朝起きると家の中にNの気配がする。それは意外なほどに私の生活にすんなりと馴染んでいった。
今朝は、あくびをすれば口の中に砂が入っていた。舌の上のじゃりっとした食感で、私はまたやせいのポケモンが家に入り込んでいることを悟る。
昨晩はNを揺り起こしたらブランケットの中からヨーテリーが飛び出てきた。その前はチョロネコ。その前の前は、天井に可愛らしい風船が浮かんでいるかと思いきやムンナだった。
Nのポケモンかと聞けば彼は必ず「トモダチだよ」と返事をするので、私は彼の言う友が人間でないことを知ったのだった。
ベッドから足を下ろすと案の定だ。見慣れぬポケモンの姿がある。危うく踏みつけそうな位置にイシズマイがいた。
「君もどこか悪いの?」
昨晩のヨーテリーは随分凍えた様子で、Nの腕の中から出てこなかった。
やせいのポケモンは、特に理由がなければ人間とは関わらないでポケモンたちと生きていく。そういう認識を持っている私からすれば、わざわざ私の家に入り込んだこのイシズマイも何か訳アリに見えた。
じっとイシズマイの返答を待ってみたが、相手はポケモンだ。簡単にその気持ちがわかるわけがない。
「まぁNに聞くか……」
彼らはNの元に集っているのだ。私のトモダチではない。あくびを噛み殺し、イシズマイを置いて朝の準備を始めた。
目元をこすりながら、リビングへ出る。先に起きているNに挨拶をしようとして、私は固まった。
「ああ、おはよう」
朝食用のパンとジャム。それにヨーグルトにスプーンを揃えるNの肩にはマメパトが止まっている。それだけじゃない。椅子の背もたれ部分に追加で2匹のマメパトが止まっている。合計3羽だ。
「……マメパト、多いね?」
昨晩ベッドに入った時に、ひこうタイプっぽいなきごえが聞こえるなとは勘づいていた。疲れていた私はそれを無視して、無理矢理に目を瞑り寝たのだが、まさか3羽もNの元に集っているとは。唖然としている私にNは笑う。
「大丈夫。彼らはもう、すぐにでも旅立つよ」
「ふうん? あ、さっきベッドの足のところにイシズマイがいたんだけど」
「あの子はいたずらヤナップと戦って少し疲れたらしいんだ。ここで休ませてあげていいかい?」
「いいよ。じゃあ放っておくから」
「ありがとう」
「……別に」
私にポケモントレーナーの才能は皆無だ。Nがポケモンたちのことを私に教えてくれるので、どうにか受け入れられている。だからイシズマイも止むを得ず放っておいれいるだけなのに、ありがとうの言葉は不相応だ。私は思わず肩をすくめた。
Nからトーストを受け取る。普通に歩ける様子なんだし、朝のパンとヨーグルトくらいは出してと言いつけて以来、Nは朝食の準備をしてくれるのだ。
普段通りジャムを乗せようかと思ったが、気まぐれでパンをちぎってマメパトへ差し出せば彼らは喜んで啄んだ。
「」
次々にパンをちぎっていれば名前を呼ばれた。かと思いきや、ちぎったトーストをNに没収されてしまった。代わりに差し出されたのはNの分の、真新しいトーストだ。
私はすぐさまそのお皿を突き返して、自分のちぎれトーストを取り返す。
「まだ本調子じゃないんだから、Nの方がしっかり食べなさい。食べたあとは、今日で査読終わらせたいと思ってるから、よろしくね」
「……わかった」
何か言いたげだったNだったけど、査読という言葉を出せば気分が変わったようだ。
本当に、ポケモンと数式でできているような男の子だな。ここ数日で抱いたNへの印象を再確認して、私はヨーグルトに手をつけた。
机の上を片付けて、昨日のうちにプリントアウトしておいた論文たちをNに手渡す。
じきにNがその数式を口ずさみ始める。書き取ったのちに、学生たちに渡せる形へと整えるのは初日と変わらず、私の役割だった。
家にもうひとり、誰かがいることは意外に助かるものだった。
イスに乗って電球を変える時に支えてくれる手があるとか、ちょっとした頼み事ができるなんて些細な理由もあれば、Nの存在がトラブル避けになっていることもそうだ。
Nはいつも優しげだが、その2メートル近い体躯に身にまとう不思議な、自然と頭を下げてしまいそうなオーラがある。そのせいかセールスとか他人にケチをつけたくて出歩いてる暇人とか、人を騙そうと考えるような邪悪なものの方から逃げていくのだ。
彼がまとうものを「気品」と呼ぶのかもしれない。そう思い至ったのはつい昨日のことである。
それにテレビでもラジオでもない生きた音は、なんの意味も持たずとも落ち着かされると知るのは、Nとこうして論文を次から次へと読んでいる時だった。
Nが数字と向き合っている姿が、時間の流れをゆっくりと優しいものに変えてくれるのだ。
ヨーグルトを啄みながら見た窓の外は、分厚い雲で締められている。今日はじきに雨になるだろうとの見当がついた。変えられない予定を控えている私は、小さなため息を飲み込んだ。
「……今日は、教授のところ行ってくる。他の人の、授業の準備も手伝うことになってるから」
「最近よく出かけるね」
「家で何もかもが済むならいいんだけどね。それにお小遣い稼ぎのネタをちゃんと納品しないと」
家でこなしきれない仕事をしに出掛けている。この辺りが表向きの用事だった。
実際に私は、Nと一緒に書き上げた講評を無事に通すことへ神経を使っている。
実際のところはNとの共著であるが、査読者の名義は私だ。
一度、Nの名前を載せようかとは言ってみた。ダメ元の提案だった。トモダチと言えばポケモンばかり。警察にも病院にも行かないNのことだから、名前を出したくないのではないかという気がしていたからだ。思った通り、Nは首を横に振った。
Nの希望を踏まえて、査読者の名義は今も私のまま。指摘内容に嘘は無いし、文言は自分で書き上げている。バレやしないだろう。そう思う一方で、嘘というのは吐くだけでドキドキしていまうものだ。
「それじゃあN、行ってきます」
「待って、」
「ん?」
「今日も帰るのは遅くなる?」
「うん、そうだね。まあNは好きにしててよ」
Nの瞳の薄緑が揺れる。なぜ、と問われている気がして、私はひとりでに要らない補足を話していた。
「あー……。仕事を増やしてるの。教授の手伝いをね。私が望んでやってるの。気にしないで! じゃあ!」
明るめの笑顔でNを突き放して、私はドアを閉めた。屋外の空気はやはり湿っていて生ぬるい。これからの天気を分かりやすく示している。
「あ」
勢いで玄関から傘を持ち出すのをすっかり忘れていた。でもNの前には戻りづらくて、私はそのまま歩き出した。
今の生活は、気に入っている方だ。帰ったらNがいて、その日ごとに違うポケモンが私の元を訪れている。最近では何度目ましてかのポケモンも増えてきて、肩に気軽に止まるようになってきたマメパトを私もトモダチと呼ぼうか迷う。
論文の査読はあまりお金にならない仕事だ。査読ばかりしていては家計は回らず、他に手伝いを増やさなければ収入のバランスが取れない。だけどNと過ごす時間の優しさに浸るにはちょうど良くて、私は最近そればかりにかまけている。Nと数式を読むのが楽しいのだ。
だけどその心地よさとは反対なこの事態に、とっくのとうに、気づいている。私は天才を拾ってしまっていることを。それも、人智で追えるかも怪しいような、とんでもない天才だ。
Nと出会った日。数学が得意なのかと聞かれて、私は素直にそうだと言えなかった。捻くれて、少なくともあなたのパパよりは得意だなんて言い方をしたのは、自分が本当の天才に敵わないことを重々承知しているからだ。
だから天才のことは嫌いだと思っていた。彼らがいるせいで自分の数学の才が、大した事になってしまう気がしたから。
少なくとも今まで会ってきた天才は皆、好きになれなかった。
なのに自分は今、Nと一緒に嘘を吐くのが心地よい。次から次へと生まれたての論文を読み明かしている。二人の対話を通して作ってしまった嘘を素知らぬ顔で本人の元へ返却している。
そして今日も私は教授の元からそういった論文たちを引き受けて帰ろうとしている。
Nのような相手の近くにいるのが危ないと思う一方で、この日々をどうにも止められないのだ。
「帰りたくないなぁ……」
そう、自分の家なのに、帰りたいとも思えない。Nがいるから。汚かった一人暮らしの家はもうどこかに吹き飛んでいってしまって、今はNと彼のトモダチたちの場所に思える。
Nの才能の前に、自分がそこにいていいのか分からなくなる。だから一層、外での用事を増やしてしまっている。なのにいざ帰れば、心地よいと感じる。Nとの生活を続けるために仕事も増やしている。
この矛盾が解けないせいで、最近の私はずっとおかしいのだ。
自分の行動の因果が分からなくて、寝ても覚めても落ち着けない。
帰りたくない、帰りたくない、という駄々を内心こね続けていれば、帰る頃には予想通りの雨が降った。傘は置いてきている。そして雨脚が酷い。帰りたく無い気持ちに、状況が重なれば、私の足は自然と脇道へと逸れていた。
最初はその辺のカフェで、飲み物一杯で時間を潰した。ドリンクにはほとんど口をつけずに、窓の外を、降り頻る雨を私は見つめた。
カフェの閉店時間を過ぎれば、閉まった店の外、暗い窓辺でやはり私は降り続ける雨を見つめた。
気分はまるで、迷路に放り出されたようだった。手渡されたのは文字盤が真っ白なコンパスだけ。針が忙しなく振れているのはわかるのに、その方角が何を示しているのかは分からない。
「」
雨のはざまから届いた声は、静かで忙しなかった私の頭を真っ白にさせるのには十分だった。
「N……」
彼がここに現れたことんも、彼が私を迎えにくる存在であったことにも驚いていた。てっきりNはこの雨の中、私の家にいるものだと思っていた。私の家で柔らかなブランケットを肩にかけ、トモダチたちとの時間を過ごしているものだと。
だけどそれは、彼に対する見くびりだったようだ。Nは傘を持ち、もう片方の手には私に手渡すための傘を持ってくれている。
自分の分の傘。それを見て歩き出しもしない、助かったという顔もしない私に、Nが問いかける。
「雨を見ると落ち着く?」
その問いに私は答えられずにいた。Nの言う通り、雨を見ると気分は安らぐ。けれどその理由は親にも理解されたことがなかった。
そう、子供の頃は親に理解されなかった。雨を見るとそのまま飲まず食わずで何時間でもフリーズしていられる私を、両親は病気かもしれないと心配したものだ。
大人になって、数学者の端くれとして数年生きてきたおかげで、今はなんとなく言葉にすることができる。
雨を見ると、気分が安らぐ。式の通りに落ち、弾け、波を打つ。それが無限に繰り返されるからだ。見つめ続けていると次第に、閃くような数式の渦に呑まれる錯覚を覚える。粒が完璧に揃ったピアノの音に、脳をタッピングされているような心地がして、苦しみさえ忘れられる穏やかな気分になれるのだ。
世界が法則を裏切らない様子を見て、森羅万象は私に優しくもしないが見放しもしないことを知る。全ては法則通りだと、雨を見ればわかる。それが私に深い落ち着きと癒しを与えてくれる。
だから雨を見ると気分が、安らぐ。
だけどそれを誰かに言えば、ふーんとか、すごいねとか、悪くするとカルト的だとか言われてしまう。
だからNの問いかけに頷くのには勇気が要った。今までの、理解されずに寂しい思いをした経験を、振り切る勇気が。
迷いながらも、ウン、と子供みたいに頷けたのは、Nなら、わかってくれる気がしていたからだ。
「そうだね。ボクも落ち着くよ。だって綺麗だから」
雨は綺麗。
多分、N以外に言われても、私は救われなかっただろう。幾多の論文を通した数式の世界で、視界を重ねたことのあるNだから、短な言葉で充分だった。
天才は、必死に生きる私の価値を小さくしてしまうばかりの存在だと思っていた。
天才がいるのに、なぜ凡才が数学を続けていたのか。その理由すら分からない私であった。
こうしてNと語り合うためだったかも。そのために勉強していて良かった、なんて、らしくないロマンチックなことを願う自分に気付けば、そこに迷路の出口は見つかっていた。
見知らぬ、文明の火の消えた窓辺で、私はもう一度、雨を見上げた。
「うん。綺麗だ、ね」
やけにNが無言で考え込むように食事をした。その次の朝だった。
「解けたよ」
事も無げにNがいうので、私は一体何の話をされたのか理解できなかった。
「解けたって?」
「あの問題。キミが、暇つぶしに解いていた、数学の問題だよ」
Nのいう問題というのがすぐには思い当たらず、私は首を捻った。少ししてから、出会ってすぐNに見せた、懸賞金のかかった問題のことだと気がついた。
気がついて、私は思わず立ち上がり、椅子を床に倒していた。
「ほ、本当に? だってあれはそんな簡単に解けるものじゃ……」
「本当だよ。待ってて」
そう言うとNは一週間をかけて、ちゃんと解けたと言う問題の証明を紙に書いてくれたのだった。
紙の束を受けった私にNは言う。
「これでお金がもらえるよね?」
「え……?」
手の中の証明とNを交互に見つめ、呆然としつつ、私はおろおろと首を横に振った。
「それはまだ、わからない。これの数式を他の数学者グループに見てもらって、本当に間違いなく証明ができているか、検証してもらわなきゃならないの」
「……それはどれくらいかかるの?」
「最低でも一年かな。Nが解けたって言うんなら、きっと解けてるんだと思う。だけど並の数学者じゃ、これが合っているかすら理解できないの。複数人の精査を経て、証明されていることの証明がきたら、ようやく発表になると思う。でもNは無名だから、まず私がお世話になった教授に見せて……。そうだ、N」
名義はどうする?
そう聞こうとしていた。だってこれは学生の論文に指摘を入れるような、そんな生易しい話では無いからだ。本当に解けたというのなら、論文の発表者は歴史に名前が残ってしまう。そこに私の名前は貸すことはできない。ちゃんとNの名を載せないと。
そんな肝心なところまでを言えなかったのは、Nに押し倒されたからだ。
「っわ!」
押し倒されたというより、縋ってきたNの重みに耐えきれなくて、二人して床に倒れ込んだという方が正しい言い方だ。
私たちはその場に崩れて、せっかくまとめてくれた証明の式たちが床に散らばってしまったが、それどころではなかった。
横に立ち並ぶだけでもNとの体格差は感じていた。けれど、上に被さられると、すっぽりと覆われまるで逃げ場が無くなってしまう。
優位なポジションを全てNが占めているような体勢だ。なのにNの表情は正反対で、今にも泣き出しそうな可哀想なものだった。
「最低でも一年? そんなの待っていられないよ」
「で、でも。しょうがないことだよ。数式の証明って、そういう慎重に行われるもので……!」
「ボクがどうしてこの問題を解けたと思う?」
「そんなの、Nの頭がいいからに……」
「キミにボクを捨てないでほしいからだよ」
私がNを捨てるなんて。全く考えに無いことを口にされて、私はひくりと喉を固まらせた。その反応はNの目には悪いものに映ったようだ。床に投げ出された私の手を、大きな手のひらが包む。
「トモダチに言われてここに来た。行く宛の無いボクには、キミの助けが必要だったから。でもボクは助けが必要じゃ無くなってしまった。いつ出ていけと言われるのか、怖かった」
私を押さえつけ、捕まえておきながら、Nはなおも私から放り出されることを恐れ、嘆いている。そんな彼の姿に、ぴったりの言葉がすんなりと私から滑り出す。
「……Nはばかだな」
心の底から、今のNには、ばか、という言葉がぴったりだと思った。論文誌が懸賞金をかけた難題なのに、そんな理由で解いてしまうなんて、ばかだ。
それから、Nに出ていけというような、存在しない私の姿に怯えている姿も、私からすると、ばかだなと笑い飛ばしてしまいたくなるものだった。
「あのね、私はNが好きだよ」
「……好きって、なんだい?」
「知らないんだ? Nならわかると思うんだけどな」
「ボクみたいに時々、息もできなくなる?」
ちょっと意地悪をして言えば、Nはその頭で考えた答えをくれた。それがまた私には可愛く感じられて、Nに両手を握られていることがもどかしくなった。
「半分正解だけど、半分は違うかな。好きにもいろいろあるけど、私のは、いてくれるだけで幸せになれる、かな。Nが何もしなくても、いいの」
だからここにいてと、囁く。これからも同じ窓から、雨の定理を一緒に見つめて欲しいから。
冷たい床から首を持ち上げる最中、私はここ最近の悩みを思い出していた。Nはキスを知っているのだろうか、という悩みだ。
この浮世離れした、常識では成り立っていない男の子が知らなくても仕方がないと思っていた。けれど予想外にも彼の唇が私のそれを迎えに来て、その問いも解かれてしまったのだった。
お世話になっていた先生からのホロキャスターを私は切った。先生は今日くらいNと会わせて欲しいと言ったけれど、私は首を横に振った。別に先生に対して意地悪をしたわけではない。単純に彼が今、トモダチとの時間を過ごしているからだ。
「N、あの問題、証明が終わりそうなんだって。おめでと」
Nの出した数式の証明は、あの日からずっと数学会のトップ層の手にかけられ検証が進められていた。ようやく内容の正しさが確認され、近く正式に発表されるらしい。
本来なら大学側も鼻高々。インタビューが殺到し、祝賀会の予定を入れていいような一大事である。だけどNは論文誌に自分の名が載ることには興味がない。そしてこの数式が学会に認められることも、特に望んでいないこともわかっていた。
お金が手に入れば、私とここに居続けられる。そう踏んで解き明かしたまでなのだ。だから私も、パーティーの予定は立てず、こんな中途半端でどうでもいいタイミングでNへと伝えらてしまった。
だけども、Nからの返事が無い。私は不思議に思ってNに近づく。
「N?」
いくら興味がなくても、返事がないのはいただけない。私が再び問うも、Nは反応を示さない。
「……もしかして、ゾロア?」
この流れに見覚えがあり、恐る恐る聞けば、Nの形をしていたものがくるりと回った。あの大きな体躯がみるみる縮んで、小さなポケモンの姿に戻る。
「だ、騙された!」
私の悔しげな反応を、ニシシと笑ってからゾロアは駆け出す。可愛いのに、どうにも悪戯な友を追いかけて、私も辿り着く。
Nがいる、私の最終定理が息づく窓辺へと。