今日は何を食べようとかは、特に考えてなかった。だけど昼休憩に入れば足が自然に動き出す。無意識のようで、行きたいという意識もどこかにある。中間の感覚に身を任せれば、ひとつのお店にたどり着く。
職場から徒歩4分。宝食堂は今日も賑わっている。
引き戸の向こうが騒がしいと思ったら、本日はいつも以上の盛況のようだ。店内に入るなり、カウンター内のおばちゃんから声がかかる。
「いらっしゃい。さん、悪いんだけど今日は相席頼める?」
「あ、どうぞどうぞ。混んでますもんね」
二つ返事で私は頷いた。相席をこんなに快く受け入れられるのはこのお店くらいなものだ。無理な時はちゃんと断れる気安さがあるし、ここの店主はちょっと変わり者のお客さんからはそっと席を離してくれる心遣いがある人だ。
変な人とは相席にならないだろう、という安心感がある。
「ありがとう、助かるよ。アイス無料券つけておくから今度使ってね」
「わ、お気遣いありがとうございます」
なじみのお店には一席分儲けて欲しい気持ちもあるし、アイス無料券は実際嬉しいし。逆に得しちゃったな、なんて思いながら私は案内された席に座った。
「んー……」
今日のお昼は何にしようか。外を歩いていた時は野菜多めのヘルシーランチで行こうと考えていたけれど、お店に立ち込める香ばしい匂いで決心は鈍ってしまったな。楽しく頭を悩ませていると、向かいの席にくたびれたビジネスバッグが置かれる。
向かいの席を覆ったのはスーツの色だった。
「あ、アオキさん」
「失礼します」
相席相手はアオキさんだったか。かなり嬉しい方のお相手だったことに、内心ガッツポーズをしながら、私はお冷を自分の方に寄せる。
座りながら注文を手早く済ませるアオキさんからは、今日も哀愁が漂っている。ついでに私も注文を済ませたのち、お互いに会釈を交わしてから私たちの雑談はスタートした。
「……お元気でしたか」
「元気ですよ。アオキさんは?」
「変わりないです。一週間くらいさんの顔を見なかったので、あれ、と思ってました」
言われて思い返すと私にしては久しぶりの宝食堂だ。いつもなら週に2、3回は来ている。一週間くらい顔を見なかったというアオキさんの指摘がどんぴしゃで当たっているのにちょっぴり驚きつつ、昨日までを思い返す。
「昨日は軽めにサンドイッチの気分だったんで。外の店で食べてました」
「療養休暇という訳じゃなかったんですね。おとといは」
「全体会議があってお弁当が出たんで、それ食べてましたね。そういえばその前も出先の社食でお弁当買わしてもらってたなぁ」
「どちらへ?」
「ハッコウシティです。元同級生の勤め先なので、本当はその人におすすめのお店、連れてってもらおうと思ってたんですけど。忙しくて無理でした」
ハッコウシティの支店にはアカデミー時代の同級生がいる。あの子にハッコウシティを軽く案内してもらう心算でいたのだけれど、そんな時間の余裕はなく。お弁当をかき込むように食べて、ハッコウシティを後にしたのだった。
「……さんっておそらく浮気性ですよね」
「え。そんなこと、ないと思いますけど」
急に話の風向きが変わったなあ。驚きつつ返事をすると、目の前のアオキさんは青白く固まっていた。
「……あの。これって、もしかしてセクハラにあたります?」
「うーん、まあ恋愛トークって職場なら気をつけた方がいい部類ですよね」
「すみません」
私より年上の男性であるアオキさんが、がっくりと頭を下げる。彼の撫でつけられた頭頂部を見て、私は既視感を覚えていた。
以前もこんなやりとりがあった。夕食をとりに宝食堂に来ていて、アオキさんとカウンター席で隣り合った時のことだ。
お座敷の方でおそらく合コンと思われる男女数人の盛り上がり。異世界のようなそれを二人で遠巻きに振り返った後に、アオキさんがぽつりと言ったのだ。
『さんはああいうのよく行くんですか』
アオキさんの質問は私への興味というより、年下女性の考えることや行動への興味だろうと思えた。だから自分は一般的な返事をできるかどうか自信がなく、口籠もっていると、アオキさんが即座に青い顔をして謝ってきたのだ。
セクハラめいたことを聞いてしまったと、後悔しきりのアオキさんに、私は宥めるように言った。
『まあここは職場じゃないですから、あんまりピリピリしなくてもいいんじゃないですか。私がコンプラ部署に報告する心配もないですし』
お互い守秘義務があって、業務のことは話せないのだ。話題に困って、ついプライベートのことに話題が飛んでしまうのは仕方がないことだ。そんな考えで受け流そうとしていたところを、アオキさんは「いや」と首を横に振った。
『そうじゃなくて。さんが嫌な気持ちをしていたら申し訳が立たない……』
かちゃん、と何かがハマる音がした。アオキさんの謝罪は、自分の身可愛さの発言ではない。目の前の私を見て、一人の人間として尊重をして、言ってくれたのだ。
うちの上司とは全く違うな。気づいた時、まばゆい心地がした。ジムリーダーとしても、彼の勤め先も、肩書きが全部軽やかに吹き飛んでいく。隣に座るそのままのアオキさんを、良い人だと深くから思えた出来事だった。
深く丸まった猫背。彼の撫でつけられた頭頂部、それでも隠しきれない黒髪の強いクセを目でそっと楽しみながら、私は言う。
「前にも言った通りここは職場じゃないですから、少しくらい気を抜いてもいいんじゃないですか。でも私以外には口滑らせないようにしてくださいね」
「それは心配ないです」
「本当ですか? 油断禁物ですよ。そんで。なんで浮気性に見えたんですか?」
あえて私から話題を元に戻す。お互い仕事ばかりの人生。仕事の話を封じられたら、話題のバリエーションがぐっと少なくなって、選択肢は少なくなる。それが悲しき会社勤めの生き様なのでもあった。
「ここでの注文も毎回真剣に悩んでるところが」
「それは優柔不断っていうんじゃ……」
「さんは決められないんじゃなくて、あれこれ味見したくて悩んでますよね」
「まぁ当たってますけど……」
意外とよく見てるなこの人。悔しいが感心してしまう。
確かにアオキさんはいつもの、心に決めたオーダーがある。
彼と比べてみれば、日によってあれもこれも食べてみたい私は浮気ものに見えてしまうのだろうか。納得しそうになるが、やはり心外である。
「アオキさんに比べたら、確かにあれこれ食べてるのは浮気性に見えるかもしれませんけど。でも、落ちたら一直線ですよ」
「へえ」
「このお店も、一ヶ月ほぼ毎日来てた時があって」
昼だけじゃなく、夜も来ていたことがあった。一日2食をこの宝食堂で摂ってた時期があるのだ。
仕事終わり、なんとなく一人の家に帰るのを遅らせたかったのだろう。おばちゃんの笑顔やお店の活気があるここでなら、一人飲みをしていても寂しくないと思えた。だから引き寄せられるようにして、私は昼ばかりか仕事終わりにも宝食堂の暖簾をくぐったのだ。
「でも恥ずかしくなって、少しバラつかせるように心がけてるんです」
寂しさと疲れがピークに達していたあの頃に比べれば、週に2、3回の通いは私の中ではかなり押さえている方なのである。
「だからふらふらしてると見せかけて、本当の私は落ちたら一直線で一途なんです! 浮気しがちみたいな偏見は今すぐ捨ててくださいねっ」
「でもそれ、落ちた先が誰かが大事じゃないかい?」
アオキさんに浮気もの呼ばわりの抗議をぶつけていると、ハツラツとした声が割り入ってきた。カウンター内のおばちゃんだ。彼女の声はハイパーボイスのように今日もよく通る。
同じタイミングではいお待ち、とテーブルに置かれたお盆ふたつ。あったかいお出汁の香り。それと、アオキさんのあつあつ焼きおにぎりから立ち上ってくる香ばしさが、空っぽの胃袋をくすぐる。
「ちゃんがもし悪いのに引っ掛かって、そのまま一直線じゃあ大変だ」
「悪いの……」
「あはは、ほんとですね」
「ちゃんと相手は見極めるんだよ! ね、アオキさん!」
「………」
ああ、お腹がすいた。はーい、なんておばちゃんに返事をしながら、私はいそいそと箸を手に取る。
「あれ、アオキさん?」
せっかく出来立てのランチが目の前にあるのに。アオキさんはどっしり重たいため息をついている。
ああ、さてはアレだな。どうにかなる気が全くしない仕事のフラッシュバック、あるある。勝手に深く共感してしまった。
「アオキさん、大丈夫ですか? 私のポンケルゴールドGいります?」
「もう飲んでます……」
「あー……」
一日一本が限度の強力栄ドリを飲んでいてこれなのか。
「まあ今は仕事のことあんまり思い出さないようにしましょ」
もうそれくらいしかかけられる言葉が無く、私はアオキさんの肩をぽんと叩いた。
「あ、これ会社だったらセクハラになるんですかね」
「……私は問題ないですけど、他の人にはしないでいただけますか」
「危ないとこでした、アオキさんで良かったです」
こんな掛け合いができるなんて、自分とアオキさん、以前に比べたらだいぶ仲良くなったと思う。
あと40分後には、私たちは辛いことなんて無いという顔をしてオフィスに戻り、ノーという言葉に蓋をして働く。
そんな日々の繰り返しに自分が耐えきってるなんて不思議でならない。なぜかと聞かれれば、灰色のルーティンに、こんなささやかなスパイスがあるおかげなのだろう。
午後も仕事とバトるため、アオキさんに出遅れて私もいただきますと手を合わせたのだった。
(「アオキとただのOLがなじみの常連のお話」というリクエストありがとうございました)