は森には遊びに行けない子供だった。

『ほら、。見て。ミツハニーは可愛いじゃない』

 そう言って母はことあるごとにむしタイプのポケモンの良さを説明して、私から恐怖心を取り除こうとしてくれた。
 確かにミツハニーは正面から見る限りは可愛らしかった。だけど貴方は裏返ったときのミツハニーの現実をご存知だろうか。お尻がうねうねとうごめいている様はまさしくむしタイプ特有の動きで、あれを知りながら可愛がるなんて私には到底できない。
 一面がどんなに可愛くても、むしタイプはむしタイプなのだ。ミツハニーの裏側事件は、むしポケモンとは絶対に相入れることはないと幼な心に刻み付けられた出来事だった。

 そうして、むしタイプを避けての生活を続けて早10年以上。
 まさか自分がこのシンオウ地方で四天王にまで数えられるむしタイプエキスパートの笑顔に一発で落ちてしまうなんて、思ってもみなかった。
 そのリョウくんは今、私には効きすぎるお顔でこちらを覗き込んでくる。
 えっと。なんでこんな状況になっているんだっけ。ぐつぐつと煮えてきている頭を必死に働かせればようやく数秒前の記憶を取り出せた。『さん、最近浮かない顔をしているよね。大丈夫?』。リョウくんの方からそう、話しかけてくれたのだ。

「どう? 話しづらいことでも、ちょっとお茶しながらだったら少しは話せるかもよ」
「そそ、それって……」
「ボクでよければ、悩み聞かせてほしいです!」

 景色の中から私を見つけて、心配までしてくれた。と思ったら気遣いを感じさせるサラリとした誘い文句。嫌な感触のない、あくまで柔らかく。ただの知り合いという間柄であろうに、彼は私に救いの手を差しのべようとしてくれているのだ。
 私は一瞬でリョウくんを大絶賛したい気持ちに駆られた。目の前で私を覗き込むリョウくんを、すごい、すごい、と拙い語彙で褒めちぎりたい。でも何か声を出すと、するりと言わなくてもいいことまで口から出してしまう気がして、私は緊張で固まるばかりだ。
 黙ってしまった私に、リョウくんは気まずそうに頭の後ろをかく。

「あ、驚かせてしまってたらごめんなさい。自分でどうにかできそうなら、ボクもそれで良いんですけど!」
「いえ、私こそ……。心配をかけていたみたいで、すみません」
「心配はしてました。だってさん、ずっと難しい顔とか落ち込んだ顔とか、ぼーっとしてため息もついてた、し……」

 内心ではぎゃーっと叫び出しそうだ。そんな情けないところまで見られて、気づかれていたなんて恥ずかしい。
 私が羞恥心で顔を熱くしていると、何故だかそれがリョウくんも伝染したらしく彼も照れの見える困り笑いをしていた。

さんに時間あるなら、とりあえず行きません……?」

 そう言ってリョウくんは、中心街の方を指差して、歩こうと促してくる。私がどんな思いを胸に隠しているかも知らずに。







 歩き出した歩調はなぜだか互いにぎこちなかった。とりあえず一番最初に見つけたお店に、気まずく頷きながら入店した。

 私は少し気持ちを落ち着けたくて、暖かい飲み物を注文した。リョウくんは迷わず冷たいジュースを注文している。まだテンガン山から冷たい風が降りてくる日々が続くのに、リョウくんはへっちゃらなようだ。
 内心では寒さに負けないリョウくんへの微笑ましい気持ちで溢れている。だけどそれを口にするわけにも行かない。やはり下手なことを言ってしまいそうで怖いからだ。向かい合って座っている私たちのテーブルは、引き続きぎこちない空気が漂っている。

「すみません。リョウくんにここまで来てもらったくせに、どう話し始めたらいいかわからなくて」
「いやいや! ボク、気にしてないです!」
「でも……」

 さっさと私が話し始めないせいで時間が無駄になっている。私だけが悪いのに、リョウくんは否定するようにブンブンと手を振る。

さんが悩んでることを無理に聞き出したいわけじゃないんです! 今日思わず誘っちゃったのは、ちょっとでも気持ちが軽くなったらそれでいいなって思って。むしろ無理して話さなくても良いんですよ。好きな物飲んで、ちょっと休む。それだけでもいいじゃないですか!」
「リョウくん……」
「それにこうしてるだけでも、ボクはちょっと楽しい、という、か……」

 優しいな、リョウくんは。会話は一向にうまく歩き出してくれない。だから楽しいわけないのに、こちらを決して責めない明るい笑顔で楽しいと言ってくれる。
 一口、適温になったそれを飲み下し、必死に心臓を落ち着けながら私はどうにかこうにか口を開く。

「話したいとは、思っているんです」

 リョウくんの心配と優しさを無下にしたくない。それに、せっかくの二人きりだ。座って、向かい合って、話せる状況。これはいろんな意味でチャンスなのだ。ただ、彼に打ち明けるにはなかなか決心がつかないだけで。
 今だにうだうだと決められないでいる私に、リョウくんは身を乗り出し、私に朗らかな声色で手を差し伸べる。

「じゃあ、質問! それってどんな悩みですか?」
「え?」
「悩み事でよくあるのは人間関係ですよねー。あとは体調の変化とか? ポケモンのことならボクがある程度答えられるんですけど。当てはまるものは、ありますか?」

 自分から言葉を選び出すのは難しくても、選択肢を先に並べられれば、答えはすんなりと喉から飛び出す。

「人間、関係ですね」
「そっか。……それって、恋愛関係だったり、します?」

 私は頷いた。ああ、後戻りができなくなってしまったなと胸の内で呟きながら。
「そっかぁ」なんていうリョウくんは下を向いていてどんな顔をしているかわからない。でもすぐ上げた顔は笑顔と呼べる表情だった。

「そりゃあ難しい顔して悶々と悩みますよね! でも、困ったな。恋愛の問題はボクもそう経験多いわけじゃないし、ボクじゃアテにならないかもしれないな」
「いえ、リョウくんには意見を聞いて見たいんです。そのっ、相手はポケモントレーナーの人なので!」
「ボクと同業かぁ。どれくらいのトレーナー? ほら、兼業の人と専業の人といますよね?」
「その道一筋の、専業のポケモントレーナーの人です」

 例え扱うのが私の苦手なむしタイプでも、トレーナーとしての姿勢には好きと同時に尊敬する。そんなリョウくんが正面に座っていることを、改めてうれしく思ってしまう。

「ただ、私はその人の事がすき、でも、その人のポケモンが好きになれる自信がなくて……。ポケモントレーナー、しかも真剣にその道を極めてる人からしたら、そんなのはお相手にならない、ですよね」

 リョウくんから引き出したいのは、私にとどめを刺してくれる一言だ。「ああ、そういう人は無理ですね」とか、「諦めた方がいいじゃないですか」とか。容赦ない一撃を、リョウくんの口から言われてしまいたい。そしたら私はむしタイプのポケモンを好きになれたら、なんて途方もない願いをもすっぱり捨ててしまえる。

 嘘じゃない気持ちを載せて、でも、大事な情報は伝わらないようにぼかしたつもりだった。
 なのにリョウくんはアッサリと言う。

さんが苦手なタイプのポケモンって……、むしタイプのポケモンだよね!」
「え、あえ!?」

 心臓が飛び出すかと思った。確かに顔に出やすいタイプだけれど、まさかリョウくんにそこまで気づかれているとは思わなかった。

「つまり……」

 リョウくんの顎を指に当てて考える仕草に、緊張がさらに高まる。
 私の苦手な虫タイプのポケモントレーナー、しかもその道を極めるような人物なんて、シンオウには彼以外そうそういない。
 つまり、さんの好きな人ってボクのこと? なんて言われてしまうのではないか。そんな想像が先走って、息もできないほど動悸が激しくなる。

「むしタイプの奥深さを知るボクが、その魅力をさんに教えたらいいってことですね!」
「そ、そうですね?」
「むしポケモンの良さを知れたら、さんの気持ちもきっとつうじます、ね」

 私はこの優しい人を困らせるつもりではなかったのに。とんでもないことになった。後悔がぐわんぐわんと頭の中で鳴り響いている。だけど後先考えずの私の恋心は、痛む胸をも蹴り飛ばして、リョウくんの優しすぎる手を取ったのだった。










 随分前のこと。さんがむしタイプのポケモンが苦手と分かった時、ボクにしてはかなりがっくり来てしまった。好き嫌いが人それぞれにあるのはわかっている。むしタイプは好き嫌いが分かれやすいことも。でもさんの苦手がむしタイプというのには、あんまりだと思ってしまったのだ。
 なるほどボクが、

「おはよう!」

と声をかけるだけで、

「お、おははは、おはよう……!」

というあんまりな返事が返ってくるわけだ。不幸なドンピシャリに、しばらくため息が止まらなかった。

 運の無さはそれだけに留まらなかった。
 最近元気がなさそうなさんに思い切って声をかけて、必死になってお茶を飲むところまで漕ぎ着けた。最初はまるでデートみたいだと浮かれたけれど現実は非情で、ボクはそこで失恋をしてしまった。
 さんには好きな人がいる。
 一行で足りてしまうような、呆気ない理由でボクは再び心折られてしまったのだ。

 悲劇はここからだ。ボクはさんの前で被った、良い人の顔を脱ぎ捨てる事が出来なかった。良い人の見栄を張って、ボクは自分から言い出してしまったのだ。

「むしタイプの奥深さを知るボクが、その魅力をさんに教えたらいいってことですね!」
「そ、そうですね?」
「むしポケモンの良さを知れたら、さんの気持ちもきっとつうじます、ね」

 そしてすぐにボクは自分の言ったことの馬鹿らしさに気づく。気持ち通じたらダメだろ。ほんとボクの馬鹿やろう。
 でもまたさんと会ったり喋ったり出来そうなのは嬉しくて、もしかしたら頼られてしまったりするんだろうかと妄想も止まらなくなってしまった。その日のボクは急にニヤけたり、かと思ったら落ち込んだり。まるで自分を見失ったかのように情緒不安定になってしまったのだった。






 むしポケモンを少しずつ好きになる。そのトレーニングは、むしポケモンを遠くから眺めることから始まった。
 近づくのは難しくても、遠くから見ることならさんも落ち着いていられるようだったから、ボクたちは大樹を臨めるお気に入りのベンチを見つけて、そこを二人だけのトレーニング会場とした。
 大樹に生きるむしポケモンを眺めながら、自販機で一本ドリンクを買ってきて、ちびちび飲んだりする。合間に話すのはたわいもない世間話と、時々むしタイプのポケモンの話。

 トレーニングと呼んだ割に存外のんびりした時間だったけれど、意外に効果はあった。

「ケムッソって、葉っぱを端からちまちま食べていて、律儀で面白いですね」

 以前はケムッソのうねうねした動きが苦手なのだと言っていたさんが不意にそんなことを言い出したのだ。

「っそうなんだよ! むしタイプのポケモンの生きてる姿は見ているだけでわくわくするんだ!」

 ボクの返事はがっついていて、カッコ悪かったと思う。だけど自分の好きな人が、自分と同じものをちょっとでも好きになってくれたのだ。嬉しくてたまらなかった。
 さんが「リョウくんのおかげです」なんてお世辞を言うから、ますます首回りが熱くなってくすぐったかった。

 一人勝手に喜びに湧いてしまったけど、わかってる。ボクの状況は悪くなっている。

「……そういえば、さんのお悩みの、本筋は。どうですか? 相変わらずですか?」

 決まったベンチで待ち合わせを重ねていけばボクとさんは最初よりもかなり打ち解けた。気軽に言い合えることも増えてきて、ボクはそれに乗じて時々こうやって、さんの恋の進捗を聞いている。
 聞くと相手の男は、さんに常々優しくはしてくれるのだという。でもただ、優しいだけなんだそうだ。

「そうだね。変わらず、かなぁ」

 なるほど変わらず、相手の男はいけ好かない八方美人なやつなんだな。ボクは勝手に脳内で悪態を付け足す。
 その気もないのにさんに優しくするそいつが、ボクは好きになれない。いや、相手にその気があっては困る。さんと両思いになってしまうのだから。
 とにかく。ボクとしてはさんに変に期待を持たせ続けているそいつが、全然いい男には思えない。それでも、優しい人なんですよと、屈託なく笑って、さんは頑なにその男の肩を持つ。
 さんがそいつを褒めるたびにボクは言ってしまいそうになる。

 別にさんがむしポケモンが好きになれたとして、その人はさんを好きになるとは限らないんだよ。

 ひどい言葉だ。何がひどいって、ただ一途なさんを傷つけたいだけの言葉だからだ。内容が大嘘なあたりもひどい。だってボクの心は正反対で、その人もきっとさんを好きになるだろうとほとんど確信しているのだから。
 だってこんな可愛らしい人に好きだって言われて、貴方のためにむしタイプの事も理解しようと頑張りましたなんて言われたら、ハイって言うだろフツウ。ボクも好きです付き合いましょうって秒速で返事をしてしまう、なんならそのまま幸せにする覚悟もボクなら決める。いや、ボクがさんの幸せを誓っても仕方がないんだけど。

 風がざあ、と吹く。膨らんだ肺の奥で、いろんな気持ちが綯い交ぜになる。

「変わらずなのは、歯がゆいですね。さんがちょっとずつ変わっていってるんですし、きっといいことありますよ」

 頑張って紡ぎ出したボクの精一杯の綺麗な気持ち。でもさんは「脈なしだけどね」って切なそうに笑う。
 脈なしなわけあるか。そう思うのはただのボクの独りよがりだけれど。独りよがりついでにさんを悲しませてるその相手に一言ぶつけてやりたい、許されるんならぶっ倒したいなんて物騒な考えが思い浮かぶ。それくらいさんのこと好きなのだ。そう好きなのに。

 さんが切なそうな表情を顔に浮かべるたびに、ああソイツのこと好きなんだなって痛いほどに分かってしまう。ほんと、現実はうまくいかない。
 さんがちょっとずつ、ボクの好きなポケモンたちの魅力を見つけてくれる。同じものを好きになれるのが、嬉しい。嬉しいのに、苦いったらない。
 その苦手を克服したら、さんはそいつと思い通じ合って、めでたくハッピーエンドだ。そしてそれはボクにとっては酷いバッドエンド。でもボクは、さんにむしタイプを好きになって欲しい。むしタイプが好きになれた方が、さんにとっていろんな驚きや、楽しさを運んできてくれるはずだから。
 ボクが何もしなくても、さんに好きな人がいる事実は何も変わらない。ならボクが知ってる素晴らしいものたちを大好きなひとに手渡せるチャンスをみすみす逃すなんて、もったいないだろ。だから、次もボクは笑ってさんの元へと出かける。
 ボクが彼女の手伝いをやめる理由はどこにもない。ただちょっと、尋常じゃなく苦いだけだ。

「こんなに人に優しくできるリョウくんにも、きっといいことがあるね」

 確かに、いいことはあった。さんの一瞬の泣きそうな顔が、今日もボクに苦味と一緒に安心をくれるのだ。さんはまだ幸せになれてないというこおは、つまりボクにとっての不幸せもまだ訪れていないのだ。

 ほんと、ボクは全然優しくはない。
 ああさん、むしタイプのポケモンのことは好きになって。でもずっと恋は叶えないで、泣きそうな表情でボクに苦味と、安心を与えて。そんな酷いことをずっとずっと、願っているのだから。