ゴマゾウちゃんを観察しながら、不意にミクリを思い出してしまった。それから向かうことになったコンテスト会場を思い浮かべた時点で、なんとなく意識の端には彼、ミクリのことが質感を得て蘇っていた。
そのせいだろう。ポロックを無事に作り終えた私の足が、外の売店を前にして止まってしまったのは。
売店では本人の許可を取っているのかわからないブロマイドが売られている。所狭しと写真が並べられ、ステージの上できらめくポケモンが前に押し出されつつも、脇にはしっかりと美しいトレーナーたちのピンナップが取り揃えられている。品揃えは非常に豊富だ。
売店自体は、コンテスト会場付近ではよく見られる光景だ。もちろん警備員の姿が見えればすたこらさっさと逃げ出すような無許可の営業で、普段ならまたくだらない商売をしているなと横目で見て素通りするだけだ。
だけど私の目は止まってしまった。目立つところに飾られた、スポットライトを浴びるミクリの写真に。
「うわー……」
たまに広告、たまに雑誌の表紙、たまにニュースの中で見る度に思うことだった。完成されたような彼が、昔の知り合いとは思えない。
吸い寄せられるように一枚、手に取る。不思議な気持ちだ。あんなに近くにいたのに、一秒も見なかった顔から今は目が離せない。
先輩への酷い片思いについては、もう古い思い出として片付けられつつある。たまに思い出して、自分の愚かさに恥じ入り、悶えるくらいだ。
なのにミクリとのことは、まだそうなってくれない。切り取られた彼の姿でさえ、見ただけで幸せなような、泣きたいような気持ちになってしまう。破れたままで続いている感情に、思わず下唇を噛んでしまう。
「まいどあり!」
涙腺がやられそうになっている私とミクリのブロマイドの間に割り込んできたのは、無許可営業の店主だった。
「まだ買うって言ってません」
買うつもりは無い。だけど指先に接着剤でもついていたのかと思うほど、写真一枚がどうにも手放し難い。
「じゃあさっさと戻してくれるかい?」
「………」
私はため息をひとつ吐いた。少しだけ、しばらく会っていないミクリを恨んだ。
コンテスト会場に足を向けた時から、ミクリを思い出していた。だからいつも眠らせていた心の湿っぽいところがざわつくのだろう。一枚の写真で充分に感情を掻き乱されるあたりも、まだ上手く終われていない自分の気持ちを認めざるをえない。
敗北感を覚えながら、私は写真一枚分のお金を店主に支払ったのだった。
今日はなんだかミクリに振り回されている。それでも写真はすぐにしまい込み、その後はゴマゾウちゃんのお世話に力を入れたつもりだった。
彼とはもう疎遠。しばらく声も、エントリーコールのやりとりさえない。私が勝手に思い出したとしても、無駄に気分が湿っぽくなるだけだ。
だからミクリのことは隅へと追いやって、仕事を完遂させたのだが。
「もしもし、そろそろお預かり終了の時間ですが。ゴマゾウちゃんはどこまでお連れすればいいですか?」
「ルネシティまで来ることはできますか?」
「でき、ます……」
つるつるのピカピカ、すっきりした笑顔のゴマゾウちゃんが、大好きなトレーナーの元へ戻れると嬉しがる。その横で、私は暗澹たる気分に沈んでいた。
どうして。どうして今日は全てが、ミクリに繋がってしまうのだろうか、と。
夕陽に染め上げられたルネの街並み。それから今日を一緒に過ごしたゴマゾウちゃんとトレーナーのとびきりの笑顔を見れば、ルネに入るまでは淀んでいた気分はある程度回復した。
冷静になった頭ではよくわかる。
「別に、ルネに来たからって、即刻ミクリに会えるわけじゃないものね」
今の私は祠や、壁の淵まで敷き渡らせた水面がよく見渡せる高台から、茜色のルネシティを一望している。
ここで少しのんびりルネの絶景に浸っても、別にミクリ本人には気づかれやしない。もし気づかれても、ミクリは私をそのまま無視するだろう。そう高を括ったのだ。
もう仕事も終わった。私は仕舞い込んでいた、ミクリのブロマイドを取り出した。スポットライトに縁取られた、ミクリの輪郭を眩しい気持ちでなぞる。
ミクリはすっかり遠い人物になってしまった。
あの頃とは真逆だ。特別な理由はなく、ただそこにいたのがミクリだった。だから私は何か思い立って誰かに言いたいことを、すぐにミクリに投げていた。ミクリ相手じゃなくてもいいことまで、ミクリに頼れるような、贅沢な環境に私はいたのだ。
それを私は、自らの行いによって失った。彼を一秒も見ずに、性格の悪い先輩に溺れていた己のせいで。
景色のいいスポットだ。人が誰もいないわけではなかった。だけどルネに知り合いなんていないも同然だ。景色と同じく茜色に染まるのは無関係な人々だと思い込んでいたからこそ、私は不意を突かれた。
「良い趣味じゃないか」
息が詰まった。現れるはずないと思っていた男の声に驚いたから。でももっと私を動転させたのは、自分がミクリの声を恐ろしくよく覚えていたことだ。
声だけで、彼だとわかってしまうことが、瞬時に恥ずかしさとして私の身を駆け上がった。ミクリの方が見れずに、写真のふちに、少し折れ目が入ってしまったのを呆然と見つめてしまう。
「……なんで?」
私が思わず口にした「なんで」は、いくつもの疑問を内包していた。どうして気づいたの、どうして気づいてここまで来てくれたの、どうして声をかけてくれたの、何を考えて私の前に現れたの。それから、こんなにもミクリを覚えていることと、まだ彼を好きでいる自分に対する"どうして"だった。
ミクリは当然、そんな私の今にも破裂しそうな混乱には気づかないようで、さらりと的外れな返事をくれた。
「空を飛ぶ、ポケモンの影さ。のパートナーだとすぐに気がついた」
「それだけ……?」
「十分期待させられたさ。……久しぶり」
ミクリから、懐かしんだような深い声をかけられると思っていなかった。戸惑った私はぎこちなく、頷きをひとつ返す。
「嬉しいよ! わたしの写真をそんなに熱く見つめてくれるとはね。まぁ盗撮だろうけど、被写体そのものの価値は揺るがないと言うわけだね」
「今日コンテスト会場に行ったら、近くで売ってたんだ。押し売りされたの」
「きみがコンテスト会場に? 珍しいじゃないか」
「うん、久しぶりだったかな。……行ったら、ダメだった?」
そう問いかけたのは、ミクリがそう言いたげな苦い顔をしたように見えたからだ。
僅かな間。答えに詰まったミクリに私は既視感を覚えていた。昔々にも、ミクリの同じような、苦々しい表情を見た気がするのだ。
一度はあの、ミクリから軽蔑されたような視線を向けられた時だろう。他にも記憶が重なりそうになるが、どうも朧げだ。いつどこで、というのがハッキリ言えない。
「ダメではない。どうして今更、って思っただけさ」
「……私、なんか知らないけどミクリに今更って思わせてばかりだね」
今更だよ、。そう言い放った冷たい声の記憶は何度も勝手に思い出されて今も真新しい。
顔を正面へ向ければミクリから向けられた、もっと冷たい視線もよく思い出せる。私の二度目の失恋が、明確になった瞬間だからだ。
「狙ってやってるわけじゃないし、嫌な気持ちにさせたいわけじゃないんだけど」
「そうだね。意図など無い、自然な反応だからこそわたしは……」
「ごめんね、ミクリ。本当に、ごめん」
純粋に申し訳なかった。久しぶりに会ったミクリにすぐさまそんな顔させてしまうとは、自分で自分の存在が嫌になる。
同時に思う。私というやつは、そういうダメな人間なのかもしれない。大事な時に限って、決定的にタイミングが合わないのだ。その大事なタイミングはいつも私が外してしまっている。結果、ミクリにも不快感を与えてしまっているのだ。
先輩に恋をした時もそうだった。私が好きになった時にはもう、先輩にも好きな人がいた。同時にミクリを傷つけた。ミクリへの気持ちを自覚したのも相当遅れた、ズレたタイミングだった。
私があっという間にミクリに失恋したのは、自分の行いの結果なのだ。
「私、仕事でこっちに来てただけなんだ。じゃなきゃルネなんて来るのも一苦労な場所だしね」
「……」
「用事はもう終わったから、行くよ。久しぶりに顔見られてよかった。じゃあ元気でね」
「待ってくれ」
この場から離れようとした私の進路に、ミクリが立ちふさがる。
「今更とは言ったけれど、を責めているわけではないんだ」
「うん?」
「しばらく前にマスターランクさえも制覇して、わたしはコンテストマスターになった。コンテストにおいて殿堂入りを果たした」
私は頷いた。コンテスト会場で、ミクリのポケモンの絵が飾られてるのを見たからだ。もちろんとびきり豪華な額縁の中に、彼が磨き上げた、宝石のようなミロカロスはいた。
「今のわたしはジムリーダーとしての修行に重きを置いているのだが、あと少し前までならわたしは幾度となくコンテストの舞台の上にいた。……フラッと訪れたにもきっと見てもらえただろうと思ってね」
「ミクリの活躍は聞いてたよ」
「知ってて来てもらえなかったのなら、なおさらプライドが傷つく」
「ご、ごめん」
「いくら謝ったところできみは、わたしにとって視線を奪えなかった唯一の人なんだよ」
またミクリが、その顔に似合わない苦い表情を浮かべる。
「先輩の、結婚式の時だよね。謝るよ、ミクリ。私あの時、すごく……」
「言わないでくれ。よく、分かってるから」
伏せられた長いまつげと丸い瞼。その上で形のいい眉が歪んでいる。
私は肩を落とした。やっぱりミクリはあの時のこと、根に持ってるのだ。
身勝手ながら、ミクリが苦しげな顔をしていると私も居た堪れない気持ちになる。
それに今日一日で身に染みて、よくわかった。私は失恋はしたと思っていた。だけどミクリへの気持ちは今もしぶとく生きている。自分の中にさえ残るミクリの影に反応してしまうのは偶然の悪戯などではなく、私がミクリを心のどこかで求めて続けているからなのだ。
「私は、ミクリには幸せになって欲しいんだけどなぁ」
ミクリが幸せになったところを見たい。私の存在など無くともすでに完璧だと彼らしく言い放ってもらいたい。それを見せてもらえたら、この気持ちも先輩の時のように終わってくれるのではないかと淡い期待を抱いてしまうのだ。
「実際のところ、ミクリは結構幸せなのかな。コンテストマスターになったこともそうだし、ジムリーダーになれたのもすごいことだし……」
「わたし自身は非常に恵まれていると思っているよ。だけど飢えた部分がないと言ったらそれは嘘になる」
「ハングリー精神を保つのは大事だよね。さすがミクリだなぁ、今後とも陰ながら応援してるよ」
「陰ながら……?」
「それはそうでしょ」
他のどこなら私の居場所があると言うのだ。そうミクリに言いたいのを堪えて、軽く笑って流す。ミクリが押し黙ってしまったのを良いことに、そのまま私は自分の退路を探っていた。
「ミクリ? 私もう行ってもいいかな? ほら、仕事で疲れてるしさ」
自分がまだミクリを覚えているせいで、私はこんな偶然を掴み取ってしまった。なぜかミクリは引き止めてきたけれど、私はもう、自分のポジションに戻っていいはずだ。
「あ、最後に」
ルネに来るのも、ミクリの周辺をうろついてしまうのも、本当に最後にしたいと思うから、私は蛇足のような自分の想いをそこに付け足した。
「恋はもういいって言ってた私にミクリが言ってくれたよね。悪いことばかりじゃないさ、って。あれ、ようやく私にも理解できたんだ」
ミクリに抱いた気持ちは報われなかった。けれどミクリといた時間や、彼から教わった物事は今の私を作ってくれる。
先輩の結婚式は、本当に酷い思い出だ。けれど誰か一人の人物やモノに対してなら、どこまでも労力を注ぎ込める私の適正を物語っていてくれたような気がする。
そうやって過去の痛みを見つめなおせたのも、あの日対峙し、私を恋に落としたミクリのおかげなのだ。
「いろんな意味で、私を立たせてくれたから、感謝してるの。気づかせてくれてありがとうね。……それじゃ」
逃げ先は上空でいいだろう。ポケモンに飛び乗って、早く帰りたい。その気持ちで私はモンスターボールを取り出した。
ボールを投げることはできなかった。ミクリがボールごと、私の手を正面から掴んだからだ。
ずっとやんわりを私の前を塞いでいたミクリが、こんな強固な手段で私を制止したことに声も出なかった。
咄嗟に手を振り払おうとしてもミクリの手がすっぽりを私の手に覆いかぶさっている。けれど真に私の抵抗の意志を折ったのは、俯くミクリの表情に落ちる暗い色だった。
「あの時のわたしはまだ、苦しみごと愛せていた。きみに見てもらえなかったという悔しさが、わたし自身を燃え上がらせてくれることに気づいていたからだ。だから悪いことばかりじゃ無い、なんて言えたんだ……」
「ミ、ミクリ?」
「一体どうしてきみは気づかないんだ? 一度くらい考えてみろ。あの人の結婚式できみが一秒もわたしを見なかったと断言できるのは、なぜだ?」
答えを考える始めるより前に、ミクリは次を足す。
「わたしがをずっと見ていたからさ」
ミクリの言葉に、じん、とした痺れが走った。
そこに痛みが混じる。彼が掴んでいる手がぎりぎりと、私の手を戒めているからだ。痛いと小さく漏らせば、パッと解放される。
「わ、悪かった……」
手に力がこもってしまったのは、どうやらミクリにとっては無意識だったようだ。離されてしまったが、熱さは手の外側に、濡れたように残っている。
僅かについている赤い跡をさするとミクリが再度謝ってくる。しかしその表情は予想外に傷付けてしまったことを謝っているもののようには見えなかった。むしろ自分の感情をよく知り得ている男の表情だった。
「すまなかった」
「ううん。大丈夫。ただ、そんなに意識してもらってたなんて思わなかったから……」
「ああ、わたしなら、隠したことは一度もないよ。には通じなかったけどね。わたしはずっと、きみから目が離せないでいた」
嘘だと、受け止めきれない頭が勝手にそう言っている。ミクリがなんでそんな私からの評価を気にしてるのか、さっぱり思い至らない。
だけど一方で思う。見てもらえなかったことを悔しがって顔を歪ませているところは、ものすごく、ミクリらしい。
「ミクリ。ミクリのこと見てないってわけじゃないから、そう思い詰めないで」
「果たしてそうかな?」
「そうだよ。だってあのブロマイド、押し売りされたなんて嘘だもの。一目見たら、なんだか手放せなくなって。すごく負けたような気持ちになって買ったんだから。結婚式でのことは言い訳のしようがないし、何の罪滅ぼしにもならないだろうけど……」
盲目だった自分がしでかしたことを、思い出すほどに苦い気持ちになる。
「写真一枚が手放せなかったのは、ミクリの魅力が私に届いたからだよ」
「いや、わたしをもっとよく見てくれ!」
「あわ、わ、……!」
「ほら、目を合わせて」
伸びた背丈の分。少し屈んだミクリ。
近づけられたのは写真に残されるような全てが完成されたようなミクリじゃなかった。目尻に朱色が差している、少し怒ったような顔のミクリだ。彼が唇を震わせる。
「写真の私とは全く違うはずだよ。わたしはずっと、こんな想いできみを見てきた。ちゃんと見えているかい?」
ゆっくりと私は頷いた。それでもミクリは「本当に?」と探るように顔を近づけてくる。
「あの、うん、多分。……今更だけど」
「本当に。今更だ」
私が彼を見なかった。その事実は無くならないり勝手な失恋を抱えてコンテスト会場で輝くミクリを一度も見なかった事実も消せない。
だけどそれを飲み込んで、本当は許せないのに許そうとして、私の意識が気になって仕方がないという態度を彼は見せてくれる。
そうしてミクリが抱える感情は、身に覚えがあった。昔の、先輩に恋をしていた愚かな私である。
愚かなミクリは笑う。
「嬉しいよ、。ああ、まだきみのことが好きなんだね、わたしは」
あの時の私がそんな、心臓を掴みあげるほどの何かを持っていたとは思えないけれど、笑いながら泣きそうな顔をするミクリは私のお腹の奥に火をつけた。
ミクリは私みたいなので本当にいいんだろうか、と思えばすぐにエコーする。私も同じく、ミクリには理解できないような恋をしていた。理解できないのに、目が離せなくなる。
気づけば、私はミクリの唇を奪っていた。魅惑の魔法をかけられたみたいに吸い寄せられてキスをしていた。
相手の気持ちを見つけて、みくびった行為だった。
いけないことをしたと思う。人間としてダメなことを。
だけど率直に言うなら、ミクリの造形が、私に悪いことをさせたのだ。ミクリのせいで、私の思いやりだとかの優しい感情は全部、溢れ出した欲望に負けたのだ。ミクリに触れてみたいという欲望に。
薄く開いたミクリの唇が、彼に走った衝撃を物語っている。
「あのね、ミクリ。今更ですが」
私は何度、彼のプライドを傷付けたことだろう。今だってそうだし、私に酷いこと、何回もされてるのに、それでも私があなたを見てたと知って喜んでしまう。この手足の長い男に宿った純真を、美しいと呼ばないなら、どんな言葉も存在する意味はない。
もっとずっと前から、貴方を見つめ返すことができないくらい好きになってたこと、告げたらどんな顔をするだろう。全部見て、ちゃんと自分のものにしておかなきゃと俄に焦れて、私は彼をまっすぐに見つめて告げた。