※しれっとマツバさんに監禁されるお話です。ソフトながら病んでる系なので苦手な方は注意です
人間やればできる。そんな成功体験を、18連勤という形で得たくはなかった。
つけてはいけなかった自信を身につけて、私は今日も朝の日差しの下に出る。
暴力的な光の量に一瞬目が眩んで、自分が立っているかどうかもあやふやになった。後三日もすれば久しぶりの休みがやってくる。三日なんてきっとあっという間だ。そう自分に言い聞かせるも、寝不足の頭はどん詰まりで、三日後のこともうまく考えられない。
私は生活のため、生きるために仕事をしているはずだ。なのにその仕事も過ぎれば、人間は過重労働で死ねるらしい。
分かる気がする。体は動く。日付が変わってから眠り、朝起きる事はできる。だけども朝日の中でそれら全てがふっと光に霞んで、溶け出してしまうような感覚がある。溶け出した白い世界では、何が危ないとか、どこに近づいてはいけないとかがあやふやなのだ。
働き過ぎて、死に近づいている。それが実感して、内臓がずくずくと痛みを訴えている。なのに、悠長に『分かる気がする』なんて言ってる時点で、私はおかしくなっていたのだ。
「さん」
「……マツバさん」
朝の挨拶と共に会釈を交わしたのは、近所に住むマツバさんだ。
男性ながら会釈の動作ひとつが柔らかい。膝の横、きちんと揃った指先が示す通り、マツバさんはできた人である。数年前、就職に合わせて引っ越してきた余所者の私にも優しくしてくれるのだ。
「今日も暑いですねぇ」
「うん、参る暑さだね。さんは今日もお仕事かい?」
「はい。正直へろへろですけど、行ってきます」
いつものように二言、三言の世間話を交わして、歩き出そうとした私をマツバさんの凍ったような声が呼び止める。
「そっち、危ないよ」
「あ……」
振り返った鼻先を、ぶおんと車が風を切って通り過ぎる。それも次から次へと。
なるほど、私が進もうとした先は大通りである。
マツバさんが引き止めてくれなければ危うく車道に飛び出しているところだった。遅れてきた汗がだらりと首筋を伝う。
「ぼーっとしてました、すみません」
「大丈夫? 日射病とかかい?」
日射病って久しぶりに聞いた気がする。マツバさんは時々言葉遣いが懐かしい。
「きちんと休めているのかい?」
「あー……。仕事、なかなか休めなくて」
「前の休みって確か」
「先月ですね、あはは……」
気づけば今月も後半に入っている。じきに月末締めの書類が束となって私に押し寄せるであろう。重たくのしかかって来るであろう業務を想像して、急に気持ち悪さが噴き出すようにせり上がってくる。
やっぱり私、日射病もとい、熱中症かもしれない。
くらくら世界が白んで、足から力が抜けていく。
「さん!」
がくりと景色が上へとぶれた。マツバさんは遥か上。違う、私がその場に座り込んだのだ。
灼熱の地面に、カバンの中から私物が転がり出す。それを拾おうとした手を、マツバさんが掴んで引っ張った。
ヒヤリと周りの空気が下がった。横を見るとゲンガーの真っ赤な瞳。マツバさん、ありがとうございます。ゲンガーがいると、涼しくて助かります。
そう言おうとしたところで、ふっと意識が飛んだ。
意識が戻る。同時に、ひんやりとしたシーツの上を四肢が泳いだ。
刺さりそうだった直射日光は今はなく、部屋の空気も冷やされているのに、体の奥に熱が燻っているような感覚がある。
頭の奥がズキズキと痛い。さっきよりは随分と体が楽なのに、起き上がれそうに無くて、私は自分が熱中症だったことを実感した。
「さん、起きたんだね」
「マツバさん……」
木目の天井を背に、マツバさんが目尻を緩めている。安心した。そう吐かれたため息が言っていて、私は彼に助けられ、手当てまで受けたのだと理解した。
「すみません、迷惑かけました」
「見かけた時から顔色が酷く悪かったから、心配していたら案の定だったね。どうしてこうなるまで無理をしたんだい」
「あはは……」
笑って、誤魔化してるみたいな返事になってしまった。はぐらかしているわけではないし、マツバさんの問いかけに答えたくなかったわけでもない。単に、ここまでの無理をしたちゃんとした理由は、私の中にも無かったのだ。
マツバさんはため息をつきながら、私にグラスを差し出す。
切り込みから光を取り込んだ硝子のグラス。中には氷が幾つか浮かんでいる。
どうにか起き上がり受け取るとうっとりするような冷たさだ。喉が渇いていたのでありがたく口をつけると、僅かに甘じょっぱい。多分、お塩と何かフルーツの果汁が入っているみたいだ。
甘じょっぱい水分に、体は正直に喜んだ。ごくごくと喉を鳴らして飲んでしまえば、欠乏していたものが体内に染み渡っていくのを感じた。
「あの、職場に連絡って行ってますかね……?」
「ぼくがしておいたよ。ついでに、さんはしばらく仕事はお休みだよ」
「えっ」
私は思わず声をあげて驚いてしまう。
「有給、確か無いはずです」
「そうなのかい?」
「はい、仕事でこの前ミスをしてしまって。営業所全体の業務成績も悪いから、みんな一律で有給を没取されているのもあって……。多分、今はゼロ……」
「なんだい、それ」
そう言ったマツバさんは、これまであまり見たことのない表情をしていた。顰められた眉。理解できないものを見るような視線が痛い。
何をしていても、いつも口端が緩く上がって見えるような上品な人だ。そんな彼がはっきりと顔を顰めたのだ。普通じゃない不快感をマツバさんが覚えた証だろう。
「お恥ずかしい限りです」
私は身をすくめた。マツバさんに私が特に優秀ではないことが知られてしまった。ミスばかりで、営業所に迷惑をかけているような人間だってことがバレてしまった。
平凡なただのご近所さんの方がまだイメージが良かっただろうなと思い、気分が落ち込んでいく。
「……よく分からないけど、休みについてはぼくが取り付けておいたから大丈夫だよ」
マツバさんの説明こそ”よく分からない”の塊だ。なぜ私の休みをマツバさんが取り付けたのだろう。
けどマツバさんはこの街に長く住み、顔が広く、ジムリーダーでもある。エンジュではマツバさんの一声が街の空気を変えることはよくあるようなので、本当になんとかされてしまったのだろう。
「今はゆっくり休んで」
「でも……」
でも。思い浮かぶのは同じ苦しみを分かち合う同僚たちだ。今頃職場はどうなっているんだろうか。やらなければいけないことが山ほどある中で、一人体力の限界を迎えてしまったの自分が不甲斐ない。欠勤した私を上司は甘ったれだと言うだろう。
想像するだけで喉の奥が引き攣ってくる。
体はこのままここで寝ていたいと言ってはいる。だけど胸は張り裂けそうだ。ふとしたら子供のように泣いてしまいそうである。
「さん? どこか具合が悪いのかい?」
「職場に、迷惑をかけてしまって……不甲斐なくて……」
「そんなことを考えてもしょうがないよ。今のさんには休むことが必要なんだよ」
「でも……」
「……まだ、寝足りないんじゃないかい? ほら、いいから横になろう」
マツバさんは優しい声色を崩さない。荒れた感情も、そのマツバさんの声色に手を引かれたみたいに波が引いていく。暗い底へ落ちていくような速さで、私は再び意識を失った。
ぱちりと目が覚めた瞬間、ゴースが私を覗き込んでいた。
目と鼻の先に浮かぶ、ガス体のポケモン。ぎゃっ、と思わず短い悲鳴が出てしまう。驚いた様子の私を見たゴースは喜んで、大きな口を開けて笑い出す。その口がまた私を丸呑みできそうに大きくって恐ろしい。
「ああ、やっぱり」
ゴースが体を揺らす気配を感じ取ったのだろう。戸が開いて、マツバさんが顔を出す。街で見かける服装ではなかった。ゆったりとした着流し姿のマツバさんが微笑んでいる。
「おはよう」
「おはよう、ございます……」
思わず朝の挨拶を交わしたものの、ガラス窓の外はすっかり暗い。すでに夜遅い時間のようである。
ちょっと待っててね、とマツバさんは言うと、部屋の外に消えてしまった。少しして、マツバさんは美味しそうな匂いと共に戻ってきた。
少しお醤油の落としてあるつゆに、細く白い麺がぼんやり寝かせられている。お盆の上の並んだ丼。その足元にはお好みでどうぞ、と言うように小皿に薬味が盛り付けられている。
「あまりお腹に負担をかけないものを、と思ってね」
確かに、温かな汁でいただく煮麺は病人でも食べられる料理だろう。
気遣いに恐縮だ。お盆の上にはマツバさんの分も一緒に乗っていること気づいているからなおさらだ。
「……もしかして、私が起きるまで待っててくれたんですか?」
「作り置きだと麺が伸びてしまうからね」
「す、すみません」
「さ、美味しいうちに食べよう」
いいのかなぁ、という思いはある。けれど、ここで私があれこれ言うとせっかくの麺が汁を吸ってしまう。
いただきますをして、私はマツバさんお手製の煮麺に口をつけた。
「っ、美味しい、です……。マツバさん、お料理上手ですね!」
「そ、そうかな」
「はい! 出汁とるの、私より上手かも」
お腹をあたためてくれるマツバさんの手料理。その味はたった一口で感動の声が出て、二口で唸ってしまうほど美味しい。
私がしきりに感動しながら食べれば、簡単なことしかしてないんだけどなぁと、マツバさんは首を傾げてぼやいている。マツバさんはどうやら少し照れているみたいだ。
「こうしてゆっくり、誰かと食事するの、久しぶりです」
「……最近はどうしてたんだい?」
「デスクでおにぎり食べたりとか、帰ってふりかけご飯とか。あはは、私ってばお米好きすぎますね」
食事の席で笑ったのも久しぶりだ。
睡眠と、水分と、湯気の立つあったかい食事。マツバさんがくれたものを書き並べてみれば、シンプルなものたちばかり。なのにしばらく私が得ていなかったものばかりだ。それらを補充して、私の心持ちは随分と明るい。
「こんな一日で気持ちが軽くなるなら、どうにか半日でも休ませて貰えばよかったです」
「……さん、もしかして、自分が眠ってたの数時間だと思ってる?」
「え?」
「丸一日、きみは寝てたんだよ」
まるいちにち。そう聞いて、温まったばかりのお腹がきゅーっと冷えていく心地がした。
「もしかして、何度かトイレに立ってお水だけ飲んでまた寝てを繰り返してたのも覚えてない? 日付ももう変わってるから、きみが倒れたのはもう三日も前になるんだよ」
「う、うそ……」
「さん?」
「私、職場にすごい、迷惑を……」
三日も寝てただなんて恐ろしい。おかげで体調は改善した。けれど、今職場がどうなってるか、同僚は二日も職場を空けた私をどう思っているのか。想像するだけで恐ろしい。
私のカバンはどこだろう。職場からの連絡も確認したい。立ちあがろうとした私を、マツバさんは静止する。
「今夜は、もう遅いから。きみもよく残業してたのは知ってるけど、それでも深夜の1時過ぎだ。連絡は明日の朝にすればいい」
「でも、メールだけでも入れておかないと、周りに迷惑が……」
「朝一番に電話をすればさんの誠意は伝わるよ、大丈夫」
大丈夫、大丈夫だから。とにかく今夜は眠ろう。そうマツバさんは繰り返し唱える。まるで子供に言い聞かせるみたいに。私の手から握りっぱなしになっていた箸をとりあげると、マツバさんは私の肩を押して、強引に布団に寝かせられる。少し重たい布団を鼻の下までかけられ、視界を塞ぐように電気を消される。
周りを包んだ夜の暗さは、一層私の不安を掻き立てた。職場は今どうなってるのだろう。その不安が渦巻いて明け方まで眠れなかった。だが、あの温かい煮麺を食べたあとだからだろう。やがて意識の糸は途切れて、私は朝日を見ることなく再び眠ったのだった。
次の覚醒は、寒気に包まれていた。手足がひんやりと冷え切っていて、お腹の奥まで寒さを覚えた。
布団の端も冷水に浸したかのようだ。私の体温が移った部分はぬるく温まっているが、少し体を動かすと、こちらを突っぱねるような冷たさが肌に触れてくる。
また頭痛がした。今度は寝過ぎたせいだろうけど、ズキズキとした痛みが目の奥を走っている。
喉はからからに乾いていた。水分を、できればまたあの味のついた水が欲しくて起きあがろうとして、私は手に絡みついたものの重さに気がついた。
手錠だ。私の利き腕でない方についたそれは、長い鎖がついていてそれは廊下の先へと続いている。鎖の元をたどると、結び目は居間の柱にあった。鍵つきの錠で、鎖の穴と穴を結びつけられている。解けないよう、逃れられないように。
マツバさんの意図が、鎖から伝わって来るようで、私は呆然と立ち尽くしてしまった。
マツバさんは外出しているようだ。家の中は静まり返っている。
私がこの鎖を辿る事を想定していたかのように、居間には書き置きがあった。
紙には柔らかな字体で、今日の帰りが遅くなる事と、この家での過ごし方が記してあった。
内容は簡潔、でも優しい。マツバさんがいなくても、不都合なく過ごせるように、心配りの感じる文面だ。
それでも、一番の不都合は私の片腕に重たく絡みついている。
見知った品の良さが香る気遣いと、理解のできない悪意とも呼べない何か。二つを同時に突きつけられて、私は明るい家の中で呆然と、考えのまとまらない時間を過ごした。
やがて誰もいない家にノイズが混ざる。マツバさんが帰ってきたのだ。私は鎖が許す限りマツバさんに詰め寄った。皮肉にも鎖に限界が来たのは、玄関前、彼を向かい入れるのに丁度いいところだった。
「ただいま」
「おかえりなさい……、じゃなくて。なんで私にこんなものを付けたんですか?」
変わりない笑顔の彼を問い詰めると、マツバさんは平然とした顔をして言う。
「さんは、少しおかしくなってると思うんだ」
「えっ……? おかしいって、私がですか?」
「うん。ぼくからはそう見える。18連勤を疑問にも思わないのが、そもそもおかしい」
「それは……気づいたらそうなってただけです。だって、毎日色々起こる職場なんですよ。だから仕方なく……」
「でも法律違反だよ」
ぴしゃりと言われ、私は押し黙ってしまう。
「それはその……、私がここで頑張らないと、もっとめちゃくちゃになってしまうんです。だから、どうにかしたくて……」
「うん。その気持ちは素晴らしいよ。だけどさんはやってはいけないことをしたんだよ」
脱いだ靴を揃えながら、上着をハンガーにかけながら、コンロにやかんをかけ点火させながら、マツバさんは理路整然と、まるで数学の公式を誦じてるかのような空気感で言う。
「さん。きみは道端で倒れたんだ。あの時ぼくは、怖かったよ。すごく怖かった。ぼくがいなかったら、さんはどうなっていたんだろうって考えると、今も恐ろしいよ」
反論の余地はなかった。あの時マツバさんがいなければ、私はそのまま車道を歩いて車に轢かれていただろう。そうでなくても、熱中症で倒れてる。どちらにせよゴーストタイプの側に行っていた可能性は高い。
「本来なら誰かが止めなきゃいけない行為を、きみはしていた。なのに誰もきみを守ってくれないのだから、ぼくがしたまでだ」
「私の不注意で、心配かけたことは謝りますし、反省してます」
心の底から、申し訳なかったと思っている。だけどそんな私を見て、マツバさんは意外な表情を見せた。悲しげな、切なげな目をしたのだ。
「ぼくはさんの事が心配なんだ」
「マツバさん……」
真剣な表情を見て、ようやく私は自分の思い違いに気がついた。
ここ数日面倒を見てくれたのは、マツバさんが心底優しい人だからではなかった。私が、彼をひどく悲しませてしまったせいだ。私自身に原因がある。そう思えば、申し訳なさに胸が痛んだ。
「ぼくのためだと思って、さんにはもう少しだけここにいて欲しい」
「もう少しって、あと何日くらいですか」
「さんがぼくの心配がいらないくらい元気になるまで、かな」
確かに私はおかしかった。いや、自分のおかしさや限界には気づいていた。なのに見ないふりをして、休みも食事も疎かにしていた。
困ったことにマツバさんの言うことに間違いはなく、この人に結局迷惑をかけて恥ずかしい存在なのは圧倒的に私自身なのだ。
ここで私はもう一度、間違いを犯す。この状況の中で、必死に判断をしようとしたことだ。おかしくなった私は、何も信じるべきではなかった。マツバさんの言うことも、自分自身の判断力も。
「私がまともに、普通になったら……、マツバさんに迷惑かけずに済みますか……?」
彼の瞳が細められて、濃い紫が滲み出す。
「うん、そうだね」
近所に住むだけの人に、そこまで手をかけることがおかしい。いくら心配だからって手錠で拘束することだって、おかしすぎる、まともじゃない。
なのに私はマツバさんの言うことを既に飲み下してしまっていた。だっておかしいのは彼じゃなく、自分の方だから。
「大丈夫、ぼくのしている事は全部きみのためだ」
マツバさんが柔らかく笑う。
お腹がすいたね、今夜は何食べようか。そう話し出すマツバさんに、手伝いますと返事をする。そうやって私は新たな迷路の出口を見失った。