ポケモンを拾うことは今まで何度かあった。羽の一部が凍ってしまったマメパト。体の先がしなびたチュリネ。そんな小さなポケモンたちがひとたび目に入ると、大抵の人は放って置けなくなってしまうのではないだろうか。私もそんな大勢いる人間の一人で、マメパトもチュリネも、自分の上着を脱いでポケモンたちを包んで家に帰ったっけ。

 だけど、まさか人間を拾うことになるとは。

 拾いたくて拾うわけではない。人が行き倒れていたら警察や緊急ダイヤルに通報するのが一番無難な対処だと分かっているが、選択肢はそう広く用意されていなかった。
 なぜならそれに遭遇したのががっつり私の家の前だからだ。見知らぬ人間が体を丸め、我が家のドアに体重を預けている。細い、けれど手足の長い男性だ。意識はなく、ピクリとも動かない。若葉色の長い髪だけが風にふわふわと揺れている。

「あの、大丈夫ですか」

 テンプレートな声かけをしながら肩を揺すると、人間と思えないほど冷たい。服越しに冷気を感じるほどだ。その瞬間に私を襲ったのは恐怖だった。この男性が死んでしまったらどうしよう。
 ゾッと走った悪寒に私は荷物を放り出すと、焦る手で家のドアノブを引く。助けなきゃ。その気持ちで頭がいっぱいになり、先のことなんて何も考えられなくなっていた。

 とりあえず家からブランケットを引っ張り出して彼を包む。長身の彼を女性の私が支えることに一瞬ひるんでしまう。
 でもこのままじゃあまりにも危ない。強引にでも背負って、部屋の中に連れ込もう。そう決意して引っ張ったところで彼は薄らと目を開けた。

「大丈夫? ここ、捕まって」

 下から支えてあげれば、彼は足に力を入れてどうにか立ってくれた。彼が歩ける状態なことに、私はひとまず安心した。とりあえず家の、ソファに座ってもらう。そっとすれ違った手はやはり氷のような冷たさだった。

「喋れる? どこか痛いところは? 怪我はない? 気持ち悪いとかは?」
「………」

 暗い影の落ちる瞳だが、私の言葉に反応している。その僅かな揺れを見る限りだが、怪我などは無いようだ。何かに襲われたりしてあそこで倒れていたわけではないらしい。
 彼の表情や体の反応を注意深く見守りながら私は恐る恐る聞いた。

「……お腹、すいてる?」

 怪我でないのなら次に思い当たる可能性はそれだった。空腹による、行き倒れ。
 こけた頬がゆっくりと頷く。

「食べられそうってことね?」

 彼が再度頷くので、私は急ぎキッチンに立った。洗っていないお皿や使いっぱなしの調味料を脇に押し退け、お鍋で湯を沸かす。
 多めにお湯を足した薄めのカップスープに、パンも合わせて差し出した。
 湯気を立てるスープを前にして、暗い影の宿る瞳に一瞬、光が宿ったのが見えた。

「久しぶりの食事なら、ゆっくり食べた方がいいわよ」

 小さく頷いて、彼はスープに口をつけた。一口飲み下してほっと息を吐く様子を見ると、私まで緊張が緩んだ。
 まだ彼についてわからないことだらけだ。だが意思の疎通はできている。見たところ怪我も無い。心配はまだ残るが、思った以上に深刻な容体では無いようだ。
 それでもきっと元気に外に歩いていけるまで数日はかかるだろう。そう踏んだ私は部屋の中をぐるりと見渡して、ふう、と肩を落とした。
 うん、とても散らかっている。特に本やらメモ書きやらがひどい。
 ゆっくりと食事を続ける彼を横目に、私は部屋に片付けに取り掛かったのだった。


 とりあえずその辺にひっかけていた衣服を片付けて、洗濯機を回してリビングに戻ると、彼は食事を終えソファの上で眠っていた。人が寝るには小さいスペースに、大きな体を縮こませて。顔色はそう悪く無いことを確認すると、私はキッチンに向き直る。こちらも相当にカオスな状況だ。

 気づけばダメになってた調味料を捨て、さっき脇へと押し退けた食器類を洗っているとキッチンに、にゅっと影がかかる。先程の彼だった。
 差し出されたのは使い終わった食器だった。

「ありがとう」

 無事に食べ終え、一眠りしたことで体は少し楽になったらしい。こうして立ち上がって持ってきてくれたようだ。それを見て、また私はひとつ安心して彼を見た。
 やはり立ち上がっていると背が高い。だけど私がかけてあげたブランケットをきゅっと握りしめたままなで、すごく子供っぽくも見える。

「えーと、名前を聞いても良い?」

 彼はカサカサに乾いた唇でえぬと名乗った。えぬ、という音は私の脳内ですぐさまアルファベットに置き換わる。
 n。自然数としての記号が先に浮かんできたが、人の名前なのだから大文字のNの方だろう。
 おおよそ人の名前らしくない響き。なるほど、私は本当は名前を教えたくない彼に、イニシャルを教えられたのだろうとすぐ理解した。理解して笑んでおいた。

「そう、Nね。私は。気分はどう? 痛いところや、気持ち悪さは?」

 改めて彼の体調を聞いてみるとNは大丈夫だと言うように首を横にふる。素人判断だが、とりあえず緊急事態というわけではないようだ。

「散らかっててごめんね。一人暮らしだとどうしても面倒臭くて、後回しにしちゃってて」

 Nの顔色を見ながら私は慌ててまだ洗っていなかったお鍋をシンクに沈める。汚い部屋を見られてもポケモンの目なら気にならないのに、人間の目だと急に後ろめたくて恥ずかしい気持ちがわいてくる。人間を拾う面倒さを私は早くも感じ始めていた。

「ごめん」

 Nが小さく呟く。

「ごめんって何が?」
「キミが、慌ててるから。困らせたみたいだ」
「あー……。確かに困ってるけど、多分あなたよりは困ってないから大丈夫! 困ってるのは別の理由。ポケモンを拾うことなら何度かあったんだけど、人間は初めてで……」
「ああ、うん、知ってる」
「へ?」
「キミのこと、トモダチに教えてもらったんだ」
「うん……?」

 私は思わず眉を顰める。友達って、誰のことだろう。彼に友人がいるなら面識のない私を頼れって言うんじゃなく、その友達本人が助けてあげてよと、私の方は脱力だ。

「もう少し何か食べたいならパンか、フルーツくらいなら出せるけど……。あとズボンとか上着とか、脱いで置いてくれたら、洗濯する」
「わかった」
「大丈夫そうならとりあえず、あったかくして寝たら?」

 そう声をかけるとNはウン、とひとつ頷いてそのまま再びソファで寝息を立て始めたのだった。




 立ち上がった時はそのかなりの長身に気圧されそうになった。けれどブランケットにくるまっているNの横顔はやはり少年のようだ。

「……やっぱり病院か、警察に連絡入れたいんだけど」

 そう勧めると同情心さえも刺激されそうな仕草で拒否される。せめて病院だけでもと言えばますます嫌がる様はやっぱり幼く思えた。
 謎めいているけれど、何か悪いことができそうには見えない。なのでとりあえず、今日も引き続き、我が家で様子を見ている。

 彼がイニシャルしか教えてくれなかったように、私も彼にはまだ自分の名前くらいしか教えていない。だけど彼はなぜか私の手元を覗き込むように椅子に座っている。安らぐなら、別にソファだってあるはずなのに。

「これは、何をしているんだい」

 掠れの残る声が聞いてくる。視線は私の手元だ。

「数学の問題を解いてる」

 どうして、と緑の目が囁いている気がして私は一人でに答えた。

「この問題には懸賞金がかかってるから、証明できたらお金がもらえるのよ。まあでも難しすぎるから実質暇つぶしね」
はこれが得意なの?」

 答えはきっと、イエスだ。この部屋を狭く圧迫する書物の99%は数学書。雑誌に見えるのは権威ある論文誌のバックナンバー。パソコンにも片っ端からダウンロードした論文が入っている。私は数学の世界に生きる人間だ。
 でも、この世には私なんてへでもない天才がいるとわかっている。この証明問題だって、まったく解ける気がしていない。そんな自分が数学が得意だなんて言える気分ではなくて、捻くれた私はこうこたえた。

「少なくとも、あなたのパパよりは得意かな」

 ほんの冗談のつもりだった。でもNが僅かに顔を顰めたのがわかった。今まで体調面もあってか凍ったようだったNが、冗談でも家族に触れられて、一瞬感情に波を立たせた。私は見なかったフリをしつつ、Nに家族の話題は慎重にした方がいい、ということを理解した。

「ボクもやってみていい?」
「いいけど。解けたらお金がもらえるくらいだから、難題よ」
「そうなんだ。ボクには楽しそうに見えるよ」
「……お好きにどうぞ」

 問題文の書かれた紙をNに渡す。恐らく必要だろうと思って差し出した紙とペンを、Nは手に取ってはくれなかった。だけどぴくぴくと動く瞳と、口端を僅かに上げたまま震え始めた唇で、Nなりに証明を試みようとしているのが見てとれた。
 数学は苦手だと一目見て投げ出す人は多い。それにこの手の証明問題は、登山道のない大雪山みたいのもので、まずどう解いていいかすらわからないほどに難しい。
 問題に取り掛かれている時点で、確かに彼には数学の素養があるようだ。

「数学、興味あるの?」
「うん。僕のパパよりはね」

 それはさっき私がNの心にさざなみを立たせてしまった、不用意な一言だ。意趣返しをされ、ふっと笑えば、Nも僅かに微笑をくれた。

「この数式を解けば、本当にお金が貰えるの?」
「うん。流石に難しいでしょ。同じ数式なら、こっちをやってくれない? 論文の査読を任されちゃって。やってくれたら助かる」

 別の紙の束をNに渡す。中身は学生たちの卒業論文たちなのだが、今度は簡単すぎたようですらすらと口頭で解かれてしまった。

「待って、紙に書いてくれない?」
「どうして? 数式は解けたよ」
「ああ、うん。そこは疑ってない。解いたっていう証明を書いて、あと矛盾点とか研究の甘い点があったら、指摘しないと」

 Nが目を瞬かせる。

「解くだけじゃだめ、伝えてあげないと。そういう仕事なの」

 数学ができるのなら、試しにと、学生の論文をNに投げてみた。
 学生たちの卒業論文にある数式。それらをNはすらすらと、時に並行して解き明かす。解いたからにはその内容をも私は彼に書かせるつもりだった。
 だけど数行書かせて、私は思わず肩をすくめてしまった。Nに数学の素養はあっても、数学界の慣例は知らないようなのだ。結局、Nの口からこぼれてやまない数式を書き起こすのは私の役割となってしまった。
 査読は解けばいいというものではない。論文との矛盾や証明の甘さを指摘するのもやはり私の仕事になってしまった。

 結論、私はあまり楽をできたわけではなかった。
 けれど私の横で次々に数式を誦じるNは楽しげだ。論文の束を渡してからずっと笑っていること、Nは自分で気づいていない。その姿は、自分の尻尾を追いかけるチラーミィを見るような、ゆっくりとした時間を運んできてくれたのだった。